道化が見た世界

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スカイといふ男

私といふ存在を語る上で、必然的に語らねばならぬ男がいる。それが、スカイといふ男である。私とスカイは中高一貫の男子校で出会った。高校1年から3年まで同じクラスであったが、私と彼が実質的に言葉を交えたのは高校3年の頃であった。


私が自らの人生を振り返って「誰彼は面白い人間であった」と他者を抽出し考察する時、彼の存在感は異彩を放つ。当時の私は、彼の言動全てを注視し、その全てを盗もうと志向した。私はある意味で、彼を自分より高次の人間であると位置付けていたのである。その程に、彼は面白かった。


私は、彼と会話をしている時に、その空間の芸術性、広大無辺の奥行きを感ずる。互いの魂の振動を、互いのファルスの共鳴を感ずるのだ。高校3年の頃、私とスカイのその空間的親和性は、ある種の永久機関と化し、周囲に笑いを調達し続けた。私はそこで、私のファルスにおける最高到達点(パラロキシミテ)を見たのである。


当時の私の期間的区分は、ちょうどサブキャラ期に符合するが、私はスカイのファルスと結託することに拠って、サブキャラ的自己認識が有する諸々の劣等感・自己否定感から「真に」開放されたのである。彼は意図せずも私を押し上げ、私のファルスを普遍的なモノへと昇華させるに至った。スカイは己のパラロキシミテのファルスを放出する器を私の中に見出し、また、翻って私もそれを彼の中に見出したのである。


そして、そこにはまた、決定的な両者の相違があった。私には、ファルスを「力」として前提的に認識し、それを獲得した自己認識がある。しかし、スカイにはそれがない。彼は意図せずもそれを天与のものとして所有していたのである。そうであるが故に、私が認識する「力」は、彼にとっての「力」ではなかったのだ。


しかし、そう分かってはいても、私は彼のその認識に失望したのである。私には、私―スカイの最高到達点に達したファルスを行使して、周囲に永続的に、笑いを調達したいという展望があった。それが使命であるとさえ思った。その場を空想してみただけで、私の心は躍ったものだ。


私達が同じ大学に通っていれば、ことは少し変わっていたかもしれない。「たら・れば」を言っても仕方が無いが、世にファルスの真髄を披瀝せずに消失してしまうことに、無念さを感じずにはいられない今日この頃である。