道化が見た世界

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世界はパワーでできている

国際政治学上で用いられる「パワーの概念」は「国―国」の関係を対象としているが、私は、その概念をミクロ化し、「個―個」の関係にある程度まで適応できると考えている。


たとえば、ある共同体(高校の一クラス)を想起してみてほしい。その共同体内部では必ず派閥化(リア充グループ、オタクグループ等)が起こるが、その諸派閥の中でも発言権がより高い、共同体全域の主権を握っている中心的グループがある。


その派閥に属する人間は、(自覚があるとすならば)恣意的に「力」を行使し、主従関係を作り上げる。気に入らない共同体構成員を排除したり、自らが心地良い空間形成を可能にする。


その行為が余りにも度が過ぎる場合には、反旗を翻す人間も一定数出現するが、大抵の場合、「力」を所有しない構成員は彼らの振舞いを甘受する。そして、その「力」を欲することもなく、異世界のものだと割り切り、劣等感や無力感に苛まれることもない。共同体内で派閥化し、それが最適均衡地点として保たれているのはその証左でもある。


個人の力の源泉は大まかに分けて以下の各種がある。
(1)年齢
(2)容姿の美醜(顔面偏差値)
(3)運動能力、物理的な力
(4)インテリジェンス
(5)コミュニケーション能力(FARCE)


そして、「力」の中で最も広範かつ恒久的なものは、(5)のコミュニケーション能力である。何故ならば、コミュニケーションの空間というのは、私達が常に居座り続けているフィールドであり、私達は絶えず他者との関わりを持たねばならないからである。それが社会であり、いわば、土台である。


たとえば、運動能力に長けてる人間がいたとしよう。彼は、高校の体育の授業という限定的なフィールド上で、その力を行使し、そのフィールド内に存在する人間へ優位性を確立し、場合によっては彼らを蹂躙し、相対的な地位の向上(意識的、無意識的に関わらず)を図ることが可能である。


もし、彼にコミュニケーション能力が備わっていた場合、その運動能力は、下部構造としての「力」(つまり、コミュニケーション能力)と結び付き、限定的な「力」をより広範かつ恒久的に持続させることが可能になる(たとえば、運動上達のコツを他者に教えたり、自分の運動能力をネタにして話を展開する等etc)。


私達はまず、力の不備を自覚せねばなるまい。徹底的な自己批判・自己点検を行い、黒々とした劣等感・無力感にうちのめされる忍耐力を持たねばなるまい。その先に見えるのは「力への意志」であり、そこで初めて強靭な個が産声をあげるのである。