道化が見た世界

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先天的才能+後天的努力+運

全ての成功、その輝かしい結果をもたらした要因は一体何か。

私たちはそのことに思いを馳せずにはいられない。それは神に与えられた天賦の才によってなのか、あるいはその人間の一心不乱の絶え間ない努力によってなのか、あるいはまた、人間があずかり知らぬところの、たまたまたぐり寄せた運によってなのか。

 

一つの成功、一つの結果は、上述した三要因、つまり、先天的才能と後天的努力と運のブレンドによって成り立っていると私は思う。ブレンドされているがゆえに、一つの成功が何によってもたらされたのかを解剖学的に検証することは困難である。才能の中に努力が入り混じっていたり、逆に努力の中に才能が入り混じっていたり、その両者が運の中に閉じ込められていたり、それらは渾然一体としている。

 

そして、三要因のうちの二つ、先天的才能と運は、私達の手が届かない、あずかり知らぬところで決定している要因であり、どうしようもないことである。例えば、バスケットボールにおいて身長が高いことは才能であり、努力でどうにかできることではない。また、ゴッホのように、どれだけ才能があったとしても、生前に全く評価されず、時代に受け入れられなかったことは、運が悪かったとしか言いようがなく、どうしようもないことだったのかもしれない。

 

そこで私たちの関心が最も傾注される要因、それこそが努力である。何故ならば、努力とは私たちが後天的に、各々のさじ加減で、したりしなかったり選択することのできる要素だからである。そこには唯一、人間に与えられた自由な裁量がある。才能と運が神の領分とするならば、努力は人間の領分である。そして私たち人間は、努力という曖昧模糊とした概念に物語を描き、希望を抱いて歩み続けたり、ひるがえって絶望して立ち止まったりする。そんな努力とは、一体どういったものなのか。

 

努力とは、一定の社会的目的を達成する為に、競合する他者へ優位性を確立する、時間的連続性を帯びた力である、と私は考える。

分かり易く言うと、例えば、「志望校に合格する」という社会的目的を達成する為には、他の受験生よりも多くの点数を取って合格する(競合する他者へ優位性を確立する)為に、毎日(時間的連続性)受験勉強に励まねばならないであろう。

この定義上では、毎日どれだけ勉強しても、それで他の受験生よりもよい点数を取ることができず、結果として受験に落ちてしまったのであれば、それは努力ではない、ということになる。逆に、毎日勉強せずとも、結果として受験に合格してしまったのであれば、それは努力ではなく、その個人の才能、あるいは運が良かったということになる。

 

そして、なぜ単に目的ではなく、社会的目的と定義したかと言えば、例えば筋肉を付けるという目的の為に筋トレしている個人の努力は、その領域が至極プライベートである為に、社会的評価として努力している、と客観的に判断されづらい。それは自己満足という個人的な目的へと収斂してゆく。その領域には競合する他者は存在しない。

 

しかし、これが、例えばボディービルの大会の為に筋トレをしていたり、モデルをやっていて体型維持の為に筋トレをしているという文脈であった場合、その行為はプライベートな領域を突き破り、競合する他者が存在する、ソーシャルな領域へと到達する。その時になって初めて、社会的評価として努力しているという判断がなされるのである。競合する他者が多く存在し、かつ、競争原理が強く働いている社会的状況において、努力に対する社会的評価がもっとも高く下される。

 

ここに、ある志望校Xに合格したいA君、B君、C君、D君、E君の五人がいる。そして受験勉強の期間中は運が作用しないものとする。

A君とB君とC君は常に同じ時間勉強しており、D君とE君はほとんど勉強していない。

時間的連続性の観点から言えば、この時点でA君とB君とC君は努力の成立要件のうちの一つを満たしており、D君とE君は満たしていない。

そして合格発表当日、A君は首席合格、B君は合格、C君は不合格、D君は合格、E君は不合格となった。この時、一体何が浮き彫りになるだろうか。

 

まずA君は、B君とC君と同じ時間勉強をし、かつ誰よりも優位な成績を残して見事合格を果たした。A君は、合格という結果を残したことによって(競合する他者へ優位性の確立)、努力の成立要件を全て満たした為、「受験勉強を努力した」という社会的評価が下されることになる。

その評価は同様に合格したB君にも下されるが、首席合格しているA君との差異はどのように解釈されうるか。その差異は、A君にはそもそも勉強の才能があった、という形で説明される。つまり、A君は才能もあり、かつ、努力した存在であり、逆にB君は、才能はないが、努力した存在である。この時、A君とB君は天才と秀才として説明されるであろう。

そして、彼らと同等の時間を勉強したにも関わらず不合格になったC君は、天才ではなく、努力をしたが(厳密には、努力の成立要件を一つ満たしたが)、結果として結実しなかった存在である。C君は結果として合格していない為に、「受験勉強を努力した」という社会的評価が下されない。

C君は自分の勉強時間が足りなかったのかと悔やむであろう。C君は絶望しながらも、A君とB君よりも勉強をしていれば、自分も合格できたかもしれないという希望を抱く。その可能性は誰にも否定できないし、また、肯定もできない。C君は来年、今年よりも勉強時間を増やし、毎日勉強に明け暮れ、その結果、志望校Xに見事合格するかもしれないし、また、再び不合格になるかもしれない。

ひるがえって、D君は勉強をほとんどしていないにも関わらず、志望校Xに合格した。つまり、努力の成立要件の一つ(時間的連続性を帯びた力)を満たしていないにも関わらず合格(他者への優位性を確立)したのである。ここで才能の成立要件が浮き彫りとなる。才能とは、努力せずとも先天的に他者への優位性が確立されている力である。

つまりD君は、才能はあるが、努力しなかった存在である。そういった意味で、D君(才能◯努力×)は自分の意識次第でA君(才能◯努力◯)に変容する可能性がある。同様に、不合格であったC君(才能×努力△)も自分の努力の方向性次第でB君(才能×努力◯)に変容する可能性がある。

最後のE君は勉強をほとんどしなかった結果、志望校Xに不合格になった。ごく当たり前の結果であると言えるが、E君(才能×努力×)は、C君(才能×努力△)が抱いたような努力に対する希望や絶望も、他に感ずる劣等感も嫉妬心も有していないであろう。何故なら、E君は努力の成立要件の一つも満たしておらず、その世界を未だ知らないからである。

 

思うに、この世界に存ずる全ての努力の物語の要は、C君が受験勉強を通して味わった努力への絶望、希望、あるいは他者への劣等感、優越感、嫉妬心、向上心その葛藤の中にこそある。私たちが信奉する努力はいつも才能によって翻弄され続けている。

その努力は、果たして報われる努力なのか、それとも報われない努力なのか。私たちはその正解を求めている。私は先に、才能と運は神の領分で、努力こそ人間の領分などと述べたが、その努力の結果こそまさに、神のみぞ知る、神の領分なのではないだろうか。 

 

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ここに、努力の物語を象徴する一つのイラストがある。

二人の男性は、ダイヤモンドを手に入れる為に炭鉱を掘り続けている。

上の男性は一心不乱に炭鉱を掘り続けており、下の男性は目的のダイヤモンドが目前に迫っているにも関わらず、それを背に諦めてしまっている。

このイラストが伝えたいことは、「努力は必ず報われるから、絶対に諦めるな!諦めたらもったいない!」という神話である。

このイラストの、まず第一の誤謬は、ダイヤモンドがそこに存在しているという目線を私たちに提供していることである。このイラストを見ている私たちの目線は、いわば、神の目線である。しかし、その目線の観測者は、この世に存在しないのである。

第二の誤謬は、努力を継続する(炭鉱を掘り続ける)時間に個人差はあれど、最終的にはダイヤモンドが必ず存在するという前提である。上のイラストで、ダイヤモンドが全く存在しない炭鉱を考えてみてほしい。掘り続けても、掘り続けても、ダイヤモンドは一向に出てこない。

延々と続く無機質な炭鉱を、ただひたすらに掘り続ける毎日。ダイヤモンドがあるものだと信じて掘ってはいるが、実はその先に何も見つけることはできないのだ。

この場合は、イラストの下の、諦めて掘ることを止めた男性が正しい決断をしたということになる。彼は有限な時間を無為に消費することなく、また違った対象、方向へと努力することができる。

また、上の男性の掘った先にはダイヤモンドがあるが、下の男性の掘った先にはダイヤモンドが全くないという可能性もあり、またその逆もある。自分と同じ時間、炭鉱を掘り続けた結果、彼はダイヤモンドを手にしたので、私ももうすぐそれを手に入れるだろうという願望はありうるが、その結果としてダイヤモンドを手にする保証は全くない。

もちろん、彼より掘り続けた先に、一等光り輝くダイヤモンドがある可能性もあるが、全くない可能性も等しくある。

 

斯様に、私たちの努力の行き先は暗闇に満ちている。その暗闇は、神にしか照らすことができない。

ここで、ラインホルド・ニーバーの言葉を引用したい。

変えることのできるものについて、それを変えるだけの勇気をわれらに与えたまえ、

変えることのできないものについては、それを受け入れるだけの冷静さを与えたまえ。

そして、変えることのできるものと、変えることのできないものとを、識別する知恵を、われらに与えたまえ。 

 これはそのまま私たちの努力に対しても言えることではないだろうか。つまり、

努力して報われることについて、それを達成できるだけの活力を私たちに与えたまえ、

努力しても報われないことについては、それを諦めるだけの冷静さを与えたまえ。

そして、報われる努力と、報われない努力とを、識別する知恵を、われらに与えたまえ。

 と、換言することができるということだ。

私たちは常に、報われる努力と、報われない努力とを識別する知恵を持たない。

私たちは、どれだけ勉強しても志望校に合格できるかどうか分からない。自分より勉強していない人間が合格するかもしれないし、自分と同じくらい勉強した人間が合格して、自分は不合格になるかもしれない。

私たちは、自分が掘った先に、ダイヤモンドがあるかどうかを確かめる術を持たない。もう少し掘ったら出てくるかもしれないし、出てこないかもしれない。あっちでは既にダイヤモンドを手にしているのに、こっちでは永遠に手に入れられないものかもしれない。あの努力は報われた、この努力は報われなかった、という判断は結果論でしか出すことができない。

もし、私たちが全てを見通すことのできる光を、知恵を手にすることができたならば、そこには報われなかった努力も、報われた努力も、希望も絶望も、劣等感も優越感も、向上心も嫉妬心も、全ての人間的葛藤さえも存在しえないであろう。

 

最後に、私が敬愛する水野敬也氏の言葉を引用して終わりたい。

顔とか、運動神経とか、センスとか、才能とか、そういうので負けるのはいい。

それは、自分で選べるものじゃないから。

でも、

行動は、

行動することだけは、

決して誰にも負けてはならない。

なぜなら、

それを「する」か「しない」かは、

自分で選べるのだから。