道化が見た世界

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努力と成長と劣等感

人は概して成長しない。人が成長する時には必ず一定の負荷がかかる。その負荷は、劣等感や焦燥感や危機感といった形で個の内に現れる。私達がそれらの負荷を感じた時、精神の安定は揺らぎ、自尊は部分的あるいは全体的な崩壊の危機を迎えることとなる。その危機を真正面から乗り越える為には努力が必要であり、成長はその先にしか存在しえない。成長とは、努力の結果、力を手に入れ、それまで持っていた劣等感を真に克服することである。


しかし、ほとんどの人間は成長せず、つまり、努力を嫌い、劣等感をあの手この手で正当化しようとする。最終的に、彼らは「努力してるヤツってなんかだせえ」と異口同音に唱えながら、「人それぞれ。ナンバーワンじゃなくてオンリーワン」と合唱し、生温かい吐息を努力する人々へ吐き続ける。その吐息をふんだんに浴びた人間は、以前まで持っていた劣等感を克服することを忘却し、あらぬ方向へ自己を正当化し、今度は努力する人間に嫉妬して、その足を引っ張ろうと躍起になる。


例えば、学力で他者に劣っていた場合、彼/彼女はその他者に対して劣等感を抱く。その劣等に真正面から立ち向かうならば、彼/彼女は努力をして、その劣等からの脱却(学力の向上=成長)を図るであろう。あるいは、他分野においてその他者に優位するものを探るはずである。彼/彼女が優位に立つことを諦めた時、彼らはそれを別世界のものとして割り切るか、その他者に「勉強しかできないヤツ」とレッテルを張って下卑た自尊を満たすだろう(そんな君達は何もできない)。


肝要なのは、成長するまでの過程において感ずる負荷(劣等感や焦燥感や危機感)に対し、耐えて克服する精神力を持ちうるかどうかということに限る。それらの負荷に耐えきれず押し潰れそうになった個(努力を諦めた個)は、必ず押し潰れる前に逃避する。逃避して逃避して可能な限りの逃避を尽くす。その先に見えるのは、下卑た自尊と、努力する者への憎悪にも似た嫉妬である。


また、先天的才能に恵まれた個人の存在(そして、偶発的な運の作用)は、後天的努力をなす人間にとって大きな壁となる。しかし、結局のところ、前者の存在によって後者が戦域を変えたところで、成長をする為には必ず努力が必要となる。


努力する者は、まずその環境を整え、先天的才能を具した個人を前に絶望せず、生温かい吐息をかけてくるルサンチマン化した個人に脇目も振らず、劣等感や焦燥感や危機感を前に押し潰されずに、成長しなければならない。力を手にした時に見ることのできるその地平に向かえ。