道化が見た世界

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社会に承認されること

言うまでもないことだが、人間は社会に属さなければ生きてゆけない。そして、その社会によって自己が承認されているといった自意識が存在しない限り、その社会は自己にとって居心地の悪いものになる。

 

 ふと、直感的に感じたことはないだろうか。「この社会は私を必要としていない、私がいなくとも機能し得る社会である」と。この様に感じ取れる人間は、社会における自己の役割を意識的かつ意欲的に見出そうとしている人間であり、文化レベルの高い個であるといえる。

 

 私達は、何の為にこの世に生まれてきたのかという命題に対して、答える術を持たない。何故なら、私達が今こうして生きている意味や目的や価値は存在しないからである。しかし、私達はそれらをなんとしてでも見出そうとする。そうしなければ生きていく気力が無くなるからだ。だから、私達はこうも社会に承認されたいと望むのである。

 

 たとえば、高校の一つのクラスを想像してみてほしい。特殊な場合を除き、普通は誰もが、その「クラス」といった社会の中で、自己が有益な役割を果たしたいと願っている。有益なことを為すことによって、社会に承認されたいと思うのである。そうすることによって、彼の自尊心は保たれ、自己愛に溺れることもできるだろう。誰も、教室の隅で一人寂しく座り、周りから空気としてしか認識されない路傍の石にはなりたくはないはずである。

 

 そして、大概の社会は派閥化される。リア充リア充グループで固まり、オタクはオタクグループで固まり、陰気な人間は陰気なグループで固まる。彼らの間には確固とした隔たりがあり、それぞれ違った空間を創り出す。

 

 クラスには大概、クラス全体を席巻するメイン・グループなる派閥が存在する。社会に承認されたい欲が強い人間は、そのグループに自分が入ることを切に願うが、一方で、ほとんどの人間は、彼らが形成した派閥(オタクならオタクグループ)の中で満足をする。その中で自尊心を満たすことに成功する訳であり、閉塞感を感じることがない。彼らはメイン・グループに対する引け目も一切感じることがない。

 

 自己が属する社会に違和感を感じるということは、その人間は自己の役割を意識的に把握している(あるいは無意識的ではあるが何らかの形で把握している)人間である。私を例にあげれば、「人を笑わせる」ことが自己の役割である、ということになるだろう。

 

 私は、人を笑わせることによって、社会に有益に作用してゆきたいと望み、そして、そうすることによって私の自尊心を満たしているのである。故に私は、自分にとって居心地の良い社会を、自分自身が笑いを用いることによって形成したいと思っている人間である。

 

 そして、私が「自分を必要としない社会」と見做す社会は、それができない社会であり、その役割を果たしても無意味であると判断した社会である。

 

 そう考え出してみると、私がとある社会に存在することによって、その社会から出ていきたいと思っている人間もいる、ということもあるのではないだろうか。私が存在することによって、甚大な被害をこうむっている人間がいてもおかしくはない。

 

 現に私自身も思う事がある。この人間が存在しなければ、私はより有益に社会に貢献できたかもしれない、と。彼自身に罪の意識は全く無いだろうが、それは傲慢な鈍感力と言っていい。

 

 私は人一倍社会に承認されたいと欲する人間なのだろう。できることなら、私の知り合い全員に質問してみたいと思う。アナタは、社会に属する上で、どのようにして自己の自尊心を満たし、自己の存在意義を確かめているのかと。

 

人生の充足は、いかに自分が社会で承認されているかに大きく関わってくると言って良い。現在進行形で関わっている社会が、自己の人格を大幅に規定する。その社会で生きてゆく事が困難であると判断するのなら、そこから身を引くのも一つの手である。そうして、また新たな社会を見つけ出すか、あるいは自分自身で自ら創り上げるかの二者択一である。