道化が見た世界

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謙虚とは何か

 謙虚とは「自己の人間性を的確に把握している」姿勢である。つまり、世にいう謙虚な姿勢というのは、社会で渡り合う上で取り繕った虚飾に過ぎない。彼らは、謙虚な姿勢でいれば社会からの受けが良いことを先刻承知している。純粋でイノセントな人間はそれにすぐ騙される。純粋でイノセントであるということは、つまり馬鹿であるということだ。思考停止した馬鹿である。


 自己を的確に把握しなければならないのは自己の責務である。自己は決して他者の雛形などではない。自己が認識する自己、他者に投影した自己を認識する自己、他者が認識する自己を認識する自己、自己に投影した他者を認識する他者を認識する自己、これらの統合を図り、自己と他者との距離を寸分の狂いなく把握しなければならない。そして、自己を的確に把握することは、ひるがえって他者を的確に把握することと同義なのである。


 そこに落差があってはならない。「高慢」と「卑屈」は一見正反対の性質のように見えるが、真の自己からの落差において、これらの性質は同質である。だから私は、高慢な人間も卑屈な人間も嫌いである。


 ただ、寸分の狂いなく自己を「高慢」と分析したのであれば、それは謙虚な姿勢である。そもそもそれは既に高慢ではなくなる。高慢とは、第三者の人間が彼を高慢であると判断するのであって、彼自身は、自分が高慢だとは思っていない。これが真の自己であると思っている。しかし、往々にして、彼の認識は食い違っている。何かを見落としている。結局のところ彼は高慢となる。


 ひるがえって私はどうか。これまで高慢な口調でさまざまなことを書いてきたが、私はそれを高慢だと見做していない。私は高慢であって高慢ではない。そして確固たる自信がある。私は自己を的確に把握している自信がある。この主張は決して独り善がりではない。独り善がりのように見えるだけであって、決してそうではない。


 自己を的確に、寸分の狂いなく把握することは不可能だと思うだろうか?神ぐらいにしか、そんなことはできないと。しかし、それは私という存在を以て反証される。それとも、私が神なのだろうか?