道化が見た世界

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世界は絶対的に相対的たらざるを得ない。

人とは社会的動物であり、世界とは大小様々な数多の社会が重なりあって形成されているものであり(たとえば国家は一つの大社会であると言える)、社会とは人と人とが、細胞のように結合や分離を繰り返し、関係して形成されるものである。僕達は自分自身から逃れることができないのはもちろんのこと、自分以外の人からも逃れることができない。文字通り、僕達はこの世界で1人では生きていけない。

 

周りには自分より優越した、価値のある存在である他者がいたり、逆に、自分より劣った、価値のない存在である他者がいる。周りには常に、敵になり得る他者がおり、逆に味方になり得る他者がいる。その混交した他者たちとの関係性の中で、つまりその社会の中で僕たちは生きていかざるを得ない。だから、世界とは、絶対的に相対的たらざるを得ない。

 

僕たちの価値は「他者との関係性の中で」相対的に決まる。例えば僕の顔面は芸人の世界で言えば、「比較的」イケメンの部類である。それは芸人界にそれほどイケメンな他者がいないからである。しかし、また違ったホストの世界であれば、普通か、わりとブスの部類になる。一つの世界ではイケメンたりえる僕の顔面は、また違った世界ではブサイクたりえる。一つの世界では価値のある顔面も、もう一つの世界では価値のない顔面となる。これが、相対的な世界である。

 

ありていに言ってしまうが、僕よりブサイクが多い社会であれば僕は相対的にイケメンになれるし、逆に僕よりイケメンが多い社会であれば僕は相対的にブサイクになるということだ。イケメンかブサイクかという価値は客観的に数値化できるものではなく、判断するのは人それぞれ個人的趣向、タイプによるところもあるが、それを考慮するとさらに複雑な話になるので今回は便宜的に度外視している。

 

相対的な世界は、非常に不安定なものである。僕は自分の顔がイケメンであるか、ブサイクであるか、分別のある人間なので、他者の評価をかんがみて判断したいと思う。芸人界ではイケメンだと言われていても、ホスト界では普通、あるいはブサイクと言われる。一体どちらの評価を信じて生きればよいのだろう。僕は思い悩む。しかし、畢竟すると、思い悩むことはごく当然であり、それが正解の感情なのである。何故ならば、僕たちの価値は「他者との関係性の中で」相対的に決まるからである。この世には絶対的イケメンも、絶対的ブサイクも存在しない。

 

相対的であるというこの考察を、今になって思い起こしたキッカケは、「頭脳王」という一つのテレビ番組を見てからだ。その番組はクイズ番組で、僕が見たのは決勝戦で、前回王者の医学部の男子学生と、挑戦者の医学部のイケメン学生がサシで早押しクイズをしているところだった。彼らは日本屈指の頭脳を持つ学生で、確か京大と東大の学生であった気がする。

 

番組的には、そんな彼らの人知を超えた頭脳から導き出される答えに対して、「どうしてそんなこと分かるの?!」的盛り上がりを見せている構図だった。しかし、僕が一番印象的に思ったことは、頭が良すぎてどうかしているのはもちろんなんだが、前回王者の学生と、挑戦者のイケメン学生の相対性が、ドラマチックに描き出されているその光景にについてである。

 

その世界には、彼ら二人しかいない。彼らは日本の学生の中でもひと握りの、トップ中のトップの頭脳の持ち主である。東大や京大という選りすぐりの高偏差値の学生をあつめた社会の中でも、トップに君臨する人種であろう。しかし、今、この世界には、彼らは二人しかおらず、どちらかが勝ち、どちらかが負ける。どちらかが一方よりも頭が悪く、頭が良い。

 

勝戦の経過としては、前回王者がほぼほぼ劣勢のまま進み、挑戦者であるイケメン学生が優勢であった。僕はここで率直に、前回王者がとても憐れだなと思った。王者はおせじにもイケメンとは呼べない学生だった。そんな彼が負けている。僕よりも何百倍も頭のいい、価値のある彼を見て、僕は純粋に憐れだなと思ってしまった。何故なら、そんな彼が相対して負けているのは、自分よりも頭も顔も良い、他者、敵であったからだ。周りもイケメン学生を応援していると思った。顔も頭も良い挑戦者が優勝した方が画的にも良いに決まっている。

 

その光景を見ながら、世の中、不条理だな。と思った。ずっと頭が良いことを自分のプライドとして、存在証明として生きてきて、この相対的な世界で、その価値を絶対的なものに近づけ続けてきて、才能もありながら努力も続けて、他者を劣位において、みんな頭わるいなって優越感も感じたりして、トップに君臨していた、そんな王者が、自分より頭も顔も良い挑戦者に、二人だけの世界で負けようとしている。二人の世界だから負けようとしている。二人ともすごいのに、僕たちの社会からしてみたら、二人ともすごいのに、彼は今、二人だけの世界で、自分より価値のある人間に、惨めにも屈辱的に負けようとしているのだ。

 

僕たちは結局、この相対的な世界で、不安定ながらにも生きていくことを強いられている。これはある種の宿命であり、それを絶望ととるか、希望ととるか、ありのままのもとして受け入れるかは、僕たち自身の自由であることに違いはない。