道化が見た世界

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人生で初めて女子に胸ぐら掴まれる

蒸し暑かった夏も終わり、大分過ごしやすくなって来た今日この頃ですが皆さんはいかがお過ごし。もう九月も終わりを迎えつつあり、今年も残すところ三か月という頃合いになって参りましたが、、、あ、そうそう。そう言えばつい先日、私、人生で初めて女子に胸ぐらを掴まれたんですが、

その経緯をこれから話して行きたいと思います。

 

私は売れない芸人をしている傍らに、アルバイトで売れないホストもしているんですが、そのホストクラブに初回でいらっしゃったお客さんがいました。そのお客さんは20代前半位で、結構飲み慣れている感じで、何よりお酒が強い方でした。

 

そして当の私も人一倍お酒が強いと自負している誇り高き万年ヘルプですから、そのプライドを示すべく、「いや!俺の方が酒強いから!」と煽りながら、結果として彼女との飲み合いをするという運びになりました。

 

営業が終わる少し前の来店でしたので、時間としては一時間くらいでしたが、ちょうど鏡月のフルボトルを一つ空けたくらいの時間で、勝敗としてはイーブン、決着つかずという形になりました。

ただ私はこの段階で既にだいぶ酔ってたんですが、何をもって負けと定義するか、それは一方が他方に対して「もう飲めません、負けました」と宣言することに他ならず、どれだけ酔っていようがその言葉は決して言うまいと心に決意した私の見上げた三流ホスト魂はここぞとばかりに火を噴きはじめ、「まだ俺たちの戦いは終わっていない。アフターで飲みに行こう」と彼女に提案しました。

 

アフターというのは、ホストがホストクラブの営業終わりに、その日来店してくださったお客さんと会うことを言います。言うなればプライベートな時間のようなもので、ご飯に行ったり、カラオケに行ったり、また飲みに行ったりなどして過ごすことを指します。

 

彼女には、お気に入りというか、仲良くしゃべっていた私の後輩のホストが一人いて、その子が付いてくるなら行くと彼女は言いました。ですので、私は彼を連れて営業が終わってから彼女に会いに行きました。

彼女はどちらかと言えばポーカーフェイスで、表情を見ただけでは酔っているか否か判別できない人種でした。ひるがえって私は前述通りだいぶ酔っていて、後輩に至っては絶賛「ちょっと吐いて来ていいすか?」状態だったので、これは満身創痍の出陣になるぞと再度心を決めました。

 

二軒目の飲み屋では二時間飲み放題を注文し、ただひたすらビールを飲み続けていました。このあたりからだいぶ記憶がまだらになりはじめるんですが、僕の中ではまだまだ戦えるという確固たる自信がありました。その自信を支えるのは、かれこれ5年を数える僕の圧倒的売れていない故に伸びしろしかないホスト人生で積み上げてきた圧倒的経験値に他ならず、そんじょそこらの若娘に負けるはずがないという向こう見ずな矜持でもありました。

 

そして三軒目のバーでは、後半の記憶がバッサリ抜け落ちており、どれくらい酔っていたのか判別する事象を挙げるとすれば、トイレで用を足したあと洗面台の鏡越しに映る自らの姿を他者と見誤り、鏡に映る自らの顔面に指を差して目を見開きながら「おいなに見てんだテメェ!!」と密室で自分で自分に凄む程度に酔っていました。今にも消えてしまいそうな2%程度の理性の残滓の中で僕は、「これはマズイ」と思いました。もう負けでいい。ってかもう負けでいい。そもそもお酒どっちが強いか勝負とかしょうもないことアラサー男子すべきじゃない。もう早く帰って寝たい。一通り吐いてから寝たい。

 

三軒目のバーを出た時には既に日が昇っており、どれだけの時間飲んでいたんだという感慨と共に疲労感を感じました。そしてそのバーが入っていたビル前の路上で彼女と別れを告げ、嗚呼頑張ったし疲れたなと吐き出しふと横を見ると一緒に連れてきた後輩がほぼ寝てました。僕は「え、起きてる?」と彼の頬をぺちっとはたきました。

 

 

 

「ねぇ!!!!」

 

 

 

っ?!?!

 

 

 

「私、暴力振るう男大嫌いなんだけど!!!!」

 

 

 

?!?!?!

 

 

 

吐きたくなるほどの酔いと疲労も相まってはいたと思いますが、僕は本当にその一瞬、何が起きたのか皆目把握できませんでした。ただ僕の目の前には、般若のような形相をした、20代前半の、身長も僕よりは幾分も低い、さっきまで一緒にお酒を飲み交わしていた女子が僕の胸ぐらを確固とした力で掴んでいたのです。

 

彼女は僕たちと一旦別れてから、道路を1つ渡って向かいのコンビニ前あたりにいたと思います。そしておそらくですが、振り向きざまに、僕が後輩の頬をぺちんと叩く光景を目の当たりにしたのでしょう。彼女はその光景を見るや否や怒号に似た声を発したのちに、一度渡った道路を再び戻って来たのです。なんで戻って来たかって?僕の胸ぐらを掴みに来たんです。

 

僕は気が動転しながらも、まずはじめに「女の子ってわりと力強いんだな」と感心しました。だって上半身全然動かせねえんだもん。彼女は僕の真正面、至近距離で暴力が絶対的に許せないこと、つまり僕のことが絶対的に許せないことを胸ぐらを掴みながら怒号をもって僕に主張してきます。彼女の胸ぐらを掴む力もさることながら、その胸ぐらへのねじり具合も常軌を逸しており、控えめに言ってもトリプルサルコウほどのひねりがありました。

 

僕はただひたすら、彼を殴ってはいないこと、そもそもが誤解であること、ただ、僕がしたことと言えば、優しくソフトかつジェントルにぺちんと彼の右頬をフェザータッチで一叩きして肌と肌が触れ合ったこと、いわば、

 

前戯ビンタ

 

したことを伝えましたが、彼女は聞く耳を持ちません。目線を外すと(彼女から見たら暴力被害者である)後輩が僕たちを見て笑っていましたが、その後輩を見るや否や彼女は「笑うな!」と一喝します。

 

 

 

キミは一体何と戦っているんだ。

 

 

 

そして、断崖絶壁にジリジリと追い込まれて行くように、彼女は僕を後ろへ後ろへと胸ぐらを掴みながら押していきます。僕は今から本当に崖から落とされるんじゃないかと錯覚するくらいに彼女の底知れぬ憤怒を宿した表情には説得力がありました。そして僕の後ろにはたまたま割と高めの段差があり、無論それが見えない僕は結果として盛大に後ろへとコケてしまいました。

 

一瞬何が起きたか分からなかったですが、ふと目の前を見ると彼女が依然として僕の胸ぐらを掴んでいます。構図として、パッと見ただけであれば、よく少年漫画であるようなちょいエロ学園モノで、女子生徒と主人公の男子生徒がお互い学校に遅れまいとダッシュしていて、曲がり角でぶつかってしまい倒れてあわやキス寸前的な構図だったはずです。

 

 

ただ、こっちの人般若の顔してますし。

 

 

僕、ケツ打ったあと、後頭部もちょっと打ってますし。

 

彼女がどういった環境で育ってきたのか、どういった経緯で暴力を極度に嫌いになったのかは皆目知り得ぬことですが、僕は彼女の胸ぐらドンの一連の行動を見るにつけ、

 

 

これこそ暴力なのではないか

 

 

これこそがキミの忌み嫌う暴力なのではないか

 

 

自ら忌み嫌う暴力をまさに自らの手で行使してしまっている自己矛盾、己こそが正義であると盲信しているその独善的な不正義、そのただ中にキミは身を投じているのだという、ある種の

 

 

 

哲学的問い

 

 

 

の前に立たされた僕は、時間にして30分ほどの胸ぐらドンを体験したのちに、最終的には力なく彼女との(気持ちとしては)今生の別れを告げました。彼女は最後の最後まで般若でしたが、この白昼に行われた路上での一連のアクシデント、後輩に後日聞いたところによると割とオーディエンスがいたらしいのですが、その方たちに僕達は一体どのように映ったのでしょうか。

 

恐らく可能性としては、彼女の人格を否定するレベルで僕が彼女を罵倒した結果、彼女に逆切れされているように映ったかもしれませんし、あるいは、浮気が発覚した彼氏が彼女におもいっきし詰められているように映ったのかもしれません。

ただ、蓋を開けてみると原因は単に、僕が立ちながら寝ている後輩に前戯ビンタしただけです。

 

帰りの道すがらに、最悪の日だったなと思い返しました。わざわざアフターをしてまでお酒代を出して、重度の二日酔いになって、吐いて、結果として胸ぐらを掴まれて転んで怒号を浴びせられる一日を。

 

「先輩、服のそこやぶれてますよ。」

僕は「えっ!」と胸ポケットの辺りを見て驚いたのちに力なく笑いました。

上を向いて歩こう。そして家に帰って下を向いてトイレで吐こう。暴力はアカンという気持ちを込めながら。

学歴について

学歴について僕が語りたいことはいくつかあります。そもそも学歴というのは、個々人の社会的価値をはかる大きな一つの尺度であり、それが高ければ高いほど社会的な力を有する(あるいは発揮しやすい)ものだと思います。

 

基本的に社会的に勝ち組と謳われているのは、いい大学を卒業して誰もが聞いたことのある大企業に就職している人種だと考えられますし、例えば結婚する場合にも、両親や親族がまず第一義的に関心を向けるのはその男性ないし女性がどこの大学を卒業し、どこに就職をしたか、ということになると思います。

 

そしてそんな僕の最終学歴は慶應義塾大学法学部政治学科2012年卒なんですが、僕は一度たりともその自分の学歴を社会的価値のあるものとして認識したことも、執着したこともなく、ありていに言ってしまえば、気が付いたら息をするように入学していたということになります。

 

僕が慶應大学を卒業後に売れない芸人&売れないホストのレールに自らの意志で乗ったことからもお分かりのように(売れていないのは本意ではない)、僕は自分の学歴に対してなんの頓着もしていません。もし仮に学歴に頓着していたのなら、まず芸人の道には進んでいなかったでしょう。

 

そういう僕の目から見て、非常に特異に映ったことがあります。たとえば僕がふざけてある人の学歴(自分よりも低学歴)を、自分の高学歴を盾に小馬鹿としましょう。「え?そんな大学行って、なんで自らの経歴を自ら汚すの?」と言った具合に。そうすると、彼は急に血相を変えて憤怒の色をあらわにしながら、「学歴だけ高くても人間性ははかれない。肩書きにしかすがれない、中身空っぽの男だキミは!」と反論してきます。

 

僕はその時に、どうしてこんなにも急激に怒るのだろう、と思いました。ちょっといじったくらいで、なんでこんなに人間性を否定されなければならないのだろうと。それから少し経って考えていたところ、僕がはたと気が付いたのは、学歴を馬鹿にされることは彼にとって「人間性を否定」されたくらい重い言葉だったのだ、ということです。

 

つまり、彼の中で、学歴という社会的価値はとてつもなく大きなものであり、そうであるが故に、人間性を否定されたという強い拒否反応として僕に言い返してきたのです。ひるがえって僕は、学歴に社会的価値をあまり感じない人間ですから、学歴いじりというのは僕にとって、ほぼ確実に勝てるディスりカードの一枚くらいでしかなく、結果として僕と彼の温度差、距離感をとても特異に感じたのです。(蛇足ですが、学歴を持たず、さらに曖昧模糊とした人間性という概念にすがっていた彼の人間性は果たしてどうだったのでしょうか。)

 

僕はその一件で、社会が学歴という価値を見る目と、僕自身がそれを見る目との間にだいぶ大きなギャップがあるなというのを感じました。

どちらかと言えば僕は、人を学歴という属性だけで見て、より高ければ高いほどよいと感じ、阿諛追従する俗物的な感受性を忌み嫌っています。ですから、たとえば慶應卒の同級生などが学歴という大きな社会的価値のみを盲信し、さもそれが全ての絶対的な価値尺度だという態度を取っていた場合、虫唾が走ること請け合いです。そういった空間にはいたくないですが、悲しいことにそういう感受性が世の中の大半を占めるのは事実です。

 

僕は今現在、売れない芸人と売れないホストをしている訳ですが、ときたま、ホストクラブに大学生がくることがあります。お笑い芸人の世界もホストの世界もそうですが、そこにはほとんど大卒の人間はいません。つまり、社会的に見れば低学歴層であることは一目瞭然であり、それを意識的にでも無意識的にでも感じている大学生(つまり、学歴を絶対的価値として盲信する大学生)の態度は少し上からというか、ニュアンスで感じられる程度ですが、僕たちを馬鹿にしている、横柄な感じがしました。

 

学歴を鼻にかけているな、と僕は感じました。接客中に、大学生なんですかと質問し、どこの大学ですか、サークルは何をしてるんですか、などと掘り下げているうちに彼女はおそらく僕も大学に通っていたのだろうと思案したと思います。

もう少しだ、と思いました。もう少しで彼女は僕に、「どこの大学行ってたんですか?」キラーパスを出してくるはずだ。自分から大学名を言ってはいけない。その答えはあくまでキミの質問への返答と言う形で提示しなければいけない。はやく!はやくパスをくれ!俺をバカだと思ってさぞ見下していることだろう。その俗物的な価値観に毒されて、さぞ俗物的生活を満喫しているに違いない。しかし!キミのパスでその世界は音を立てて崩れ去るであろう!嗚呼早くキミが呆気に取られているおめでたい顔を拝みたい!キミがその俗物的価値観に支配されているなら支配されているでよい!キミがそこの世界に安住し、他人を上から目線で見下ろすならば、私もあえてその同じ土俵に降りて戦おう!さあ!早く!質問をするんだ!さぁさぁ!!

 

 

「どこの大学行ってたんですか?」

 

慶應義塾大学部法学部政治学科2012年卒です」 

 

「「MARCH風情が、図に乗るなよ!」」

ヨガサークル入門

いまからする話は私が大学生の頃の話である。私は当初、慶應義塾大学(単に大学と明記すればよいにも関わらず、あえて慶應と言うのは、自分の学歴をひけらかしたいがためである)のダンスサークルに所属していたが、あまりにもリア充過ぎる集団であったために、中高男子校出身の私の適性には合わず、およそ一年ほどでそのサークルを後にした。


どのサークルにも属さない、無所属となった私は焦燥感に駆られていた。何故なら、大学という空間は流動的であり、サークルという固定的な共同体に属さなければ一人孤独感にさいなまれ、非リア充化を免れることはできないからである。


私はリア充になりたかった。なるほど確かにダンスサークルでのリア充化という可能性は断たれたかもしれないが、私はどんな手段を使ってでも、泥臭く這い上がってでも、自身のリア充化という悲願を成し遂げたかった。


女子にチヤホヤされたい。


私の魂がそう叫ぶ。私はなりふり構わず入学当日にもらったサークル一覧の冊子を開き、チヤホヤチヤホヤと呪文の様に唱えながら一心不乱にページをめくり続けた。女子率高し女子率高し、私のそのつぶやきは一つのページの前で止まった。


ヨガサークル


その黄金の文字列を見るにつけ、ここしかない、ここが私の求めていた唯一の桃源郷であるということを悟るに至った。私は早速、そこに書かれていた代表のメールアドレスにメッセージを送り、体験でヨガりたいです、可及的速やかにヨガりたいですという旨を伝えた。


私は不安と緊張に加え、この下心満載の行動は果たして人間として倫理的に正しいのかといったいくばくかの背徳感を胸に秘め、しかし、リア充になる為には通らねばならぬ道だ、なりふり構わず行動するのみと自らを納得させヨガをする体育館へと向かった。この一歩がリア充への道となる、私はそうつぶやき体育館の扉を開いた。


そこは見渡す限りの花園であった。正面を見ても女子、右を向いても左を向いても女子、後ろを向いても右斜め前を向いても左斜めを向いても全方位的に女子しかいない。


私は歓喜した。私が求めていた空間が、眼前に広がっていたからである。私は自身がリア充になれることを確信した。やはり、人のあるべき姿とは、第三者の目線や、周囲の罵詈雑言などには聞く耳を持たず、自らの信ずべき道をただひたすらに、無批判かつ実直に突き進めば良いのだと。道徳や倫理感を超越したところにしか存在し得ない境地に、私は達したのだと。


しかし気付いた頃には、私は言葉が出なくなっていた。これは感極まって言葉が出なくなったというたぐいのものではない。あまりにも女子が多過ぎて、その圧倒的数に精神的に失禁し、ただの筋金入りのシャイボーイに成り下がっていたのである。意味が無い。皆目意味が無い。リア充になる為にここまでの行動力を見せたのにも関わらず、その圧倒的数の女子を見るにつけ何もしゃべれなくなってしまったのである。私の信念はいとも容易く崩れ落ちた。


女子とのコミュニケーションは全くなくともヨガのレッスンは進んだ。私を全方位的に取り囲む女子達と共にヨガのレッスンが始まった。ぶっちゃけこれだけでも幸せではあった。彼女達は私が純度100%の下心で入会してきた男子であるともつゆ知らず、少なからず、え?と怪訝な顔を浮かべていた女子は差し当たりシカトし、みな総じて真面目にヨガをしている。ふと、私のよこしまな情念は、彼女達の美しい身体と精神によって浄化されてゆくような気がした。


ヨガのレッスンも佳境に向かい、ヨガの先生が、次は肩甲骨を伸ばしますと言ってエジプトのスフィンクスの様な格好をした。肩甲骨を伸ばす為にかなり前のめりになったスフィンクスのようで、お尻を後方に突き出す形をとった。


私は先生に言われた通りに、まずスフィンクスのように四つん這いになり、そのあと前傾姿勢をとってからお尻を突き出し前を向いた。前を向いた途端、私は絶句した。



そこにはお尻があった。



私の前でヨガをしていた女子の圧倒的おしりが、圧倒的近さで、圧倒的なエロさで私の前に突き出されて現れたのである。ヨガをする時の服装というのは、上はTシャツのようなラフなものだが、下はわりとピッチリとした、身体にフィットした、つまり、身体の曲線が露わになるものである。ありていに言ってしまえばピチピチである。


つまり、そのピチピチの状態のおしりが私の眼前に圧倒的近さと圧倒的エロさで現れ、その、おしり付近の、なんというか、その、曲線の一つ一つというか、その、クッキリ鮮明に、あの、お茶を濁すようであれだが、つまり、その、デリケートゾーンが、ウェルカム状態だったのである。


私は確かに、自身のリア充な生活を思い描き、そのヨガサークルに入門した。女子との交流こそがリア充な生活を送る上で不可欠であると確信していたからこそ、女子率が高いヨガサークルに入る決意をしたのである。その過程でサークルの女子と仲良くなり、友達になり、飲みに誘い、青春を感じさせるランデブーなりなんなりのエロティシズムを期待していたとしても、その少年に罪はあるまい。下心満載の少年の心は決して咎められるべきではない。


しかし。しかしである。その私の前に存在する圧倒的おしりは、圧倒的近さとエロさで存在するそのおしりは、私の下心を超越したところに存在するものであった。あまりにもクッキリと鮮明に、絶対的に存在するそのおしりを前にして私は思わず笑ってしまったのである。


かかる圧倒的おしりと、圧倒的シャイさを見せつけられ、見せつけた私は、ヨガサークルにていとしては入ったものの、その後数回ほど参加したのちに、やはり圧倒的過ぎると思い至り幽霊部員化し、結局ヨガサークルを去ることになった。


私は結局のところ、リア充生活を勝ち取ることができずに終わったが、私があの桃源郷で見た桃尻は、私の脳裏から離れることは無い。

女性がジャニーズやEXILEと付き合わずに僕達一般人と付き合うことは妥協である。

新年明けましておめでとうございます。そして、本日1月6日は僕の25歳の誕生日なんです。誕生日にこのような記事を更新するのは拗らせの極みの様な気も致しますが、実際に拗らせの極みなので理にかなっているというものです。



さて、今日は僕が常々抱いている疑念というか、もうどうしようもないこの世界に、ただ無力な自分がいるというポエティックであり虚無的な心情を、客観的に考察したいと思います。それはタイトルにもある通り、女性がジャニーズやEXILEと付き合わずに僕達一般人と付き合うことは妥協である。という命題です。



こういうこと言うと、まずはじめに善良な市民の皆々様は、「いや、有名人を好きになるのと現実世界の人を好きになるのは全然違う感情だから。」なぞと、生暖かい吐息をかけてくるきらいがありますが、冷静になって考えれば分かりますが、ジャニーズもEXILEも僕たちも、総じて現実世界の人間なのです。



まずは認識を新たにしなければいけない。そもそもジャニーズもEXILEも僕たちも、この地球上に生存している人間であり、男子なのです。みんな同じ土俵に立ってはいるのです。では、同じ土俵に立ってはいるのに、どうして好きという感情を「(有名人に抱くそれとは)違う感情だから」と言われてしまうのか。


彼女たちの主張は絶対的に誤っています。彼女たちが抱く好きという感情は、ジャニーズに対しても、EXILEに対しても、僕たちに対しても、それぞれ同質なものです。しかし、けれども、違う感情として彼女たちの中で処理されてしまう原因、それは、ジャニーズやEXILEが遥かに超越的に格上であり、ひるがえって、僕たちが遥かに超越的に格下の存在であるからに他なりません。




ごくシンプルに言ってしまえば、




彼らと比べると、僕たちは何の魅力も価値もない。






一人の男として完全に敗北している。






何の為に生きているんだろう。





彼らがあまりにも魅力的で、価値があり、輝いて見えるので、彼女たちは、自分が抱く好きという感情をねじって理解してしまっているのです。僕たちは彼らに比べると、価値も低く、魅力も無く見える対象でしかないわけです。イケメンであり、歌って踊れ、ひたすら努力を重ねている彼らに勝てるはずもありません。これが現実なのです。



さて、ここで一つ考えてもらいたいことがあります。誰かとお付き合いしているときに、みなさん一度は、ふと不安になったことはありませんか。「この人が違う人のことを好きになったらどうしよう」という不安を抱いたことはありませんか。自分よりイケメンな人に、可愛い人に迫られたらどうしようという、あの普遍的で根源的な不安。



自分より魅力的であり価値のある他者が、自分と付き合っている人に迫ってきたら、そこに見えるのは敗北という二文字でしかない。それが、ましてや、あの、名高き、男の頂点に君臨するジャニーズ様やEXILE様であったとしたならば、一人間としての圧倒的完敗しかあり得ないでしょう。



僕が嘆きたいのは、明らかに自分が無力であり、魅力的ではなく、価値のない人間であることを自覚せねばならないということです。仮に僕が誰かと付き合っていたとして、その子の前に自分より魅力的で価値のある男が現れ、彼に迫られたとしたら、僕は確実に負けるでしょうし、仮に負けていなかったとしても、それは、その子の前に自分より魅力的で価値のある男が現れていない限りにおいてでしょう。



だから、結局のところ、僕が言いたいことは、タイトルに戻りますが、女性がジャニーズやEXILEと付き合わずに僕達一般人と付き合うことは妥協である。ということなのです。確かに、そこらじゅうにジャニーズやEXILEがいるとは言いませんが、少なからず、あなたを脅かすジャニーズやEXILE“的”な存在はいるに違いありません。



そう考えると、他者(特に同性)は潜在的にも顕在的にも自分にとっては敵でしかない。自分では到底かなわない敵が周りにはうじゃうじゃいるかもしれないという恐怖と不安を背負ってかないといけない。



どうすれば、そんな彼らに勝てるのか。まず勝ち目はないんです。ただ、信じるしかないんです。自分達が付き合っている子に対する、自分の、愛の力が、彼らよりもまさっているか、というその一点のみに、全てを捧げるしかないんです。その子が、その愛という、計量不可能で曖昧模糊としたアホみたいな抽象的概念を汲み取り、繋がり続けてくれるかという一点のみを信じるしかないのです。








、、、死にたくなるだろ?
(完全虚脱)

約束させるという行為はチートである。


今年に入って半年近くぶりの更新である。2014年という新年が明けてからすぐ書いた記事、これから精力的に更新してゆく旨を伝えたあの記事を、既に新年の折り返し地点に差し掛かっている私が見つめている。もはや2014年は新年ではない。これも私の怠惰のしからしむるところである。全ての罪は怠惰にあり、私にはない。


さて、早速本題に入っていきたい。一般的に「約束する」という行為は、どのようなものだろうか。今回私が話したいのは書面上で交わされる様な契約的な、フォーマルな約束ではなく、当事者間でライトに行われる口約束である。


端的に言えば、「約束する」とは、当事者間での決め事を、私はちゃんと守りますという宣言である。そして私達は、した約束は守らなければならないという倫理観を、社会的に植え付けられて育ってきた。つまり、その約束を「破る」という行為は、非倫理的であり、人とのしてしてはいけない行為と認識しているのである。


重要なのはここなのだ。約束を守ることはまっとうな人間として当たり前のことであり、約束を破ることは、まっとうな人間としてあるまじきことなのである。私たちはかかる倫理観を共有して生きている。


この前提を頭の片隅に置きながら、タイトルの「約束させるという行為はチートである」を掘り下げてみよう。約束させる行為というのが何故、チートなのかと言えば、結論から言えば、当事者Aの欲望を、約束させるという行為にかこつけて、ノーリスクで満たすことができるからである。


何を言っているのか分からないと思うので、分かりやすく、約束を交わす当事者Aと当事者Bを例に挙げて説明したい。当事者Aは当事者Bに対して約束を取り付けたいと思っている。その約束とは、自分の欲望に即した、「今度、美味い飯連れてってくださいよ!約束ですよ!」というものである。


当事者Aは自分の食欲を満たしたい、その道具として当事者Bを利用しようと企んでいる。よく考えてほしいが、当事者Bには当事者Aの食欲を満たさねばならない道理はない。まごうことなきAのエゴであり、にも関わらずこの上から目線の物言いは、一体何であろう。


ここで、当事者Bは半ばノリでその約束をしてしまった。今度美味い飯に連れていく約束をしてしまった。ここでBの中にその約束への義務感と、それを破ってしまった時の罪悪感が同時に生まれるのである。ここが重要である。


Aは自分の欲望をぬけぬけとさらけだして、その欲望を満たすようにBに求めた。むろんBはそれに従う道理はない。非難されるべきは間違いなくAである。しかし、Aはそれを約束というヴェールに包んで提示してきた。そしてBはそれを快諾してしまった。Bがそれを快諾してしまった瞬間から、その理不尽な要求を履行せねばならない義務感と、それを破った時の罪悪感に苦しめられることになる。


何故なら、約束を破るという行為は、まっとうな人間としてあるまじき行為だからである。


Aの立場になって考えた時、約束させるという行為がいかにチートであるかが理解できる。そもそもの問題なのだが、約束を取り付けるという行為自体が、完全にノーリスクなのである。約束させる相手にただ、「約束ですよ」と添えるだけでいい。演出として指切りをすれば、もう完璧だろう。


Aはノーリスクで自分の欲望を叶えることが、叶える可能性を高めることができるのである。万が一Bが約束を破った場合には、Bを人格的に糾弾することさえできてしまう。「約束を破る人ってどうかと思いますよ。人としてどうなんですか。人間性疑います。」といった具合に。この理不尽さ、皆様に伝わっていますでしょうか?


また、約束の強度を高めるためには、むろんその当事者が約束を守る人間でなくてはいけない。普段約束を守らない奴の約束を、誰が守らなくてないけないと思うだろうか。そんな奴に約束守れよと言われたところで、いやお前だって約束破りまくってるやんでアウトである。


それと、約束される側の立場から言わせてもらうと、約束というのはむやみやたらにするべきものではない。約束させられそうになったら、とりあえずお茶を濁す。約束にはお茶を濁す。これが正解である。


で、最後に言いたいのは、私たちはドンドン自らすすんで相手方に約束をさせるべきなのです。こんなにノーリスクで自分の欲望を満たすことはできないからです。約束という便利なツールを使って、自分の理不尽な要求をたたきつけ、もし相手方がその押しに負けてその約束をしたとなればこちらのものです。約束が守られればもう言うこともなく完璧ですが、仮に破られたとしても、「約束を破るという人間としてあるまじき行為をした」相手方の人格を徹底的に攻撃できるのだから。

2014年 新年明けましておめでとうございます 本年度も何卒宜しくお願い致します

 読者諸賢、御無沙汰である。私は久しくこの場に姿を現さなかった。その理由はなにかと問われれば、そこに特に理由はない。本当にない。多忙が極まっていたわけでもなければ、惰眠をむさぼっていたわけでもない。いや、どちらかと言えば惰眠をむさぼっていた。まあそんなことはどうでもいいのだ。


 年が明けて2014年になった。私はなんと本年の年男であり、本厄であり、午年であり、ゆえに馬面である。そう、ご存知ないかもしれないが私は馬面である。ヅラという語感から粗暴な印象を受け、まるで馬鹿にされているようなので(馬だけに)、マイルドに言い換えればウマメンである。イケメンでありながらウマメンである。まあそんなことはどうでもいいのだ。


 私には物を書く使命が宿されていると思う。それは思いっきり独善的な思い込みなのだが、私の文章を読んで仮初でも救われた気持ちになってくれたり、楽しい気持ちになってくれるコアな読者諸賢の存在がある限り、私にはその使命が宿っていると思うのである。


 私は昨年の2013年、思いのほか文章によってアウトプットしようとする衝動が無かった。それは、私の中である程度、社会との関わりの中にある私自身が抱えるもやもやを言語化しきったのではないかという心境がある。私は言語化することによって私自身を腑に落としてきた。まるっきり読者を意識していない、自分を説得させる為に書いた文章が沢山散見されるのはその為である。

 
 2014年は、私の内省的な文章はある程度片隅に追いやり、読者諸賢を意識した、エンターテイメントを、ホスピタリティを、俗物的供物をプレゼントできればいいなと思っている次第である。個人的にはしゃべり、それに伴う身振り手振りの意識によってコミュニケーションにおけるエンタメを強化し(speaking領域)、また私が見聞きし感じたことを面白おかしく文章に還元したい(writing領域)と思っている。


 それでは本年度も何卒宜しくお願い致します。ファルスと共にあらんことを。

女性の心

(2009年04月12日mixiにて掲載)

 私には、女性の心というものが分かりません。彼女達が心の奥底で一体何を考えているのか、それは、私がどうあがいても知ることのできない事の様に思われます。


 というのも、昨日、とあるサークルの新歓に参加してきたのです。新歓に参加する者は、各々初めての顔合わせですから、皆一様に緊張、あるいは不安の表情を浮かべていました。


 しかし、当の私は全くといっていいほど緊張しておりません。去年のウェルパの時もそうでしたが、なぜか私は初対面の人間(女性でも男性でも)と会し話しをする事にほとんど不安や緊張を感じないのです。


 新歓の会場に着き、私が座った場所は、女性が4人、男性が2人(私を含む)という様な構図でした。私の隣に座った1年生の彼は、名を上野太郎と言いました。緊張からくるのであろう彼の挙動不審ぶりを見て、私しかこの場を盛り上げることのできる人間はいないことを悟りました。


 場は大いに盛り上がりました。はんにゃの金田君の髪型にしてもらおうとしたら、ただの坊主になってしまったこと、仙人の境地に辿り着くために、寒いなか家で甚平を着て過ごしていたら風邪を引いてしまったことが鉄板のギャグとなったり、変形自在の変顔を駆使して金田君の真似をしたりすることで、近年まれに見る比類なき盛り上がりの様を呈していたのです。


 そしてここで一つ、皆さんに告白せねばらならない。それは、私のひとつ隣にいる女性が、大変可愛らしかったのです。彼女は、私のくだらない話に熱心に耳を傾けてくれました。色々なことを私に質問して聞いてくださいました。生まれてこのかた19年、恋愛の「れ」の字も知り得なかった私は、この時初めて、愛という言葉の意味を理解したのです。「イエス!フォーリンラブ!」私は心の中で叫びました。


 彼女と文通がしたい。私は思いました。私は彼女に、メールではなく文通がしたい、そちらの方が仙人ぽいから、と伝えました。彼女は無邪気な笑みをみせてうなずきました。私が一方的に書いて送るだけでも構わないということ、冗談ではなく私は本気であることを重ねて彼女に伝えました。そして、私は彼女とメールアドレスを交換し、楽しい新歓も終わりを告げたのです。


 家に帰り、私はさっそく、文通をする為に貴女の住所を教えてほしい、と彼女にメールを送りました。明日には文通のための手紙と封筒を買ってこようと思い、私の心はおどりました。


 しかし、いくら待っても彼女から返信が来ないのです。私は急に寂しくなり、孤独感にさいなまれました。一見楽しそうにしていた彼女は、実は私に一抹の興味も有してはいなかったのではないか。彼女の微笑みはすべて虚飾だったのではないか。ほとんどなにも話を交わしていないあの上野太郎に彼女は気があったのではないか。もしかしたら彼に、新歓終わりにメールをしたのかもしれない。


 私はここで、自分が到底知ることのできない女性の心の内、絶対的な隔たりを感じてしまったのです。私は人間不信に至るほど疑心暗鬼したのちに、大粒の涙を流しました。私があの時感じた愛は、一体なんであったのでしょう。


 私は今日も携帯を片手に握り、いつくるかもしれない彼女の返信を待ち続けているのです。なむなむ!