道化が見た世界

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【実践編】「いじられキャラ」からの脱却方法

自己の自尊心をいたずらに傷付けるような「いじり」をされた時、つまり、嘲笑によって自己が劣位に置かれる状況に陥った時、我々の闘争の火蓋が切って落とされる。その闘争に十全たる武装をして備える為には、そもそもの前提として、その闘争が勃発する領域、つまり、「会話空間」というバトル・フィールドを意識的かつ自覚的に観察していなければならない。自己が心ない「いじり」によって劣位に置かれたという客観的事実を敏感に察知せねばならない。


他者との会話空間に対して洗練された洞察力、「この空間は闘いの空間である」という緊張感を有していなければ、いじられた時に即座の対応ができない。いじられた人間は往々にして、卑屈な照れ笑いを見せるか、ただ沈黙するかで終わってしまう。ほとんどの人間が、いじられた瞬間にかかるリアクションを取ろうとするが、これでは完全なる敗北である。


かといって、「調子乗るなよ、クソ。」などと、自尊心が傷付いたことに対して率直に憤怒を表せばよいかと言えば、そういう単純な話でもない。周囲の人間は憤怒を露わにした貴君らに対して「うわ、コイツちっちゃ。」という負の印象を受けるだろう。つまり、キレることによって場の空気を破壊することは原則的にご法度なのである。それでは、不当な「いじり」に対してどのように対処すればいいのか。場の空気を破壊せずに、自らの優位を確立する方法。


それは、いじられた瞬間に「いじった人間をより高度ないじりでいじり返す」ことである。方法はこれしかない。いじられた「瞬間」に即座のいじり返しを見せるためには、冒頭でも述べた様に「会話空間(バトル・フィールド)」を自覚的に観察し武装し、相手を言葉の弾丸で撃ち抜く気概が必要なのである。


そしてその言葉の弾丸の種類は、主として二つに分類が可能である。一つは、道化的「自己武装」であり、二つは、嘲笑的「他者追撃」である。


分かり易く解説する為に、「こいつ童貞なんだよ(笑)」という「いじり」を受けた状況を例に挙げ、それぞれの対処方法を述べてゆきたい。再三言っているが、「こいつ童貞なんだよ(笑)」という「いじり」を自己が受けた瞬間から闘争は始まっている。その「瞬間」に全神経を傾注しなければいけない。


(1)道化的「自己武装」

「いや、確かに童貞だけどさ。だけど、俺こん中の男ん中で一番桃色テクニックに長けてる自信、あるよ。女子を一番満足させる自信、あるよ。」(勝ち誇った表情で深々と首肯しながら)


道化的「自己武装」とは、「いじり」に対して卑屈にならず、そのいじりを積極的に自己の内に取り込み、敢えてその「いじり」にかぶさり会話を転がす技術である。ここで、「いじり」と「いじられ」の構造変化はなされないが、「いじられ側」の人間が自らの力でwin-win関係を築いていると言えるだろう。この返答に対して、「いじり側」は本気(ムキ)になって「はぁ?」と息巻き、更なる「いじり」をしてくるだろうが、その光景は愉快極まりなく、こちらはあくまで、彼らがムキになってきたところを飄々とほくそ笑みながら余裕の態度で応戦すればよい。


道化的「自己武装」とは、一種の自己犠牲心からなるもので、「いじられ側」の人間に高貴なるサービス精神、自己の存在を敢えて道具として用い、周囲に笑いを提供したいという、無私で献身的な精神がその内に宿されていなければ、難しい芸当であると言える。その精神を宿してはいるが、「いじり側」の人間がその地位にふんぞり返っているのも気に喰わない。かかる好戦的な意志を持つ者は、次の嘲笑的「他者追撃」の技術を用いるがよい。



(2)嘲笑的「他者追撃」

「キミって非童貞かもしれないけど早漏なんでしょ?だってキミ顔が早漏顔だもん。三こすり半の不完全燃焼を童貞に向けるの、よしてくんない?」


嘲笑的「他者追撃」とは、他者の「いじり」を取り込みながらも、そこに自己の攻撃的「いじり」をかぶせ、一転して攻勢に回る技術である。この一撃が突き刺されば、既存の「いじり・いじられ」の構造は一挙に引っくり返ることとなる。人はこれを革命と呼ぶ。


ここでは、「非童貞」というある種の強者レッテルに、「早漏」という負のレッテルを半ば強引に「だって早漏顔だもん」と言って貼り付け、相手の「いじり」を「早漏の鬱憤をこうむる被害者の自己」として処理している。この返しによって、童貞という「いじり」は霧消し、完全に形勢は逆転する。他にも包茎「短小」といった負の概念を「非童貞」という強者レッテルに重ね張りすることによって、相手を追い詰めることも可能である。無論、相手が実際に「包茎」や「短小」でなくとも構わない。


「会話空間(バトル・フィールド)」において勝利を掌握するためには、どんな法螺を吹いてもよいし、詭弁を用いてもよい。それが、周囲の共感(嘲笑)を調達しうるウソであればよい。何故か。それでは、最後に諸君に問いたい。無思慮にこの闘争を勃発させたのは誰か?それは「いじり側」の人間である。いたずらに他者を嘲笑して劣位に置き、自己のベンジョバエ程度の自尊を満たそうと躍起になっていたのは誰か?無論、「いじり側」の人間である。


そんな無思慮で傲慢な彼らに、私達が思慮深くなる必要があるだろうか?答えは徹頭徹尾の否である。「いじられキャラ」諸君!その刹那に諸君らの全神経を傾注させ、今こそ己の言葉の弾丸を握りしめろ。しかるのちに好きなだけ撃ち込むがよい!