道化が見た世界

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ゾンビゲーム

今インスピレーションが天から僕の頭に降りてきて、凄い遊びを思いついてしまいました。その名も【ゾンビゲーム】。

 

このゲームが生まれるに至った本質的な部分、コアは、製作者の「女子がキャーキャー言ってワチャワチャしているさまが見たい」、「ゲームという枠組みにかこつけてささやかながらのスキンシップを図りたい」とする純然たる下心がエンターテイメントに昇華した結果です。

 

さて、日本でポピュラーな遊びに鬼ごっこや、ドロケイなどがありますが、ゾンビゲームはこれらに匹敵するゲームの位置付けです。では、遊び方を順に説明していきましょう。

 

1、まず始めにゾンビ役を決めます。ゾンビ役になった人は可能な限りゾンビになりきる必要があります。(例:白目をむく、足を引きずるなど)

 

2、その他のプレーヤーはゾンビから逃げる必要があります。ゾンビに捕まり、体の一部を噛まれた場合(ゾンビゲームの専門用語ではバイト【bite】)、そのプレーヤーは1分後に【ゾンビ化】します。ゾンビ化したプレーヤーは、今度は一般プレーヤーを襲います。

 

3、一般プレーヤーがゾンビを倒すためのツールに【ピストル】があります。手でピストルの形を作り、それを効果音と共に打ちます。手持ちの弾丸の上限は【10発】で、うち尽くすと、逃げるしかなくなるので注意が必要です。

 

4、ピストルの威力の高低は、【効果音】によって決まります。【バンッ】が一番オーソドックスな効果音ですので、威力は普通になります。ここでは、威力が強そうな効果音を出すことがキーになってきます。例えば、【キュイィイイイーーーン…チッチッチ…チュドオオオオン!!】などが挙げられます。普通の場合【ゾンビの頭に二発】弾が当たれば死にますが、チュドオオオオンの場合は即死でしょう。

 

5、一般プレーヤーが全員ゾンビになるか、あるいはゾンビを全て殲滅することができればゲームが終了します。最後まで生き残った一人と残りの全ゾンビが対峙する時にこのゲームの醍醐味、スペクタクルがあるといって言いかもしれません。あと、女の子がキャーキャー言いながら逃げる図もなんとも言えないエンターテイメントがあると言えるでしょう。

 

6、全一般プレーヤーが所有弾数を全て使いきった場合にゾンビが未だ存在していた場合、一般プレーヤーの選択肢は逃げる以外なく、実質の敗北になる為、ゲーム開始前に【制限時間】を設ける必要がある。

 

7、また、ゾンビと人間の総数の比率を決める【ゲーム難易度】を設定する。例えば、人間1:ゾンビ10の初期設定では【VERY HARDモード(感染必至)】、人間10:ゾンビ1の初期設定では【VERY EASYモード(Sorry for Zombie)】などである。女性の人間1:男のゾンビ10などの初期設定は、かなりの上級者設定であり、エンターテイメントの本質を理解していると言える。

 

8、一般プレーヤーは、【ピストル】というツールの他に【ワクチン】も所持している。使用上限回数は【1回】である。接近してくるゾンビの不意をついて【ワクチン注入!】と宣言し、【両手でピストルのような形を作り、それをゾンビに刺すことで】、【ゾンビを人間に戻す】ことができる。しかし、ワクチン注入時には、ゾンビに接近しなくてはならない訳だから、細心の注意が必要になる。

 

このゲームの深さは、効果音の自由度、ゾンビの多様性(勝手にボスゾンビを名乗り、不死身になるなど)など、様々な要素を付け加えてより面白くできることでしょう。ただし、女子がおらず男子しかいなかった場合はなにも楽しくならないことは保証します。逆に大人数ではなくても、男子1:女子1のサシでゾンビゲーム(無論男子がゾンビ役である!)をしても楽しいに違いありません。そこに女子がいればこそ。

 

と言うことで、皆さんもゾンビゲームで盛り上がりましょう!!

トイレのドアノックすな

ドアをノックするという所作は、礼儀作法・マナーとして広くあまねく私たちの日常生活に浸透しています。皆さんも、就活の面接会場に入る時や、兄弟の部屋に入る時、ある種、フォーマルでプライベートな空間に自分が入場する際に、ドアをノックすることがこれまで一度はあったであろうと思います。

 

ではそもそも何故私たちは、ドアをノックするのか。そう考えた時まず挙げられるのは、自分の存在をノックの音で明らかにするということです。ドアの先の空間にいるであろう他者に自分の存在を明示する。そして、そのノックには、「誰かいらっしゃいますか」、「失礼ながら今から入場します」という意味内容が含まれていると思います。ドアをノックせずに入場する人間を無礼だなと私たちが感じるのは、そう言った意思表示をせずに勝手な他者の都合で自分のプライベートあるいはフォーマルな空間を害されたと考えるからです。

 

さて、ドアをノックするというマナーについてある程度理解を深めていただけたと思います。が、本日の本題、私がこの度異議を唱えたいこと。それは、「ドアをノックする」という慎ましい礼儀作法がこの世に存在することは大変望ましいことではありますが、

 

 

 

トイレのドアはノックすな

 

 

 

この一言に尽きます。トイレのドアだけは絶対に、未来永劫、徹頭徹尾ノックすな。一体何故なのか。これからそれを説明していきたいと思います。

まず、そもそも、何故人はトイレのドアをノックするのでしょうか。先述した礼儀作法としてのノックの意味内容を踏襲するのであれば、それは、自分の存在を明示し、「誰かいらっしゃいますか」、「失礼ながら今から入場します」と意思表示したことになります。

ん、おかしいな?皆さん思ったと思います。本来の意味内容とはだいぶ食い違っているな、と。皆さんお察しのように、礼儀作法としてドアをノックすることと、トイレのドアをノックすることとは、一見同じ所作に見えますが、完全に対極に位置する、似て非なる行為なのです。

前者のノックは、文字通り礼儀作法にのっとり、謙虚で慎ましい所作でありますが、ひるがえって、後者のノックは、ただ単に

 

 

 

早くウンチがしたい

 

 

 

というむき出しのエゴイスティックな欲望を他者にぶつける為の、軽蔑に値する愚かな行為に他なりません。更に掘り下げて見ていくと、トイレのノックが「誰かいらっしゃいますか」の確認としての、礼儀としてのノックだとする意見もあるかもしれませんが、

 

 

 

いやいるに決まってるじゃん?

 

 

 

 

取っ手青いところ赤くなってるの見えるじゃん?

 

 

 

トイレのドアをノックする人間は、その個室に人が入っているかどうか真に分からないから、純粋な気持ちでノックをしている訳ではありません。そこには単に一つの欲望、今、他人がウンチをしているかどうかなぞどうでもいい。早くウンチがしたい。待っている俺がいるぞ。早くウンチして出てこい。という至極自分勝手な都合を表明しているに過ぎません。相手が個室内にいることを分かっているにも関わらず、自分の都合で早く外に出そうとノックする行為が許されるのは後にも先にも

 

 

 

アナ雪の雪だるま作ろう

 

 

 

の状況下でしかないことを僕たちは知っています。アナが姉のエルサに向かって、トントントトントン♪雪だるま作ろう〜ドアを開けて〜とドアをノックする状況下でのみ許される行為です。(最終的にはあのアナですらエルサに「あっち行って、アナ」と拒絶されてしまいます。)

 

トイレに入っているこちら側からすれば、ありていに言いますが、アナタがトイレに入れず、我慢できずにウンチを公衆の場でまき散らす結果になったとしても至極どうでもいいのであり、アナタはトイレの争奪競争からふるい落とされた負け組なのであり、トイレの現行の占有権は勝ち組である私に一任されている上、かかるトイレが空いていないのであれば、有無を言わずに空くまで待ち続けるか、他のトイレを探し求めて更なる争奪競争に加わる他に選択肢はなく、それをぬけぬけと、いけしゃあしゃあと、勝ち組である私の束の間の憩いの空間を、ノックという本来他者を尊重する為に生まれた行為をねじ曲げて己のエゴイスティックな欲望の発露として用いることによって、無思慮に奪い去り、おかど違いも甚だしい怒りと焦燥をそのノックの強さによって表明するその姿はまさに

 

 

 

クソの極み

 

 

 

に違いありません。更にノックされた側はノックされた側で、束の間の憩いの空間(三大束の間の憩いの空間としてベッド、お風呂、トイレが挙げられる)をせかされて奪われた怒りと、私なぞのビビり人間にとっては、顔の見えぬ他者が少なからずの怒りと共に外で待ち構えているという純然たる恐怖にさいなまれ、ウンチも満足に出すこと足らず、何故にこんなにもせかされているんだ、別に過剰にくつろいでいるわけではない。実家のトイレで便座に座して新聞を広げ、正面に貼り付けられた世界地図を時折見るなどして悠然緩慢にウンチをしている訳では決してない。私はただごくシンプルにウンチをしたいだけなのだ。クソッ!

 

そして、最もよく分からい風習が、トイレに入っている時にノックをされた場合、自分が入っているという意思表示の為に、ノックをし返すというものである。その様相はまるで、トイレ個室内でのっぴきならない状況が生まれていて、しかしそれを外界から目視することができない。その為の、生存確認としてのノック。大丈夫ですか、大丈夫ですか?!のノック。それに答える、はい大丈夫です、大丈夫です!!のノック返し。ノックが返ってこない場合は、何かしらの危機的状況下に置かれているに違いない!

 

 

AEDかよ

 

 

ちなみに私はノックされても決してノック返しはしない。理由はシンプルに意味が分からないからである。

私は真っ当な人間でありたいと思う。もし仮に自分の入った公衆トイレに既に先客がいて個室が閉まっていてウンチができないとしよう。もう漏れそうだ。間に合わない。他のトイレを探す猶予もない。あと数秒歩いたら漏れてしまうだろう。しかし目の前のトイレは閉まっている。怒りと焦燥が私を襲う。ただその一時の感情に任せて、私はノックをしない。他者をいたずらに侵害しエゴをまき散らす人間にはならない。その時私は、全てを受け入れ天を仰ぎ解き放たれた表情をたたえながらウンチをその場にまき散らす。私はそういう真っ当な人間でありたいと思う。

そふとわきが

のっけから何を言うんだと思われると思うんですけど、僕って

 

ソフトなワキガ

 

なんですね。ワキガにソフトとかハードとかあんのかよ、コンタクトレンズみたいに言うなと思うんですけど、僕は本当にソフトなワキガなんですね。ハードではないほうの。これはある種のカミングアウトであって恥ずかしい独白でもあるんですけど、何故こうも声高に宣言する必要に駆られたかと申しますと、僕は一介のソフトワキガとして、世の同胞諸君に向けて、つまり、ワキガ一族の皆さまに一石を投じなければならないという使命を感じたからなのです。

 

僕は言うなれば、「自覚的」なワキガ一族の末裔でありまして、その中でも脇の臭いが割と「ソフト」な部類の人間です。どれくらいの臭いかと申しますと、シャワーを浴び終わって、Ag+を両脇にそれぞれ15秒ほど照射すれば、その日一日の臭いはまあ及第点、その日の運動量、汗のかき具合によってAg+に準ずる制汗スプレーの照射は適宜必要となってしまいますが、まあ及第点なのであります。

 

まとめますと、僕は自身のワキガに対してひどく敏感で「自覚的」であり、その比較的「ソフト」な臭いに対するケアも事前にマナーとしてすましており、他者への気遣い、自身の臭いによって不快な気持ちになる他者、指摘したくても気を遣ってできない他者、に対する繊細な姿勢を有している人間であるということです。

 

それでは、そんな僕が、ワキガの同胞諸君に向けて伝えたいこととは何か。率直に申し上げて、僕は怒っているのです。これは何も同族嫌悪の感情から申し上げていることでありません。そして、僕以外の、全ワキガ同胞諸君に対して怒っているわけでもありません。私達がかかる臭いを有してこの世に生を授かったことは、ありていに言って神様のいたずらであり、誰も欲しいと求めて授かった才能などではなく、勝手にオプションとして付いてきた返却希望のギフトであり、そこには深い同情心すらあります。

僕が怒っているのは、自身の「ハード」なワキガに対して「無自覚的」な人間です。「ハード」なのに「無自覚的」なワキガです。

 

 

 

 

気は確かか?

 

 

 

 

僕の怒りの全容は上記の5文字に集約されてると言ってよいです。さらにその怒りをひも解いてゆくと、まず第一に頭に飛来する言葉は、「なぜ、そんな鈍感なの?」です。

自称するのもおかしい話ですが、僕は繊細で敏感な青年であり、自分が無自覚的であることに人一倍の羞恥を感じる人間です。ですから、まずその鈍感さがうらやましくも憎らしくもあるわけです。

 

さらに、ワキガの十字架を背負っていないノンワキガの人達も私のように、「なぜ、気付かない?」と感ずることと思いますが、その感情と私が抱く感情の間には濃淡があり、と言いますのも、私は一介の自覚的ソフトワキガーとして、「何故、ソフトの俺ですら気付いているのに、ハードのお前は気付いてないんだ」という、

ワキガーとして上乗せされた黒々とした憤怒があるからです。ありていに言ってしまえば、

 

 

 

「なんでソフトワキガ―の俺がハードワキガ―のお前に気を遣わないといけないの?」

 

 

 

ということになるでしょう。ノンワキガの方々からすれば、なんかワキガ同士でいがみ合ってるんですけど、超ウケるんですけどクセェという滑稽な状況に映ってしまうと思いますが、僕は本当に無自覚的な彼らが理解ができないのです。

 

自分から発せられる臭いを感知するには、五感のうちの嗅覚が正常に機能している必要があります。例えば、臭いの話をすると必然的に汚い話になるのでご了承願いたいですが、自分がしたオナラを嗅ぐとします。クサいです。当然のようにクサいですよね?それを俺のオナラは全然無臭だと言い張ってプップしている人がいたら嫌ですよね?

もう一つ、自分がウンチをしたとしましょう。クサいです。当然のようにクサいですよね?それを俺のウンチは全然無臭だと言い張ってブリブリしている人がいたら嫌ですよね?

 

 

 

無自覚的ワキガ―はそういう人達です。

 

 

 

そして更に何が恐ろしいかと言えば、それは、自分の嗅覚と、他者の嗅覚との落差です。例えば、自分のしたオナラの臭いは、自分よりも他者が嗅いだ時のほうがクサく感じるでしょう。ウンチも然りで、自分がしたウンチのにおいを、自分が嗅いでもクサいでしょうが、他者が嗅いだ方がよりクサく感じられるでしょう。何故ならそこには「他者から発せられた」という圧倒的距離感があるからです。この理屈はワキガにも適用できるはずで、つまり、自分のワキガのにおいは、自分が嗅いでいるにおいよりも、数倍他者はくさく感じている、ということになります。しかし、無自覚的ワキガ―の人たちはそれを嗅覚で感知できていないのです。

 

 

 

気は確かか?

 

 

 

ここまできて、無自覚的ワキガ―の方々に対して一つのテーゼが浮かび上がってきます。それは、「ワキのにおいもおかしいが、その前に嗅覚もおかしい」という命題です。そして、無自覚的ワキガ―から自覚的ワキガ―(僕がここに所属しています)へとランクアップするためには、

 

1.正常な嗅覚を取り戻す

 

2.自分がワキガであることを自覚する

 

3.更にそのにおいが自分で嗅ぐよりもクサいことを自覚する

 

4.Ag+を毎朝両脇にそれぞれ25秒照射することの習慣化

 

このフォーステップを踏むことが必須であると考えています。自覚的になりさえすれば、事前にケアができますし、周囲に変な気遣いをされずに、不快な気持ちにもさせずに、快適なワキガ―ライフを満喫できるはずです。

 

僕は、謙虚な自覚的ソフトワキガ―ですが、よくワキガであることを周囲(ノンワキガー勢が調子に乗りやがって)にいじられ、あちらからこちらの脇を嗅いでくることもしばしば、それを僕は全力で阻止しながら、「やめろやめろ!ワキガだから!!」と脇を閉めながらのけぞるなどの一幕、どんだけ謙虚なワキガなんだと、謙虚なワキガってなんだよと、自分をホメてやりたい気分ではあります。

 

僕が最後に言えることは、ノンワキガもワキガも、ソフトでもハードでも、無自覚的であろうが自覚的であろうが、全ての人類が手を取り合ってAg+を照射し合える平和的社会の実現を心より祈っています。

世界は絶対的に相対的たらざるを得ない。

人とは社会的動物であり、世界とは大小様々な数多の社会が重なりあって形成されているものであり(たとえば国家は一つの大社会であると言える)、社会とは人と人とが、細胞のように結合や分離を繰り返し、関係して形成されるものである。僕達は自分自身から逃れることができないのはもちろんのこと、自分以外の人からも逃れることができない。文字通り、僕達はこの世界で1人では生きていけない。

 

周りには自分より優越した、価値のある存在である他者がいたり、逆に、自分より劣った、価値のない存在である他者がいる。周りには常に、敵になり得る他者がおり、逆に味方になり得る他者がいる。その混交した他者たちとの関係性の中で、つまりその社会の中で僕たちは生きていかざるを得ない。だから、世界とは、絶対的に相対的たらざるを得ない。

 

僕たちの価値は「他者との関係性の中で」相対的に決まる。例えば僕の顔面は芸人の世界で言えば、「比較的」イケメンの部類である。それは芸人界にそれほどイケメンな他者がいないからである。しかし、また違ったホストの世界であれば、普通か、わりとブスの部類になる。一つの世界ではイケメンたりえる僕の顔面は、また違った世界ではブサイクたりえる。一つの世界では価値のある顔面も、もう一つの世界では価値のない顔面となる。これが、相対的な世界である。

 

ありていに言ってしまうが、僕よりブサイクが多い社会であれば僕は相対的にイケメンになれるし、逆に僕よりイケメンが多い社会であれば僕は相対的にブサイクになるということだ。イケメンかブサイクかという価値は客観的に数値化できるものではなく、判断するのは人それぞれ個人的趣向、タイプによるところもあるが、それを考慮するとさらに複雑な話になるので今回は便宜的に度外視している。

 

相対的な世界は、非常に不安定なものである。僕は自分の顔がイケメンであるか、ブサイクであるか、分別のある人間なので、他者の評価をかんがみて判断したいと思う。芸人界ではイケメンだと言われていても、ホスト界では普通、あるいはブサイクと言われる。一体どちらの評価を信じて生きればよいのだろう。僕は思い悩む。しかし、畢竟すると、思い悩むことはごく当然であり、それが正解の感情なのである。何故ならば、僕たちの価値は「他者との関係性の中で」相対的に決まるからである。この世には絶対的イケメンも、絶対的ブサイクも存在しない。

 

相対的であるというこの考察を、今になって思い起こしたキッカケは、「頭脳王」という一つのテレビ番組を見てからだ。その番組はクイズ番組で、僕が見たのは決勝戦で、前回王者の医学部の男子学生と、挑戦者の医学部のイケメン学生がサシで早押しクイズをしているところだった。彼らは日本屈指の頭脳を持つ学生で、確か京大と東大の学生であった気がする。

 

番組的には、そんな彼らの人知を超えた頭脳から導き出される答えに対して、「どうしてそんなこと分かるの?!」的盛り上がりを見せている構図だった。しかし、僕が一番印象的に思ったことは、頭が良すぎてどうかしているのはもちろんなんだが、前回王者の学生と、挑戦者のイケメン学生の相対性が、ドラマチックに描き出されているその光景にについてである。

 

その世界には、彼ら二人しかいない。彼らは日本の学生の中でもひと握りの、トップ中のトップの頭脳の持ち主である。東大や京大という選りすぐりの高偏差値の学生をあつめた社会の中でも、トップに君臨する人種であろう。しかし、今、この世界には、彼らは二人しかおらず、どちらかが勝ち、どちらかが負ける。どちらかが一方よりも頭が悪く、頭が良い。

 

勝戦の経過としては、前回王者がほぼほぼ劣勢のまま進み、挑戦者であるイケメン学生が優勢であった。僕はここで率直に、前回王者がとても憐れだなと思った。王者はおせじにもイケメンとは呼べない学生だった。そんな彼が負けている。僕よりも何百倍も頭のいい、価値のある彼を見て、僕は純粋に憐れだなと思ってしまった。何故なら、そんな彼が相対して負けているのは、自分よりも頭も顔も良い、他者、敵であったからだ。周りもイケメン学生を応援していると思った。顔も頭も良い挑戦者が優勝した方が画的にも良いに決まっている。

 

その光景を見ながら、世の中、不条理だな。と思った。ずっと頭が良いことを自分のプライドとして、存在証明として生きてきて、この相対的な世界で、その価値を絶対的なものに近づけ続けてきて、才能もありながら努力も続けて、他者を劣位において、みんな頭わるいなって優越感も感じたりして、トップに君臨していた、そんな王者が、自分より頭も顔も良い挑戦者に、二人だけの世界で負けようとしている。二人の世界だから負けようとしている。二人ともすごいのに、僕たちの社会からしてみたら、二人ともすごいのに、彼は今、二人だけの世界で、自分より価値のある人間に、惨めにも屈辱的に負けようとしているのだ。

 

僕たちは結局、この相対的な世界で、不安定ながらにも生きていくことを強いられている。これはある種の宿命であり、それを絶望ととるか、希望ととるか、ありのままのもとして受け入れるかは、僕たち自身の自由であることに違いはない。

めでたくても、めでたくなくても

読者諸賢、2018年、新年明けましておめでとうございます。

と、まずはていとして祝わざるを得ないが、私は知っている。実は既に予見してしまっている。またどうせなんの変わり映えもない、だらっとゆるい一年という日常の連続性の中に身を埋め、精神を鈍磨させてゆく自身の姿を。

変わりたいと願っているのに、結局変わろうとする努力もせず、厳密にはするにはするが、習慣化させるには程遠い、ほどほどの努力、努力と言えぬほどのスズメの涙程度の努力でゼェゼェ息をあげてその場にへたり込み、新年だから、節目だからという心機一転の切り替えも、結局は長年飼い慣らし、肥大化させてきた己の怠惰に飲み込まれて雲散霧消することを、私は既に予見している。

が故に、私にとって新年はあまりめでたいと思えないし、日常の延長線上にあるものだし、カウントダウンも一人で家でどん兵衛のそば食べながら迎えたし(しかもちょうど電波が悪くてテレビがつかなかった!)、人様にツイッターやインスタでアピールできるような甘美な年末も送ってなかったし、あけおめラインも誰からも来なかったし(本当は1人からきたが誇張して0にしている)、ましてや年賀状なんて来るわけもないし、世間の新年も盛り上がって行きましょうムードから1人取り残された感じでスタート切ってるし、なんならまだクラウチングからスタート切ってないしで、とにかく、とくにめでたいことはないですけど、ていでおめでとうと言っています。

あ、でも明後日の1月6日に28歳の誕生日を迎えるので、おめでたいことはありますね。あ、でもやっぱり、正直もう年取りたくないし、ホストって20歳前半の後輩がほとんどで、28歳とかほぼほぼいないんですけど、数名しかいないんですけど、もう若い後輩見ると本当に羨ましいし、大学時代に戻れること頻繁に夢想するし、俺、今まで何してきたんだろうって思うし、まあ頑張って勉強してたんですけど、だとしたらこの今現在の売れない芸人売れないホストの境遇なんやねんって思うし、だから結局年取りたくないんでめでたくないですね。

けどそんなもんひっくるめて、めでたいもめでたくないも全部ひっくるめてめでたくありたいと思うので、是非皆様、新年も何卒宜しくお願いします。

ツイッターもやってるのでフォローして、僕の誕生日におめでとうのメッセージ送って下さい。あけおめメールとハピバメール0だと流石に早々ニューイヤーメンタルブレイクくるんで。芸人としてブレイクする前にメンタルがブレイクするんで。宜しくお願いします。

Twitter @hondy_kenty

男はセックスの事をエッチと言うな。

これは僕の至極個人的なポリシーというか、義憤というか、なんでそんなことに突っかかるのかと、客観的には全く理解されないことなんですが、僅かながらにも共感者がいることを切に信じて、ここであえて声を高らかに上げて宣言します。

わたくしは、

 

 

セックスの事をエッチと言う男が許せない

 

 

ゆめゆめこの信念を曲げることが僕にはできません。何故、セックスのことをエッチと言う男子を許せないかと言えば、これは理屈と言うよりもほぼ感情のニュアンスになってしまいますが、なんか可愛い子ぶってる感があるからです。男子なのに女子っぽく、自らのむき出しの性欲を可愛さでコーティングしている感があるからです。嗚呼、男子なのに。ですから、もちろん別に女子がセックスのことをエッチと言うことに対しては、何ら問題ありません。だって女子だもん。

 

ゆえに、同様のニュアンスの問題として、僕は男子が

 

 

キスの事をチューと言うことが許せない

 

 

のはもちろんの事、

 

 

ハグの事をギューと言うことも許せない

 

 

のであります。だいたいキスをチュー、ハグをギューってねえ。というかチューとギューに至ってはもはや

 

 

 

擬音

 

 

 

であり、セックスをエッチと言い表すよりも、より間接的表現というか、乙女感が余計に増してくるというか、もうそんなに女子とのスキンシップの表現方法を擬音でまとめて可愛くしたいなら、

 

 

 

セックスの事はエッチじゃなくてパコパコって言って。

 

 

 

ギューからのチューからのパコパコって言ってよ絶対!

隣の席の女の子は自分のこと好きになる説

僕は中高男子校で育ったので、小学生の時以外は隣の席に女の子はいなかったんですが(大学生時代にも女の子はいたが、クラスと言う固定的な空間はあまりなく流動的だったのでカウントしない)、だから、僕の中の乏しい経験で講釈を垂れるのはわりと憚れるんですが、そこでふと感じたことは、

 
 
隣の席の女の子、気付いたら俺のこと好きになってる
 
 
この一点の確信に尽きます。僕と席が隣になった女の子は気が付いたら僕のことを好きになっていて、一年に4回か5回ほど席替えをした覚えがありますが、そのことあるごとの席替えで僕の隣の席に座ることとなった女の子4~5人は総じてそれぞれ僕のことを好きになっていたという確信があり、僕の中ではそれが当たり前のこと過ぎるあまり、
 
 
小学校あるあるのうちの一つ
 
 
としてカウントしていたふしがあります。これは僕個人の個別具体的な事象(僕があまりにも魅力的な人間なので、それを間近で見ている異性が無意識的に惹かれていってしまう)というよりは、ある程度一般化が可能な事象であると考えていて、それ故に今回タイトルを「~~説」と銘打っている訳であります。
 
何故一般化できるかと言うと、そもそも、固定的な空間でほぼほぼ毎日顔を合わすという状況は学生時代特有で限定的なもので、小中高の12年間以外ではなかなか経験することのできない特殊な状況であるということが言えると思います。
 
クラスという形態ですら固定的で継続的なわけですから、さらにその空間内において最も近い存在者(隣の席の女の子)は誰よりも自分と濃密に時間と空間を共有することになります。
 
よくある心理学的な話で、何回も同じ人と出会うとその人を意識しはじめるというのがあって、だからどんどん会うようにしましょうということなんですが、その状況を極言すれば、まさに隣の席の女の子ということになるでしょう。より長い時間、お互いに時間と空間を共有することは、関係を深めるために、人を好きになるために、非常に重要なファクターであると言えます。
 
そして、小学生時代、隣の席の女の子を絶対的に魅了し続けてきた僕から皆さんに、告白したいことが一つあります。
 
僕は当時、隣の席の女の子の心を射抜くプロフェッショナルとして無意識的に天狗になっていたきらいがあり、席替えの時に自分の隣の席を「マイハニー・プレミアムシート」として勝手に認知していたきらいもあり、そうやすやす誰にでも僕の隣に座らせることはできないと大上段からクラスを睥睨しておりました。
 
そして迫りくる席替えの時、まずは女子がクラスから出され、クラス内には男子のみが残り自分の席を決めます。これは誰がどこに座っているかを女子に特定されないためであり、完全にアトランダムで席を決めるというシステムでありました。
 
そして、その席は既に予約済み(誰が座るかは分からないが、その席には男子の誰かが座ることが分かる)であることを女子に知らせるために、男子生徒はみなそれぞれ自分の手荷物(筆箱、てさげ袋、etc)をその席のどこかしかにセットするというプロセスがありました。
 
このプロセスに欠陥があることは誰の目にも明らかであり、というのも、その手荷物が誰のかを女子が判別できさえすれば、その席にどの男子が座るのかというのは事前に把握できてしまうからです。
 
当時の僕はこのプロセスの欠陥にいち早く気付き、そう簡単に俺の隣には座らせまいとする天狗心が躍りに躍り、結果として、てさげ袋をいわばフェイク(いわば釣り餌)として用い(実際にてさげ袋がかかった席には違う男子が座る)、僕の本当の席はMONO消しゴムを机の上に置いた席となりました。そして、一旦男子がクラスから出され、女子がクラスに入りそれぞれの席を決めます。
 
 
いざ!!選別の時!!!
 
 
そう心の中で叫び、先生の「それでは男子のみんなも入ってきてください、女子はそのまま席に座っていて大丈夫です」という言葉と共に僕はクラス内をゆっくり睥睨しました。
 
そこで僕は愕然とします。僕のフェイクてさげ席の隣に、僕がかねてから恋慕の念を抱いていた女の子が座っていたのです。その女の子は目を輝かせながら口パクで隣の席を指さし、「ここ?」と僕に向かって伝えてきたのです。
 
 
そこじゃないィ!!本体は別にあるゥ!!!
 
 
僕はそこで、自分の犯した大きな過ちに気付きました。自分が尊大に振る舞ったせいで、フェイクてさげなぞという訳の分からない障害物を設置したせいで、本来獲得できた幸せをも無に帰してしまった。そして僕は、もしも自分が天狗にならなければ実現できた彼女と隣の席どうしの幸福な生活に思いを馳せていました。
 
 
 
あの子、絶対僕の女になってのに!!!(血の涙を流しながら)