道化が見た世界

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非リア充諸君、覚醒せよ!

これまでの4年間の大学生活で、私が最も耳にした言葉は「チャラい」リア充である。無論、私はチャラくもなければリア充でもない。しかし、そうでないが故に、私は彼らを理性的に考察し、その枠組みから外れた「非リア充」との差異を綿密に比較検証することが出来た。そして、私はここに一つの結論を導き出すことに成功したのである。その結論とは、



リア充は、リア充を超えられる。



リア充諸君は、リア充を超越できる潜在能力を秘めている。今回の私の提言は、自己の内に蠢きながらもくすぶっている活力を、巧く社会へと放出できない非リア充諸君への、ささやかな一助となることを目的に据えている。


それでは、そもそも「リア充」とは何か。この定義付けには様々な論争が展開されているが、ここでは便宜的に「異性との交流に恵まれている人種」と定義したい。


リア充」と「チャラい」という言葉の、通底に流れるニュアンスは同じであり、大学内でそれらの言葉が四方八方から呪文のように唱えられているのは、その状態に居る人種の価値が広範に認知されていることの証左でもある。


そして、この定義の性質上、たとえ同性の友達が沢山いたとしても、異性の友達がほとんどいなかった場合、彼/彼女は「リア充」の枠組みからこぼれ落ち、逆に、同性の友達がほとんどいなくとも、異性の友達が沢山いた場合は「リア充」となる(それによる同性からの牽制や、同性と喋っていた方が面白い、趣味や遊びに時間とお金を費やした方が良いという言説は度外視します)。


では早速、その「リア充」と「非リア充」が一線を画する結果となった、その決定的差異とはなんなのでしょうか。そう。皆さんご存じの通り、「コミュニケーション能力」です。他の要因も多分に考えられますが、全てはこの能力の差異によって集約されると言っても、言いすぎではないでしょう。


それでは、この曖昧模糊とした力、「コミュニケーション能力」とは何か。それは、「センシティブに空気を読む――大胆に踏み込む」この両極を、有機的に機能させることが出来る力であります。


例えば、好きな異性に告白するシチュエーションを想起してみてください。異性へ積極的にアプローチする自分と、それに対して反応している意中の人、を俯瞰的に、第二の目線で冷静に見ている自分。「大胆に踏み込ん」でいる自分を俯瞰的な視座で見据え、その行動によって変容する空気(この場合は意中の異性)を冷静に客観視し、「センシティブに空気を読ん」でいる自分。


この複眼的視野(行動する自己、考察する自己)を獲得している人間こそ、真に「コミュニケーション能力」の高い人間なのです。ですから、「大胆に踏み込む」ことしか出来ていない人の場合、それは時として、周囲が見えていない独り善がりの暴走の徒として認知されてしまいますし、「センシティブに空気を読ん」でいるだけで、結局行動として表出しなければ、意味が無くなってしまいます。


もうお分かりの方もいると思いますが、前者「大胆に踏み込む」ことに比重が置かれている人種こそ「リア充」であり、後者「センシティブに空気を読む」ことに比重が置かれている人種こそ「非リア充」なのであります。


確かに、彼ら「リア充」は積極的にコミュニケーションを取る人種かもしれません。しかし、彼らの喋っている内容は、別に、高尚な訳でもなく、気品に満ち溢れている訳でもなく、ユーモアに富んでいる訳でもありません。


逆に、「非リア充」が持っていて「リア充」が持っていないもの。それは慎ましい劣等感です。センシティブに空気を読み過ぎて、結局自爆しまう貴方達「非リア充」は、慢心な彼ら「リア充」には見えない世界を、空気の変容の仕方を事細かに把握しているでしょう。それこそが、貴方達の「潜在能力」であり、「リア充」を超越することのできる隠された視点なのです。


今の貴方達「非リア充」にとって、必要なのは、理屈ではない原初の一歩です。「リア充――非リア充」の差異はコミュニケーション能力にあると先に述べましたが、結局は、「しゃべるかしゃべらないか」、行動として表出するか否か、なのであります。


ここまで喋ってきて分かったことですが、「リア充」「非リア充」両者のコミュ力は、実際のところトントンであり、無闇に自分を卑下して、「俺はこの環境では生きていけない」と率先して心を閉じ、おめでたい自爆をしないように気を付けてください。非リア充諸君!今こそ覚醒せよ!