道化が見た世界

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【構造編】「いじられキャラ」からの脱却方法

あらかじめ断じておかねばならないが、コミュニケーション時空間内で自然発生的に生じる「いじり・いじられ」の役割分担において、「いじられキャラ」は、往々にしてコミュニケーション弱者である。本論を読む上では、まずこの認識を持っていてもらいたい。


そもそも、「いじり」のメカニズムとは、「いじり側」が「いじられ側」を笑いの道具(それ)として用い、周囲にいる人間がその作用に「共感」し、笑うことによって成立するものである。問題は、その笑いの種類が「嘲笑」であるということだ。嘲笑とは、嘲笑する主体が、対象に「優越」を感じた時に生じる笑いである。つまり、嘲笑の対象となった客体は必然的に「劣位」に立たされることとなる。


定義付ければ、人を「いじる」という行為は、その対象を嘲笑の道具(それ)として用い、自己の優位性を確立し、相対的に対象の劣位を確定させる行為である。そして、その行為はすなわち、コミュニケーションにおける個々人の力関係(上下関係)の枠組みを形成あるいは変動させる本質的な営みである。


ある個人が、「いじられキャラ」としての劣位を甘受することによって、その構造は時の経過と共に、より強固なもとして固定化してゆき、「いじり側」と「いじられ側」の主従関係的相互関係の枠組みが形成される。「いじり側」の人間と「いじられ側」の人間が冗談関係という、ある種、自由で打ち解けた形の信頼関係の中にあれば、嘲笑の意味合いも変化するが、一般的な「いじり」とは、対象の自尊心をいたずらに傷付けるような類のもので満ち溢れている。


その「いじり側」が良心を持ち、「いじられ側」に対してwin-win関係を構築してくれることはほとんどない。一般的な「いじり側」の人種というのは、端的に言ってしまえば、ベンジョバエ程度の矮小なプライドを何故だかは知らぬが大層ありがたく愛でつつ、自らの優位性を確立せんと躍起になる心底しょうもないエゴイスト達なのである。(その証拠に、彼らは自分が「いじられ側」に回った瞬間にふてくされたヘチマみたいな顔をして怒り出す。ちっちぇだろ?)だから私は、今現在「いじられ側」の地位を甘受している諸君に声を大にして叫びたい。こんなベンジョバエ共に負けるな 、と。


コミュニケーションにおいて力関係が規定されるというのは、馬鹿にならない話であり、何故なら、私たち人間は社会的動物である限り、他者とのコミュニケーションに常時コミットせねばならない必要があり、その時空間は、時間的に言えば恒常的であり、空間的には広範であるからである。つまり、口語体で平易に言えば、「人間が生きてゆく上で、コミュニケーションが占める割合はめっちゃデカイ。そのめっちゃデカイ領域で力関係が規定され、更に自分がそこで劣位のポジションに常時置かれるということは、直接的に、人生におけるポジションが常に劣位に置かれてるってこととほぼ同義」になる。この段落でもうまく内容を咀嚼できなかった場合は、私に直接メールするなり電話するなり恋文を始めるなりしてほしい。真摯に対応したい。


私が常々疑問に思っているのは、それほどまでに大きな影響を及ぼす可能性があるにも関わらず、当の「いじられキャラ」は、何故かあっけらかんとしているきらいがあることである。恐らく危機意識が無いのか、半ば諦観しているのか良く分からないが、まあどちらにしろ、その地位を甘受するの早過ぎはしないか。


俗っぽい言い方をするが、いじられキャラは総じてナメられる。軽んじられる。個人の尊厳を奪われる。威厳を持たない。良い様に使われる。会話がもたなくなった時に「ちょっと一笑い起こすか」ぐらいの軽い感じで使われる。女の子であれば天然の愛されキャラで済むかもしれんが、男はそう甘くない。それでいいのか。もちろん駄目なんだよ。なぜキミ達はその地位を甘受し続けるのか。この人生を旺盛に生きるには、その地位からの脱却が必要なのだ。


故に私は今回、その「いじられキャラ」からの脱却方法を提示する。宣誓するが、これは「いじり側(ベンジョバエ共)」との飽くなき闘争である。まずその自覚を持て。私達はコミュニケーションという領域(バトル・フィールド)に自らを置き、そこで優勢を保ちながら力関係を形成していかねばならないのだ。そこで発する言葉は、武器となり弾丸となる。ゆめゆめ、自らを劣位に置き、その構造を固定化させてはいけない。固定化するとしても、自らを優位に置いたあとにしなさい。私は、「いじられ側」の人間が、「いじり側」の人間に喰ってかかり、従来あった既存の構造が、ひっくり返るまさにその瞬間、鬼気迫るエンターテイメントの瞬間を、目にして見たい。


次号、刮目せよ。