道化が見た世界

エンタメ・エッセイ・考察・思想

卒論メモ

アダム・スミス「言論力、根源的欲望、共感機能、エゴ」ファルスの根源的所在

政治的個人の前提
マキャヴェリ「愛の恐怖の両立」→共笑と嘲笑

ファルスの社会的機能、機能的有用性
必要機能→規律機能、反逆機能・剰余機能→調和機能、祝祭的笑い・愛ある笑い
笑いの両義性
ベルクソンの矯正作用とポジティブ・イデオロギーの不完全性

時空間想定、相互関係・作用の説明
ファルスの秩序形成




(1)はじめに
笑いには政治的な力、つまり、個―個の相互関係における支配構造を変動させる力がある。私が本論文「笑いと政治」を書こうと思い立ったそもそもの動機は、その経験的確信を理論化・体系化させたいと思ったからである。私達は日常生活の会話の中で、あるいは、テレビのバラエティ番組などの至る所で、笑いを日常的に受信したり、発信したりしている。笑いはまさに、西洋にも東洋にも、古代にも現代にも、人間のあるところ必ずそこに存在する普遍的現象である。人は時に笑って喜びや楽しさを表現したり、他人を笑わせて得意になってみたり、逆に意図せずも笑われてしまい傷心したりと、そこには一過的・反射的なact-reactの作用があるだけで、一切の政治性が無いように思われる。本論の試みは、その「笑い」の内に政治性を見いだし、その力を自覚的・主体的に行使する個人を想定することによって、秩序形成の可能性を探るものである。


よって、本論で想定する個人は必然的に、「『社会をより良く作り変える』という自負心を持ち、『力』を自覚・志向し、自己の支配を膨張主義的に拡大させる」個人主体、つまり、政治的指導者としての個人をその前提に置く。また、ジョセフ・S・ナイの「力」の定義(ハード・パワー/ソフト・パワー)を援用し、前者を「自分が望む結果になるように他人の行動を変える能力」、後者を「他人を味方につけ、自分が望む結果を他人も望むようにする能力」とする。そして、そのような「力」としての笑いを「ファルス(FARCE)」と定義する。


本論の中心的概念であるファルスは、ハード・パワーならびにソフト・パワーとしての両側面をそれぞれ併せ持っている。前者は心理的暴力(排除・矯正)としての笑い、嘲笑であり、後者は個人の人格的魅力・エンターテイメント精神からくる愛ある笑いにそれぞれ符合する。嘲笑は人に恐怖を与え、愛ある笑いは、人に楽しさや喜びを与える。ファルスを行使する主体は、この二つの力を有機的に活用し、「スマート・パワー」を体現せねばならない。


国際政治学上のハード・パワーの概念は、国―国のマクロ的関係性の中に生じる、恫喝・報酬としての軍事力(物理的暴力)・経済力を示しているが、本論においては個―個のミクロ的関係性の中に生じる力(ファルス)について焦点を当てている。そして、マクロ的関係性とミクロ的関係性の決定的な相違は、前者において軍事力(物理的暴力)は力として重要な役割を担っているが、後者において軍事力(物理的暴力)の行使は法治国家の秩序によって禁じられているということにある。つまり、ミクロ的関係性の中での軍事力(物理的暴力)は、力として機能しづらい。同様に心理的暴力(罵倒や怒声)も、力として機能しづらいと考えられるが、ファルスによって嘲笑をもたらすものに変容することが出来れば、その力は物理的暴力を凌ぐものになり得る。故に、本論で論ずるハード・パワーは、物理的暴力ではなく、心理的暴力を示すものである。


恫喝(物理的暴力/心理的暴力)<報酬(経済力)<説得(言論力)<魅力
恐怖(支配力)←―――→愛(吸引力)


総括すると、ファルスには、ハード・パワーとしての嘲笑による心理的暴力、ソフト・パワーとしての人格的魅力による愛ある笑いの二つの行使方法が存在することとなる。最後に、本論の構成を述べると、(2)道化の四類型では、笑いに与る個人の類型を挙げ、本論で前提的に掲げている政治的指導者としての個人を相対的に浮かび上がらせ、その明確化を図る。また、我/汝の関係性では、宗教哲学者・社会学マルティン・ブーバーの概念を用いて、笑いが向けられる対象を鮮明化させる。(3)では、本論の理論的枠組みの骨子となったマキャヴェリの「君主論」を扱い、適所を引用しながらファルスについての論述を試みる。(4)では、優越の理論を汲むベルクソンの「笑い」を扱い、彼が笑いの機能として重点を置いていた嘲笑を取り上げ、その効用である矯正と排除について言及する(恐怖嘲笑型)。ひるがえって(5)では、人格的魅力・エンターテイメント精神からくる愛ある笑いを取り上げる(愛魅力型)。(6)では、(4)、(5)で言及したファルスを統合させ、どのようにして秩序形成がなされるか、その過程を詳述する。(7)では、その膨張主義的側面に目を向け、既存社会への変革性を述べる。


(2)道化の四類型・我/汝の関係性


(3)マキャヴェリの「君主論


(4)ベルグソン「笑い」(恐怖嘲笑型)


(5)本田「包括的エンターテイメント論」(愛魅力型)


(6)秩序形成の過程及び可能性


(7)ファルスの変革及び革命性
既存秩序の崩壊→ファルスによる新秩序形成

言論力としてのファルス、一体感を醸成するためのファルス



【論立て】
1.政治的指導者の資質としての笑いの重要性(目的論的政治的個人の設定)
2.国というマクロ規模の秩序では、軍事行動(戦争)に正統性が帯びるが、法治国家内に属する個というミクロ規模の秩序では、法によって裁かれる。(→物理的暴力/心理的暴力において後者を行使する必要性)
3.愛ある笑い/嘲りの笑いというマキャベリ的な愛と恐怖の統治論を笑いが体現し得る。秩序形成の可能性。
4.愛ある笑い(緊張の緩和/空間的一体感・調和の形成/包括的エンターテイメント論)
5.嘲りの笑い(優越の理論を汲むベルグソン理論。矯正と排除)
6.道化の四類型
7.我/我―汝、我―それの関係性
8.いじりキャラ/いじられキャラの例示、お笑い番組におけるパワーゲームの例示(内田樹氏のブログ参照)
9.理念型の共同体の例示




(1)「個人」、「力」の定義

・「個人」の定義:「社会をより良く作り変える」という自負心を持ち、「力」を自覚し、それを獲得しようと志向し、自己の支配を膨張主義的に拡大させる個人主体。

・「力」の定義:自分が望む結果になるように他人の行動を変える能力(←問題あり)


(2)力の源泉

物理的な力/経済力/年齢/顔面偏差値/インテリジェンス/運動能力/特殊技能/ファッション/【コミュニケーション能力・言論力】[ファルス(FARCE)]


(3)力の行使方法

恫喝(物理的暴力/心理的暴力)<報酬(経済力)<説得(コミュ力/言論力)<魅了(ファルス?)

支配(恐怖)←―――→吸引(愛)


(4)各状況による場合分け(例示)

【スクール・カースト】についての分析

(中学高校/大学/企業(社会人)の環境の変遷)


(5)ファルスについて(政治学的/社会学的/心理学的アプローチ)

政治学的アプローチ:「力」としての効用

社会学的アプローチ:個人―個人の相互関係における作用

心理学的アプローチ:個人の心理過程(?)

(自分が政治的目的を達成することを意図して他者を笑わせることと、外的強制力によって道化役を演じさせられ笑われることとの相違)


・秩序の裏には権力があり、権力の裏には承認(正統性の担保)がある。

・言葉の力は、「説得」、「啓蒙(他者への指導)」、「相互理解の促進」、「心理的暴力による他者への抑圧・排除」、「ユーモアによる調和」

・ファルス(ユーモア)による空間調和形成

他者(を意図して笑わせることによって)の承認調達→発言権の相対的強化→秩序形成(ファルス空間形成)

・既存社会(「力」をより多く所持する強者が君臨する社会、弱者が蹂躙される社会)の変革の必要性→ファルスによる変革性

◆参考文献

・政治化するお笑い(内田樹の研究所):http://blog.tatsuru.com/2008/07/12_2204.php

・笑いの政治学茂木健一郎togetter):http://togetter.com/li/177745

ベルクソン「笑い」、坂口安吾堕落論・FARCEに就いて」

山口昌男「道化的世界」

河合隼雄

岸田秀「続ものぐさ精神学」

「道化の文学」「道化の民俗学


「笑いの構図」野呂芳雄

ガーロッド(H.W.Garrod)はその論文「ユーモア」の中で、小説家サッカレーのユーモアに関する定義をあげている(7)。それによると、「ユーモアがただ笑いを意味したならば」別に興味もないし、特にイギリス的であるとも言えないが、併し、「ユーモア作家の職とするところは、あなたの愛や憐れみや親切心を呼びさまして、どこにそれらを向けるべきかを教え、あなたに虚偽や見せびらかしやいかがわしいものを嘲らせ、弱きもの・貧しきもの・しいたげられたるもの・不幸なるものに対してやさしく接しさせることにある」のである。まさにサッカレーのこの定義は、前に述べたところの、客体に向い合って立つ主体が、客体を温かく包み込むように笑い励ます場合に当ると言える。


ベルクソンが、笑いが社会的なものであること、社会に適応できない人間の行動を笑うことによって、それらの人間を矯正するものであることを強調すればする程(15)私にはその感が深くなる。更に、こういう場合にベルクソンは、社会に適合できない人間たちに対して、人々は徹底的にいじわるな笑いを笑う可能性もあるということを考えなかったようである。人間は相手を笑い殺す程に悪魔的になることができるのである。


劇場の舞台裏で火災が起った。それを観客に告げるために、道化役者が舞台に出てきた。観衆は彼の言うことを冗談だと思い、拍手かっさいした。道化役者は警告を繰返した。そこで観衆はますます大声で歓声をあげた。(17) 
 
道化役者から機械的に冗談を期待している観衆にとっては、自分たちと舞台との間の距離を維持し得ている限り、火災の警告も笑いの種にすぎない。併し、火が身の回りに迫って来た場合には、観衆の反応はおのずから違ってこざるを得ない。このキルケゴールの喩え話には、人間がある事柄(ここでは火災)に対してとり得る二つの態度が明らかにされているのである。一つは、主体が客体に対して距離をおいて、眺めるような態度でいることである。これを「主観−客観構図」(ここでは観衆と舞台)と言っておこう。もう一つは、主体が客体の中に巻き込まれ(ここでは、やがて逃げまどう観衆)、自分の実存の生死を賭けざるを得なくなる関係、「主体性が真理である」(キルケゴール)ような事情である。実はキルケゴールのこの喩え話で重要な点は、観衆は火災の警告を「主観−客観構図」で受けとめてはいけなかった、というところにある。主体性の次元で受けとめるべきものを「主観−客観構図」の次元で受けとめてしまった観衆には、両次元の混同の誤りがあったのである。笑うべきでない時に笑ったのである。社会に適応できない、あるいは、文化的規格に外れてしまっている人々を笑い殺すような残虐も、本来ならば主体的に愛においてそれらの人々とかかわるべき者たちが、相手を客観視する犯罪、笑うべきでない時に笑う次元の混同を犯しているのだ。我々がどういう状況で笑うかは、我々の生き方、我々の人格の心(しん)を露呈させる。笑いは自由の責任である。


話がだんだんと笑うどころではなくなってきたような感じであるが、もう少し読者には我慢して貰って、笑いの構図を可能な限り明らかにしてみたい。ユダヤ教の哲学者マルチン・ブーバーがその著書『我と汝』(18)の中で我々に提供してくれた二つの基本語、即ち、「我−汝」及び「我−それ」はあまりにも有名になってしまった。併し、これらに関する誤解も多いようである。例えば、「我−汝」は人間と人間の関係を、「我−それ」は人間と物質的なものとの関係を表現している、というようなのはよく聞く誤解である。ブーバーによるとそうではなく、一本の樹木も我にとって汝となり得るのである。つまり、我に対する汝とは、我を真の我に目覚めさせてくれる存在のことである。この目覚めを支えてくれるものは、人間であることもあるし、一枚の絵、一つの詩であることもある。それに対して、相手が人間であっても、その人間を我が目的を実現するための手段として使うような場合には、相手はそれなのであって、そのそれは我の深みには関わってこない。それとの関係は表面的なものであるにすぎない。つまり、我は同一の相手に対して二つの次元(在り方)での関係、「我−汝」と「我−それ」の関係を結び得るのである。そしてブーバーの主張では、人間の目指すべきなのは「我−汝」の次元を優先させることであり、従って、「我−それ」は「我−汝」に従属して初めて意味をもつのである。


このように考えてくると、我々がこれ迄に取り扱ってきた笑いは、ことごとく「我−それ」の次元に属するもの、主体と客体との間の距離が「我−それ」の(−)で象徴されるようなものである。相手を笑って楽しむとか、相手を笑い殺すなどというのは、相手の人間をひたすらに物に変えようと努力しているようにさえ感じられる。


ブーバーの言う「我−汝」の完全な様相は、汝への愛のために我を忘れてしまっている我の姿であろう。そのような献身的な愛の中に我は真の我となって行く。それ故に、「我−汝」は、本当は「我汝」あるいは「汝(我)」なのである。そうすると「我−汝」(Ich und Du)の(−) は何を意味するのか。ブーバーは「我−汝」の次元にも大ざっぱに言って二つの領域を考えるべきであった。我を忘れた「我汝」あるいは「汝(我)」の領域と、この領域を支える土台のようなもう一つの領域たる「我−汝」である。今述べたような意味での我を忘れるような体験――この体験の中では、我は自由であって、しかも、相手の魅力のとりこになっているのだが――は確かに我を真の我とする生の高揚であり、生きることそれ自体だと言ってもよい。ここには笑いなど生れる余地もない。併し、この体験はそう長く続くものではないし、その体験を再度、繰り返し体験するためには、ある程度の忍耐を汝――この汝が神であっても人間であっても物体であっても――に対して抱くような生活が絶えざる準備、また土台として必要である。ここには、我と汝との間に幾分の距離がある。つまり、「我−汝」は「我汝」や「汝(我)」よりも、同じ次元の中ではあっても「我−それ」の次元に対する境界に近い。だから笑いは両次元の、境界に近い両方の領域でおこる。


しかも、彼はその自分の滑稽な姿を堂々と人々の笑いに供して共に笑う。人々との「我−汝」関係での笑いが、相手を笑うことによってではなく、自分を笑うことによって円滑に保たれて行く。ユーモアはここにおいてまさに――パウルティリッヒの言葉を使えば――「存在への勇気」(Courageto be) となっている。ユーモアは生の味方である。


「笑いの構造―感情分析の試み―」梅原猛

もしも希望があまりにキリスト教的原理であるとすれば、もっと普遍的な生の肯定の原理はないのか。考えてみると、笑いがある。笑いはまさに、西洋にも東洋にも、古代にも現代にも、人間のあるところ必ずそこに存在する普遍的現象である。そういう普遍的現象から新しい人間論を展開したらどうであろうか。私は、不安や絶望を中心として人間論を展開したハイデガーサルトルに対し、新しい人間論の展開を笑いを中心にして行おうとしていたのである。(p9-10)


つまり、笑いの研究は、笑いの研究だけでは充分ではない。笑いが、人間の感情生活のうちでどういう地位を占めているかということに対する理論的認識が必要であり、そのために人間の感情というものがどういうものであり、どのような感情が人間にあるかを明らかにする必要があった。(p16)


ここでもちろん、私は多くの感情の理論にふれるわけにゆかず、現象学実存主義の感情把握の次の二点を強調しておきたい。
(1)感情の重要性。感情は、決して時々気ままに人間の内面をおとずれる付随的な心理現象ではない。それは、人間が世界に対してどうであるかを、もっとも端的に示すものである。喜んでいる人間は現在彼が世界に対して好意的な関係であることを示すであろうし、怒っている人間は否定的であることを示すであろう。その意味で感情は、理性よりもより明白に彼の存在の在り方を指し示すのである。われわれは、いろんな感情をもつが、われわれを根本的に支配する感情があり、それがわれわれの生活を支配する。

(2)感情の志向性。感情は、それが向けられている志向的対象をもつ。憎しみは誰かへの憎しみであり、不快は何かへの不快である。感情は多くわれわれの外なるわれわれを超えた対象に向けられるが、またそれがわれわれの内部に向けられることもある。多くの場合、われわれが超越的対象についての感情をもつとき、同時にそういう感情をもつ自分自身に別な感情をもつ。たとえばある異性に欲情をいだいたとき、われわれはそういう自分を恥ずかしいと思う。この場合、異性という超越的対象に向けられた欲情という感情と、内的自己に向けられた羞恥という感情が同時に存在する。

このような実存主義的な現象学的な感情の規定に対して、われわれは、実存哲学の非歴史性をまぬがれるために、次の規定を加えねばならぬであろう。

(3)感情の歴史性。ある感情をもつ主体は決して、超歴史的な先駆的自我ではなく、ある歴史的社会に属し、従ってある階級に属する人間であり、同時にまた、感情の志向的対象も一定の歴史的社会に属する人や物であり、その感情も歴史的社会的意味をもつ。間貫一のお宮に対する愛は決して先駆的自我の超越的他者に対する愛ではなく、資本主義勃興期における、金銭から疎外された階級に属する貫一の、同じ階級の、お宮に対する愛である。それゆえに貫一は金銭のためにお宮にそむかれ、金銭に対する復讐欲をもつ。こう考えると貫一の恋も失恋も復讐欲も、すべて歴史的意味をもっている。(p63-64)


しかし、日本人の微笑の意味は、このような実存的な意味につきないであろう。それが他人に対して用いられるとき、実用的な意味をもつであろう。滑稽感から生じない笑いが、もしも価値の無化であるとすれば、このような価値無化作用は、単に苦難というマイナスの価値ばかりではなく、自己の中にある他人に見せたくないマイナス的価値の側面に対しても有効なはずである。たとえば、人が何か失敗したり、あるいは自己の中に他人に見せたくない弱点をもつとき、人は笑いによりその弱点のマイナスの量を減少しようとする。もちろん、ひどい失敗は、こうした笑いによって、隠されることができないが、少しの失敗は日本人の間では、笑いによって見過ごされる。このような笑いはけっきょく弱者の自己防衛の武器であろう。弱者は、すべての都合の悪い面を笑いの価値無化作用によりおおいかくし、それによって強者の怒りをさけ、自己保存をはかって来た。この笑いの作用をほとんど意識的に用いると、笑いを仮面として用いるという功利的な生き方が生じる。笑いは人に快感を与えるばかりか、都合の悪い時はいつも、その弱点を隠してくれる。人に対する時はついつも、この仮面を用意する必要があるが、特に自己が不利になったとき、この仮面をじょうずに使えるか使えないかに、正に日本の世渡りの最も深い秘訣がある。

この二種類の笑いは互いにからみ合って、個々の日本人の心に根づいていたのであろうが、どちらかといえば、諦めの笑いは封建的搾取に慣らされた農民が、苦難を忘れる実存的知恵として貧しい生活の中ら生み出した笑いであるのに対し、自己隠蔽の笑いは階級的には、劣者であった商人が、強者である武士に対して、己の都合の悪いところを笑いでごまかし、笑いの仮面の後ろに旺盛な営利欲を隠して経済的実権を握った実用的知恵から生まれた笑いであるといえるであろう。(p77-78)


しかし、われわれがこうした汎喜劇的状況に眼を奪われて、多元的価値観の中に安住し、至るところに出現する人間喜劇を笑ってばかりいて、未来に大きな理想をもち、その理想の実現の中に己を賭していく主体的情熱をもたなかったとしたならば、われわれの笑いがいつか諦めの微笑に転化してゆかないとどうして保障できようか。真の笑いを笑いうるためには、笑えないなにかをもつことが必要ではなかろうか。(p90)


もしも今私が、この一つの現象をめぐっての二つの理論を、客観的に眺めるならば、二つの理論は、それぞれ見のがしがたい長所をもっていると共に、無視しえない短所をももっているかに見える。コントラストの理論は、笑いの形式的考察には必要欠くべからざるものであろう。洒落、冗談、皮肉、諷刺などの現象を分析しようとすれば、それらの現象がいずれも二つの意味領域をもち、それを通じて二つの意味領域がコントラストの関係に立つことは、否定しがたい事実であろう。事実、笑いの理論は、コントラストの理論にその現象の精密な分析を負っている。しかしこうした理論は、笑いの内容的考察に、すなわち笑いが人生になにを意味するかという問題には答えることが少ないであろう。むしろこうした理論はほとんどすべて、悟性あるいは理性の立場に立つ哲学を背景にしていて、理性の背後に、より大きな生命や、実存を見がちなわれわれには形式的に過ぎるであろう。

一方、優越の理論は笑いの生きた実態をよく捉えているように思われる。笑いが、最も原始的には、いましがた敵を倒した勝ち誇れる人間の、倒れた敵に対する優越の感情であったことは、たとえば、イーリアスにおける、オデッセウスの鞭の下で苦しみ嘆くテルシテースを見て笑うアカイヤの軍隊や、古事記における、兄宇迦斯を倒して、切りきざまれた死骸のそばで嘲笑の歌を歌う神武帝の軍隊などのことを考えればわかるであろう。われわれ文明人は、こうした露骨な優越や軽蔑の表現は避けるけれど、今でもわれわれの周囲には、ことさらに高く響かせた笑いによって、己の優越を相手に感じとらせようとする笑いや、すべての人間の情熱を氷のよに冷たい笑いにより葬り去ろうとする笑いに欠けてはいない。礼儀正しい現代人は、己の優越と軽蔑とを、礼儀正しく相手に感じ取らせる技術に長けているかのようである。実際、ホッブスにせよ、スタンダールにせよ、優越の中に笑いの本質を見た人は、人間の中に権力に飢えた狼を見るような、冷たい人間の観察者であった。たしかにこうした理論は、笑いの起源と、人間の心のうちにひそむ暗い笑いの秘密を語るにしても、無邪気な笑い、滑稽な笑い、自嘲の笑い、お世辞の笑い、虚無の笑いなどのあまりにも豊かな人生の笑いの諸相を、あまりにもはげしい権力意志に歪められた眼によって、あまりにも単純化してしまうという非難を免れることができないであろう。その上この理論は、笑う人間の研究、笑いの主体性の研究に偏して、笑うべきものの研究、笑いの客観性の研究に乏しく、客観性の研究に偏して主体性の研究を欠くコントラストの理論と共に、笑いの研究の必要条件を充分にみたしていないであろう。(p94-95)


ルフレッド・スターンは価値の理論を、コントラストと優越の理論の総合として見てはいない。彼は二つの理論をつなぐ事象的連環を見てはいず、そのため、優越の理論には同情的であるが、コントラストの理論をうるさくつきまとう誤った理論としてしりぞけている。コントラストに代わる彼の理論は価値低下degradation(すべての価値をマイナスする)と価値剥奪devaluation(プラスの価値もマイナスの価値もみな零へと近づける)であり、彼は価値低下によって喜劇的な笑いを、価値剥奪によって喜劇を越えた笑いを説明している。

スターンの研究はたしかに独創的であり、新しい笑いの研究への方向を示唆するものであろうが、彼がコントラストの理論をしばしば、追われつつまた新たに現れる魔襲に比してしりぞけていることは、彼の研究を笑う人間の研究に片寄らせ、笑うべきもの、すなわち洒落、皮肉、風刺、仮面、うそ、ほらなどの形式的な研究は乏しい。彼に反して、むしろ価値の理論を、コントラストの理論と優越の理論の総合として見るならば、われわれは、価値の理論から、笑う人間の興味ある研究と共に、笑うべき対象の微細な変化と、それに伴う笑いの作用のちがいについての、微妙な研究を得ることができるであろう。このように考えると、私は、笑いの作用を、一応価値高いものと価値低いものとのコントラストによる価値低下と考えることができるであろう。(p98-99)


この例から、われわれは悲劇と喜劇とを次のように区別しうるであろう。(1)まず悲劇の主人公は、必ず価値をもった人間である。必ずしも彼がすぐれた力や知恵をもってはいなくとも、われわれは彼の人間的価値にたいして肯定的でなければなるまい。じじつ、アキレウスは超人的な力と勇気をもち、オイディプスは高い地位と深い知恵をもち、ハムレットは高貴な生まれと優しい心とをもち、ブランドは理想に燃える情熱と強い意志をもっている。(2)しかるに、突然彼の前に一つの大きな運命的な出来事が現われ、超人的な力をもって彼の存在をおしつぶそうとする。もちろん、彼は強い意志であらん限りの力を揮って、巨大な運命の力に立ち向かうけれど、彼の力の人間的な限界や、彼の内部にひそむ抗しがたい性格の必然性によって、彼の英雄的な運命への抵抗にもかかわらず、やがて彼は没落への道をたどらざるをえない。(3)こうして彼は没落するけれど、彼の敗北によって、けっして彼の人間的価値は低下せず、むしろ、人間は必然の力をもって回る巨大な運命の力におしつぶされそうになりながら、しかも非凡な勇気で、あくまで運命に対して挑戦し、絶望的な表情をたたえつつ、なおかつ苦悩に屈しない彼の悲劇的な姿に最も高い人間的価値を見いだすであろう。特に彼の運命がきわまって、彼が長い苦闘に満ちた生涯に静かに別れをつげるとき、人は偉大な価値をもった人間が去ってゆくのを見て、思わずも同情の涙を禁じえないであろう。(4)悲劇を見る人は、このように悲劇の主人公の運命をあたかも己の運命として感じ、彼の喜びを共に喜び、彼の悲しみを共に悲しむであろう。そして、人は主人公の英雄的生涯を見て、改めて人間の美と価値を認識し、あまりに平凡であまりに醜悪なこの人生を、大きな夢をもって生きようとする勇気を、たった一時なりとも、ふるい起こすのかもしれない。

これに対して、喜劇は次のような特徴をもつであろう。(1)喜劇の主人公は、多くあまり価値のない人間である。たとえ、彼がある点で価値ある人間であるにしても、彼の価値を全面的に低下させる重大な欠陥を深く人格の内面にもっている。タルテュフは贋信心家であり、ドン・ファンは嘘つきの女たらしであり、弥次・北はそそっかし屋の上に、よくばりで助平である。(2)しかも、彼の人格の真相は、多く彼自らもうけた仮面によってかくされ、他人は彼の仮面にだまされる。彼はますますいい気になって、他人に彼の価値を見せびらかし、あるいは己自らすらも仮面の価値を己の真の価値と思い込む。しかしささいな偶然のいたずらが、突然、彼の仮面をはずし、無慈悲にも彼の無価値な姿を衆人の眼の前にさらす。(3)こうして主人公の価値低下が行われるが、彼ができるだけ価値の高い仮面を、より巧妙にかむればかむるほど、彼の価値低下がひどく、従って滑稽感はますであろう。観客はすでに彼のペテンを知っていて、彼の実体なき価値に多くの人間がだまされるのを笑って見ているが、特に彼の仮面がはがされ、彼一人のみではなく事件全体が全く価値を失うとき、人は思わず腹の皮をよじるであろう。(4)このように人は喜劇の主人公を、むしろ彼とは別な人間として見、彼の価値低下を、同情ぬきに喜ぶであろう。一見すばらしい価値をもっているかに見える人間も、一皮仮面をはいでしまえば、おれたちのような人間にすぎないのだ。いつも価値の重圧におびえている人間は、あらゆる人間が、己のように価値のない人間であることを見いだして、己の愚かさにひそかな満足を感じるのであろう。(p156-158)


こういう笑いに関する理論的見解の相違は、笑いの社会的役割についての実践的見解の相違を伴うであろう。もしも、ベルグソンの言うように、滑稽なものがこわばりと自動現象の結果であるとすれば、笑いは、そういうこわばった精神や性格の非社会性を警告し、彼をもう一度生きた社会との接触につれもどそうとする懲戒的な役割をもつであろう。しかし、われわれがベルグソンの笑いの理論に、とりわけ不満を感じるのはむしろこの点においてなのである。笑いが社会の個人にたいする懲戒にすぎぬとしたら、われわれはそういう笑いを、この健全なる社会機構を不逞の思想で混乱させる奴はどこかにいないだろうかと、絶えずわれわれの思想を干渉しようとする文部省や検察庁の役人どもにまかせて、われわれは怒りの研究でもしておればよいのである。しかし、笑いが価値低下であるとすれば、われわれは笑いにより、古い時代遅れになった価値体系の矛盾を指摘し、古い価値体系を絶滅し、新しい世界建設への道を開くことができるように思われる。(p159)


マキャヴェッリと『君主論』 佐々木毅1994、講談社文庫
補助線:社会認識の歩み 内田義彦 岩波新書 1991
第十七章 残酷さと慈悲深さとについて、敬愛されるのと恐れられるのとではどちらがよいか
チェーザレ・ボルジアは残酷と考えられていたが、しかしながら彼はこの残酷さのおかげでロマーニャを回復し、統一し、その平和を実現し、それを自らに忠実な存在たらしめた。この点を良く考慮するならば、残酷だという評判を恐れてピストイアを破壊のままに委ねておいたフィレンツェ人よりも、彼のほうが慈悲深いことになる。(君主=有徳者論への批判と再吟味)それゆえ支配者は自らの臣民の団結と自らに対する忠誠とを維持するためには残酷だという汚名を気に掛けるべきではない。実際あまりにも慈悲深いためかえって混乱状態を招き、殺戮と略奪とを放置する君主と比較して、彼は極めて少ない処罰を行なうだけであるからより慈悲深いことになろう。なぜならば前者はすべての人々に害を与えるのに対して、後者の場合には君主の行なう処罰を蒙るのは一個人のみであるからである。p263


ここから一つの議論が生まれる。恐れられるよりも愛される方がよいか、あるいは反対であるか、と。これに対して双方であることが望ましいと人は答えるであろうが、しかし両者を得ることは難しく、したがって両者のうちどちらかが欠けざるをえない場合には、愛されるよりも恐れられる方がより安全である。それというのも人間に関しては一般的に次のように言いうるからである。人間は恩知らずで気が変わり易く、偽善的で自らを偽り、臆病で貪欲である。君主が彼らに対して恩恵を施している限り彼らは君主のものであり、生命、財産、血、子供を君主に対して提供する。しかしこれはすでに述べたようにその必要が差し迫っていない場合のことであり、その必要が切迫すると彼らは裏切る。したがって彼らの言葉に全幅の信頼をおいている君主は他の準備を整えていないために滅亡する。p264


そして人間は恐れている者よりも愛している者を害するのに躊躇しない。なぜならば好意は義務の鎖でつながれているが、人間は生来邪悪であるからいつでも自己の利益に従ってこの鎖を破壊するのに対して、恐怖は君主と常に一体不可分である処罰に対する恐怖によって維持されているからである。それにしても、君主は仮に好意を得ることがないとしても、憎悪を避けるような形で恐れられなければならない。恐れられることと憎まれないこととは、恐れられることと愛されることよりも容易に両立しうる。p265


恐れられることと愛されることについては、次のような結論が引き出される。人間は自らの意に従って愛し、君主の意によって恐れる。賢明な君主は自らの自由になるものに依拠すべきであって、他人の判断に依存してはならない。そしてその際、すでに述べたように憎悪を招かないようにだけ配慮すればよい。p267


「笑いの社会学」 木村洋二 世界思想社 1983

嘲笑 おそらく、こうした笑いのうち最も普遍的なものは、特定の他者を<笑的>に、些細なズレを見つけ、あるいは仕掛けて負担をはずし、そのリアリティを剥奪して溜飲を下げる、いわゆる嘲笑のメカニズムであろう。われわれはこうして他者を笑い、そのリアリティを剥奪することによって、(1)まずは他者への攻撃心を満たして、(2)相対的に自己の優越を確認すると同時に、(3)相手に社会的な制裁を下して、(4)しかも面白おかしく楽しむ、といった多様な欲求を満足させることができるのである。


風刺 次に、一般に正当とされる社会的に優越したリアリティ、つまり権威や威信を脱失・失墜させようとする一群の笑いがある。いわゆる風刺や戯画、傾向的な機知などがこれで、先にあげた嘲笑も、<笑的>とされる他者が「重要人物」、つまりある社会的な<世界図式の要>となっているような場合には、反権威主義の過激な表現もしくは実現ととなることもできる。p63


笑いは本来極めて社会的な生理現象であり、その発生から機序・機能に至るまで密接に「他者」と結びついている。それはまず、多くの場合対人的な場面で発生し、一旦生じた笑いはあたかも回路が共振するかのごとく連笑・爆笑となって広がっていく。増幅作用p66 祝祭的笑い


バフーチン「フランソワ・ラブレーの作品と中世・ルネッサンスの民衆文化」からその所論の一部を紹介して稿を閉じよう。
中世において<笑い>は、「階級・財産・職業・家族・年齢などのさらい難い障壁」によって分け隔てられた「公式」の「生真面目」な社会生活と鋭く対立するところの、「自由で打ち解けた触れ合いの形」が支配する「全民衆的」「広場的」「カーニバル的」祝祭空間の<組織原理>であった。これは、今日われわれ日本人のもちうる祝祭というべき「宴会」についても同様であって、その証拠に、笑いのない宴会なぞ考えてみることもできないだろう。われわれの「宴会」はともかく、全民衆が万物を対象にして笑うこの中世のカーニバル的祝祭においては、「全世界がおかしな姿になり、その陽気な相対性において全世界が感得され理解された」(18ページ)のである。


一方、「階級的文化における生真面目さは公式的、権威的であって、強制、禁止、限定と結び合う。このような厳粛さ・生真面目さの中には常に恐怖の要素がある。中世の厳粛さの中ではこの要素が強い勢力を持っていた」が、中世の民衆はまさにあのカーニバル的笑いの中にこの「恐怖に対する勝利」を特に感じ取っていた」のである。
p75ー76