道化が見た世界

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激闘!ハナクソバトル!

バトル、白熱する闘い、それはひとえにゲームであり、エンターテイメントでもある。

バトルが持っているそれ自体の力学は一体どのようなものだろう。

それは、結果として勝敗がつき、一つの目的に向かって、参入する者たちを対立させながら巻き込んでゆく、動的な枠組みである。バトルに参加した者たちは、有無を言わさず、勝負が決するまで突き進むことを強いられる。

 

そこでは流動的、無目的的に流れていた時間と空間が、緊張と集中を呼び覚まし、そこに存ずるバトルのプレーヤー、あるいは、オーディエンスに爆発的なテンションのチャージを促す。勝てば歓喜、負ければ悲哀、私たちはそのバトルの成り行きを固唾を飲んで見守りながら、あるいは、プレイヤーとして没入し白熱しながら、その結果に一喜一憂する。

 

例えば、飲み会での山手線ゲームも、バトルである。何故そこでゲームをする必要があったのか。それは普通の会話ではさして盛り上がりを見せなかった、弛緩しきった空間に一石を投じる為だったかもしれない。普通の会話で盛り上がりを見せている中で急に「じゃ山手線ゲームやろ!」とはならないからである。

 

バトルという枠組みに一度足を踏み入れれば、さほど会話に長けていない飲み会参加者でも簡単にその渦中に入り込むことができる。あとはそのバトルの流れに身を任せ、負けた者にはグイグイコールを、見事勝利した己には祝杯をあげれば万事解決である。

 

上述したバトルまでの経緯はどちらかと言えば消極的な理由によるものであるが、自覚的なエンターテナーであれば、積極的な理由によってあえてゲーム空間、いわばバトル・フィールドを展開することができるであろう。それは容易に空間全体を飲み込み、その場に存ずる参加者たちの感情を渦巻きうならせ爆発させる装置となる。

 

そんな私がこの度、読者諸賢に提案したいバトル、珠玉のエンターテイメントゲーム。それこそがハナクソバトルに他ならない。そう、ハナクソバトルである。

 

私が考案するハナクソバトルにエントリーさえすれば、初めましてこんにちわの人たちも、倦怠期のカップルも、セックスレスの熟年夫婦も、たちまちにその距離を縮め、火花を散らし、溌剌とした感情を四方八方に撒き散らしながら、みずみずしい潤いとハリのある関係性を手に入れ、あるいは、取り戻すであろう。

 

ハナクソバトルへのエントリー方法は単純明快である。

まず一方が他方に対し、ちょっとイラっとした憤怒をその身に宿す。

例えばその原因が、取っておいたプリンを勝手に食べられた、話を無視して携帯をずっといじっている、貸したお金を返してくれないなどでよい。

 

そして、その憤怒を宿した一方が己のハナクソをほじって己の手指に取り出す。

さあここで、ハナクソバトルフィールドは整った。あとはそのハナクソを、敵プレイヤーの身体のどこかへ付着させれば勝利である。

当たり前だが、敵プレイヤーも全力でそれを拒絶して対抗してくる。ハナクソとは、万人が手軽に調達しうるが、他者にある種の破滅的嫌悪感をもたらすことのできる盲点的代物である。誰も己の身体に敵のハナクソが付着するという敗北は決して味わいたくない。

ここで、両者の力が拮抗する。

プレイヤーAのほっぺたにハナクソを付けようとするプレイヤーB。

負けじと両腕に渾身の力を振りしぼり押さえ込むプレイヤーA。

押さえ込まれた手指を巧みに操り、作戦変更しプレイヤーAの手首近辺にハナクソを付着させようとするプレイヤーB。

一旦狙われた片腕を振り払ってから、再度押さえ込むプレイヤーA。

度重なる攻防戦、一瞬の隙をも与えられぬ息を飲む緊張感。ハナクソに両者の神経が全集中される白熱した時空間。

 

察しの良い読者諸賢なら、もうお分かりのように、この時、ハナクソは、エンターテイメントの1ギミックとして機能しているのである。誰も気にとめることのない、路傍の石ころでしかなかった一つのハナクソも、かかるバトルでは、中心的な存在、そこではまさしくそのハナクソを起点として世界が構築されている。

 

読者諸賢の中には、私のこの提案が一見現実離れしたものに映ってしまうかもしれない。そもそも、己のハナクソを己の手指に付着させること自体に嫌悪感を抱くかもしれない。あるいは、己のハナクソを相手に付着させようと意図した瞬間に、相手との関係性が一気に破綻してしまうことを危惧するかもしれない。

 

しかし、その当たり前の感受性の向こう側に、未だ経験したことのない魅力的なエンターテイメント空間が拡がっている可能性を、私は絶えず強調してゆきたい。是非とも貴君もハナクソゲームにエントリーし、しかるのち、勝利の美酒に酔いしれよう。