道化が見た世界

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チヤホヤ理論

私達人間は―we,human beings―自分の価値、力、容姿、素養、その諸々が他人に誉められたり、認められたりすると嬉しく思う。とても嬉しくなる。その他者の承認が増えれば増えるほど、自己肯定感や自信が萌芽し、男性であれば、縦横無尽に乙女の頭をポンポンすることも可能になり、女性であれば、多幸感に溢れるポエムを書くことができるかもしれない。


私達は、意識的であれ無意識的であれ、自分がチヤホヤされる状態に少なからずの魅力を感じている。誰も、路傍の石ころの様に他人からあってもなくとも良い無関心の対象として見られることを望んではいない。スポットライトが当てられ、周囲の関心を惹き、彼らが絶賛し喝采する対象としての自分自身、チヤホヤの甘美な一時を嫌う者は誰もいないはずである。


今回私が考察することは、個人がその「チヤホヤ」状態を希求する時に、発揮しうるパワーである。たとえば「火事場の馬鹿力」という言葉がある。火事場という命を落としかねない危機的状況に自分が置かれた時に、本来は出すことのできないポテンシャラブルなパワーが現出するというのが大体の意味であるが、私がこれから論ずる「チヤホヤ理論」にも同じことが言えるのである。


つまり、「チヤホヤ理論」の説く力を定義すれば、「他者、特に異性にチヤホヤされたいと欲した時に、現出する潜在的能力」ということにある。その想像を絶する、驚異的かつ人外な力を有意に行使することによって、個人はある種の超越的存在になる可能性を秘めている。ありていに言ってしまえば、それはロマンである。そして、その潜在的能力を呼び覚ますためには、恒常的にチヤホヤされうる環境に自らの身を置く必要性がある。


卑近な例として、私個人の具体例を挙げるが、私は中学高校と6年間の男子校生活を送っていた。皆さんお分かりの通り、男子校には異性がいないので、チヤホヤされる環境がそもそも整備されていない。だから、チヤホヤ理論的に言ってしまえば、男子校には絶対に行ってはいけないのである。


一つ想像して見てほしいのだが、私の通っていた男子校には体育祭という、スポーツ競技各種をクラス対抗でおこなう催しがあり、参加者は取り敢えずみな頑張っている体ではあったが、もし仮に、そこに異性が居たら、黄色い声援が飛び交っていたら、その空間はどのような変容を遂げたであろう。

―とあるバスケの試合―

自分「(手を天空へ高々と挙げならが)ヘイ!!俺ノーマークノーマーク!!」


自分「キュキュキュキュイッ!(バッシュを不必要にドリフトさせながら)」


自分「取り敢えず一本とってとこー!落ち着いてこー。(リーダーシップを気取りながら)」


自分「・・・(敵味方問わず、良プレーを決めて黄色い声援を受ける男子を目の前にして)」


私が言いたいことは、チヤホヤ環境が整っていれば、自分の力を社会へ披瀝するに際して、更なる力の増強が図れるということである。私達は他人の、特に異性からの評価に対して敏感であり、往々にしてよく見られたいと感ずるものである。その「よく見られたい」という欲求は、私達に「もうひと踏ん張りの頑張り」、余剰の力を要請する。それこそが、潜在的能力の内実である。


だからおそらく、私の身の回りに私をチヤホヤしてくれる異性が沢山いればいるだけ、私は自分の力量を超越した潜在的・剰余的なパワーを恒常的に発揮できると思うのであった。