道化が見た世界

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顔面偏差値とペニス偏差値の非対称性

イケメン、美女、ブサイクといった容姿の美醜、各々の顔面偏差値に、私達の人生は否が応でも左右される。私達は自身の顔に翻弄され、また、他者の顔に翻弄され生きなければならない。その人の顔というのは、そのままその人の魅力に直結する。最も広範かつ恒常的で顕在的な力を、私達の顔は有していると言っても過言ではない。それは途方もなく視覚的で分かり易く、文字通り、明瞭に可視化された、優劣を生む根源である。

 

なぜ顔面偏差値が高いことが最も広範かつ恒常的で顕在的な魅力なのかと言えば、その力が常に誰にでも晒されて可視化されており、隠すことのできない、フィジカルなものだからである。例えば、運動能力に長けている個人がいたとしよう。なるほど確かにそれは個人が持つ魅力の一つになりうるけれども、その力を他者に披瀝するには、体育館やレクリエーション施設といった限定的な空間に足を運ばねばならず、故に、その力は部分的かつ一過的、潜在的にならざるを得ない。歌が上手い個人も魅力的だが、カラオケボックスに行かなければその魅力を最大限に発揮することは難しいであろう。さて、しかしながら冒頭で述べた私達の顔面はどうだろうか。それはずっと私達につきまとって離れない。

 

以上のように、相対的に見ていかに顔面偏差値が強固で不動な魅力であるかはご理解いただけたと思うが、私はそこに一石を投じたい。ここで投じる秘策の一投、その魅力の源泉、それはペニス偏差値である。ペニス偏差値と顔面偏差値の共通項はとても多い。両者は共にフィジカルなものであり、一過的ではなく恒常的であり(顔もペニスも取り外すことなぞ出来ず、代替不可能である)、その個人が存ずる空間には常にその顔とペニスがつきまとって離れない。しかし、両者を別つ唯一にして最大の要素、それは、それが常時可視化されているか否かという点にある。顔は常時他者に可視化(ズルムケ化)されているが、ペニスはごくプライベートな限定的空間でしか可視化されることはない。何故ならペニスを顔と同様に常時可視化してしまえば、

 

 

シンプルに捕まる

 

 

からである。今回私が詳述したいのは、まさにタイトルにもある通りこの顔面偏差値とペニス偏差値の非対称性についてである。男女の身体性において、ペニスは直截的に性的なものとしてタブー視されている。しかし、例えば男性の筋肉であったり、女性の胸やお尻、総合的なプロポーションはペニスほどタブー視されておらず、それはいわば準性的な要素(グレーゾーン)として可視化が大方許容されている(厳密には衣服の上から目視することができる)。女性が男性に対して筋肉触らせてと言及するのは成立するが、女性に胸やお尻を触らせてと言及するのはハラスメントに当たる程度の違いはあるが、そういった意味では、男の筋肉よりも、女の胸やお尻といった身体性の方が性的である。筋肉質な人が好き、あるいは、おっぱいが大きい人が好きといった個人的趣向からも分かるように、それらの要素は可視化されているが故にその個人の魅力になり得る。しかし、ペニスはそのタブー性から可視化されることは許されない。

 

極言してしまえば、顔面偏差値とペニス偏差値の非対称性(顔は可視化され、ペニスは可視化されない)はひどく不公平であり、私はペニス偏差値も顔面偏差値と同様に、法的に問題が起こらぬ限りにおいて可視化されるべきだと考えている。この狂言に一定の説得力を持たせる為に順を追って説明していきたい。

 

一対の男と女がデートをする時、その男が掲げるゴールを便宜的にセックスとする。また女も男に好意を抱いており、一定の相互理解があるものとする。この時、両者の脳内には、その脳内の片隅のわりと端の方には、少なからず、この後ゴールに向かうであろうという思案が巡っている。そしてその思案の中には、その男がいかなるペニス偏差値を有しているかという漠然とした不安の残滓があることは否定できない。

 

つまり、女は(その不可視な性質上)男のペニス偏差値をゴール間近でしか目視することができないというリスキーな状況下に追いやられているのである。男の顔面はデート中常に可視化され目視可能だが、ひるがえって、男のペニスはデート中常に不可視化され目視できず、それはやっとゴール間近で目視して確認できるものになってしまうのである。そこで飛来する懸念事項は、イケメンとは概して身長が低いので、それと同様にしてチン長も低いのではないかという疑念、万が一にも、短く小さかった場合の落胆及び幻滅、その情報開示がゴール間近でしか確認できないというリスクマネジメントの欠如。

 

ペニスが大きいことに価値を見出す、それを魅力とすることがホモソーシャル的価値観であることは否定できないが、しかしだからといって、それが絶対的に魅力になり得ないということでもない。例えば中には、顔面偏差値が高ければ、ペニス偏差値が低くても構わないという人もいるだろうし、顔面偏差値もペニス偏差値もそこまでこだわらないという人もいるだろう。しかし、中には、ペニス偏差値が高ければ顔面偏差値がそこそこでもよいという人が

 

 

 

確実に存在する

 

 

 

という希望に目を向けなければならないだろう。そうなると、可視(ズルムケ)化された顔面偏差値と同様に、不可視(皮かぶり)化されたペニス偏差値も可視(ズルムケ)化しなければ不公平であるのは当たり前である。リスクマネジメント的観点からも、そのペニス偏差値はゴール間近になって引き返せない状況下で開示されるものなどではなく、事前に知っておくべき有意な情報であるべきである。この事前の情報開示、不可視からの可視化(皮かぶりのズルムケ化)が可能になれば、「あなた顔は普通だけど、ペニス偏差値は高いからデートしましょう」という会話が交わされるかもしれない。その可能性が0ではないのならば、顔面偏差値と同じフィールドでペニス偏差値を鑑みる必要があるだろう。

 

最後に一つ、バイアスを取り払い、より平易に理解を促すために思考実験をしたい。顔面偏差値という可視化された情報と、ペニス偏差値という不可視化された情報が逆転した場合を考え、上述した男女のデートの状況に当てはめてみよう。つまり、顔がゴール(セックス)目前までは不可視化され、逆にペニスが常に可視化されている状況である。ペニスは常に公の場で露出することを許容され、逆に顔を出すことは許容されない社会を仮定してみよう。すると下記の4通りの社会における②の社会に該当することが分かる。

 

①顔が可視、ペニスが不可視の社会(現行の顔優位の社会)

②ペニスが可視、顔が不可視(ペニス優位の社会)

③顔もペニスも可視の社会(実現すべき平等社会)

④顔もペニスも不可視の社会(完全不可視社会)

 

②の社会は現行の社会とは真逆の社会であり、この社会では顔面偏差値が広範で恒常的な魅力として作用しない。何故なら不可視化され隠されているからである。この世の全男性が銀行強盗の目出し帽をして顔を隠していると思ってほしい。しかし逆にペニスは常時露出している。常時フルチンである。公の場で顔を露出することは恥ずべきことだとタブー視され、法的に禁止されており、お風呂に入る時や、男女がデートをしてゴールする直前など、至極プライペードな空間でのみその露出が許容されている。

ペニスこそが本体であり、あくまで顔は不可視化された付属品に過ぎない。そしてそのペニス偏差値、ペニスの造形や長短、硬度やその持続力などは十人十色であり、それぞれの要素が複合的に混ざり合いその魅力を確定させる。女は男がいかなるペニスを有しているか査定し、より多くの魅力を持ったペニスがイケペニスあるいは美ペニスとしてチヤホヤされ、相対的に魅力のないペニスはブサペニスとしてその地位を甘んじることになる。

女は無論、ブサペニスよりも魅力的なイケペニスとデートをしたいと考える。そしてゴール目前、彼女は男がこれまで被っていた目出し帽を脱がす。すると、そこに想像を超えたブサイクな顔面が現出した。イケペニスではあるが、顔はブサイクである。どうしよう。これまで目出し帽で隠されていたが故に確認することができなかった。もっと前もって目視することができれば、イケペニスかつイケメンの男とゴールすることができたのかもしれないのに。あるいはそこそこペニスでも、イケメンだったらデートしたのに。なんで隠してるの?なんで直前まで隠さないといけないの?!リスクマネジメント的観点からも問題ありなのではないか!?

 

 

現行の社会もまさに同じ状況なのである。

 

 

現行とは真逆の社会を想起することによって、タブー視され不可視化されているペニス偏差値という魅力の源泉を、フィルターをかけずにクリアに見ることができたのではないだろうか。故に①の現行社会も、上述した②の社会もどちらか一方が可視であり他方が不可視な不平等社会であることに違いはなく、私が求める理想社会は、③の、その両者の魅力が可視化された社会である。③の社会ではその魅力の情報に非対称性は無く、事前に顔とペニスの情報開示がなされ、その開示された全情報を総合的に鑑みてから個人を選択することが可能になる。最後の④完全不可視社会は、もはや二つの魅力は力として作用することができず、他の複合的な魅力が作用する社会である。例えば、声がカッコイイ・可愛いであったり、いい匂いがするであったり、知的であったり様々な魅力がその源泉となるであろう。

 

③顔もペニスも可視化された、私の想い描く理想社会を実現する為の現実的な方法論はあいにくまだ発見されていないが、今回のこのテーマに次章があるとすればまさに、その方法論を語るフェーズに移行した時であろう。待て、次号!