道化が見た世界

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ホスピタリティの限界

ホスピタリティの精神とは、他者を喜ばせようとする、おもてなしのサービス精神である。人間関係におけるgive and take(与えることと、もらうこと)の構造の中で、常にgive側に回ろうとする行為主体である。彼らが何をtakeするかと言えば、自己がgiveしたことによって得られる他者の喜びの反応であろう。


ホスピタリティを発揮する主体は、常にgive状態であり続ける自己へ愛や自尊を感じ、ホスピタリティを発揮していない他者、あるいはそれに無自覚的な他者との差別化を図る。その主体が博愛主義的なホスピタリティを発揮すればするほど、他者との差別化はより顕著になり、自己愛や自尊もそれに比例して大きくなる。


そして、前述した博愛主義的なホスピタリティ精神を持つ主体(以下、博愛主義者)は、異質な人種である。一般的な人間は、私的共同体(家族)や恋愛感情を抱いた対象者に向けて、そのホスピタリティを発揮することがある。また、企業に所属すれば、社会貢献をするシステムに汲み取られ、結果的にホスピタリティが発揮されることがある。


自分の家族や恋人に対して愛があること、その表出としてプレゼントを贈ったり、もてなしをすることはすんなり理解できるかもしれないが、博愛主義者は、その行為を個人レベルで全方位的に発揮する志向性を持っている。この点が極めて異質である。


たとえば、彼(博愛主義者)は、自分が特に好きでもない異性(A子さん)に対しても、その異性がさも「恋人」であるかのような振る舞い(理解し、喜ばせ、楽しませる等のgive)を自覚的にすることができる。何故そのようなことができるのかと言えば、それはひとえに、彼がその精神を自分の「力」であると認識しているからに他ならない。


そこに、個別具体的なA子さんという人格や個性は必要とされない。A子さんはA子さんであるがゆえに、彼のホスピタリティを受け取った訳ではない。彼にとってA子さんとは、一つの「対象」に過ぎず、自己の「力」(博愛主義的ホスピタリティを発揮すること)の一つの受け皿として機能している側面があるのである。


そこに、博愛主義者のエゴがある。たとえば、彼に恋人ができたとして、彼はその存在を間違いなくうとましく思うであろう。何故なら、自分のgive力はより全方位的に発揮できるにも関わらず、恋人がいる為に、彼女に向けたもてなししか許容されないという制限が社会的に設けられるからである。その制限は彼にとって足枷でしかない。


しかし、一人の女性は、自分が愛し、そしてその自分を愛してくれる(と感じられる)特定の異性からのもてなしを至高のものとして見做す。彼女にとって、博愛的なもてなしをする人間よりも、自分を一番に愛し、特権的な立場に置いてくれる人間に価値を見出す。ゆえに彼女にとって、博愛主義者という存在は価値の無いものなのである。


そこで博愛主義者は言う。一人の女性を愛することなど、誰にでもできることであると。そこに、彼の求めていた、他者との差別化は存在しない。彼はあくまで、全方位的にホスピタリティを発揮できる自己に価値を置く。それが自身の力であると思っている。しかし、現実は、そのありふれた他者の方に価値を置く。この根源的な齟齬こそが、博愛主義者の限界である。