道化が見た世界

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トイレのドアノックすな

ドアをノックするという所作は、礼儀作法・マナーとして広くあまねく私たちの日常生活に浸透しています。皆さんも、就活の面接会場に入る時や、兄弟の部屋に入る時、ある種、フォーマルでプライベートな空間に自分が入場する際に、ドアをノックすることがこれまで一度はあったであろうと思います。

 

ではそもそも何故私たちは、ドアをノックするのか。そう考えた時まず挙げられるのは、自分の存在をノックの音で明らかにするということです。ドアの先の空間にいるであろう他者に自分の存在を明示する。そして、そのノックには、「誰かいらっしゃいますか」、「失礼ながら今から入場します」という意味内容が含まれていると思います。ドアをノックせずに入場する人間を無礼だなと私たちが感じるのは、そう言った意思表示をせずに勝手な他者の都合で自分のプライベートあるいはフォーマルな空間を害されたと考えるからです。

 

さて、ドアをノックするというマナーについてある程度理解を深めていただけたと思います。が、本日の本題、私がこの度異議を唱えたいこと。それは、「ドアをノックする」という慎ましい礼儀作法がこの世に存在することは大変望ましいことではありますが、

 

 

 

トイレのドアはノックすな

 

 

 

この一言に尽きます。トイレのドアだけは絶対に、未来永劫、徹頭徹尾ノックすな。一体何故なのか。これからそれを説明していきたいと思います。

まず、そもそも、何故人はトイレのドアをノックするのでしょうか。先述した礼儀作法としてのノックの意味内容を踏襲するのであれば、それは、自分の存在を明示し、「誰かいらっしゃいますか」、「失礼ながら今から入場します」と意思表示したことになります。

ん、おかしいな?皆さん思ったと思います。本来の意味内容とはだいぶ食い違っているな、と。皆さんお察しのように、礼儀作法としてドアをノックすることと、トイレのドアをノックすることとは、一見同じ所作に見えますが、完全に対極に位置する、似て非なる行為なのです。

前者のノックは、文字通り礼儀作法にのっとり、謙虚で慎ましい所作でありますが、ひるがえって、後者のノックは、ただ単に

 

 

 

早くウンチがしたい

 

 

 

というむき出しのエゴイスティックな欲望を他者にぶつける為の、軽蔑に値する愚かな行為に他なりません。更に掘り下げて見ていくと、トイレのノックが「誰かいらっしゃいますか」の確認としての、礼儀としてのノックだとする意見もあるかもしれませんが、

 

 

 

いやいるに決まってるじゃん?

 

 

 

 

取っ手青いところ赤くなってるの見えるじゃん?

 

 

 

トイレのドアをノックする人間は、その個室に人が入っているかどうか真に分からないから、純粋な気持ちでノックをしている訳ではありません。そこには単に一つの欲望、今、他人がウンチをしているかどうかなぞどうでもいい。早くウンチがしたい。待っている俺がいるぞ。早くウンチして出てこい。という至極自分勝手な都合を表明しているに過ぎません。相手が個室内にいることを分かっているにも関わらず、自分の都合で早く外に出そうとノックする行為が許されるのは後にも先にも

 

 

 

アナ雪の雪だるま作ろう

 

 

 

の状況下でしかないことを僕たちは知っています。アナが姉のエルサに向かって、トントントトントン♪雪だるま作ろう〜ドアを開けて〜とドアをノックする状況下でのみ許される行為です。(最終的にはあのアナですらエルサに「あっち行って、アナ」と拒絶されてしまいます。)

 

トイレに入っているこちら側からすれば、ありていに言いますが、アナタがトイレに入れず、我慢できずにウンチを公衆の場でまき散らす結果になったとしても至極どうでもいいのであり、アナタはトイレの争奪競争からふるい落とされた負け組なのであり、トイレの現行の占有権は勝ち組である私に一任されている上、かかるトイレが空いていないのであれば、有無を言わずに空くまで待ち続けるか、他のトイレを探し求めて更なる争奪競争に加わる他に選択肢はなく、それをぬけぬけと、いけしゃあしゃあと、勝ち組である私の束の間の憩いの空間を、ノックという本来他者を尊重する為に生まれた行為をねじ曲げて己のエゴイスティックな欲望の発露として用いることによって、無思慮に奪い去り、おかど違いも甚だしい怒りと焦燥をそのノックの強さによって表明するその姿はまさに

 

 

 

クソの極み

 

 

 

に違いありません。更にノックされた側はノックされた側で、束の間の憩いの空間(三大束の間の憩いの空間としてベッド、お風呂、トイレが挙げられる)をせかされて奪われた怒りと、私なぞのビビり人間にとっては、顔の見えぬ他者が少なからずの怒りと共に外で待ち構えているという純然たる恐怖にさいなまれ、ウンチも満足に出すこと足らず、何故にこんなにもせかされているんだ、別に過剰にくつろいでいるわけではない。実家のトイレで便座に座して新聞を広げ、正面に貼り付けられた世界地図を時折見るなどして悠然緩慢にウンチをしている訳では決してない。私はただごくシンプルにウンチをしたいだけなのだ。クソッ!

 

そして、最もよく分からい風習が、トイレに入っている時にノックをされた場合、自分が入っているという意思表示の為に、ノックをし返すというものである。その様相はまるで、トイレ個室内でのっぴきならない状況が生まれていて、しかしそれを外界から目視することができない。その為の、生存確認としてのノック。大丈夫ですか、大丈夫ですか?!のノック。それに答える、はい大丈夫です、大丈夫です!!のノック返し。ノックが返ってこない場合は、何かしらの危機的状況下に置かれているに違いない!

 

 

AEDかよ

 

 

ちなみに私はノックされても決してノック返しはしない。理由はシンプルに意味が分からないからである。

私は真っ当な人間でありたいと思う。もし仮に自分の入った公衆トイレに既に先客がいて個室が閉まっていてウンチができないとしよう。もう漏れそうだ。間に合わない。他のトイレを探す猶予もない。あと数秒歩いたら漏れてしまうだろう。しかし目の前のトイレは閉まっている。怒りと焦燥が私を襲う。ただその一時の感情に任せて、私はノックをしない。他者をいたずらに侵害しエゴをまき散らす人間にはならない。その時私は、全てを受け入れ天を仰ぎ解き放たれた表情をたたえながらウンチをその場にまき散らす。私はそういう真っ当な人間でありたいと思う。

そふとわきが

のっけから何を言うんだと思われると思うんですけど、僕って

 

ソフトなワキガ

 

なんですね。ワキガにソフトとかハードとかあんのかよ、コンタクトレンズみたいに言うなと思うんですけど、僕は本当にソフトなワキガなんですね。ハードではないほうの。これはある種のカミングアウトであって恥ずかしい独白でもあるんですけど、何故こうも声高に宣言する必要に駆られたかと申しますと、僕は一介のソフトワキガとして、世の同胞諸君に向けて、つまり、ワキガ一族の皆さまに一石を投じなければならないという使命を感じたからなのです。

 

僕は言うなれば、「自覚的」なワキガ一族の末裔でありまして、その中でも脇の臭いが割と「ソフト」な部類の人間です。どれくらいの臭いかと申しますと、シャワーを浴び終わって、Ag+を両脇にそれぞれ15秒ほど照射すれば、その日一日の臭いはまあ及第点、その日の運動量、汗のかき具合によってAg+に準ずる制汗スプレーの照射は適宜必要となってしまいますが、まあ及第点なのであります。

 

まとめますと、僕は自身のワキガに対してひどく敏感で「自覚的」であり、その比較的「ソフト」な臭いに対するケアも事前にマナーとしてすましており、他者への気遣い、自身の臭いによって不快な気持ちになる他者、指摘したくても気を遣ってできない他者、に対する繊細な姿勢を有している人間であるということです。

 

それでは、そんな僕が、ワキガの同胞諸君に向けて伝えたいこととは何か。率直に申し上げて、僕は怒っているのです。これは何も同族嫌悪の感情から申し上げていることでありません。そして、僕以外の、全ワキガ同胞諸君に対して怒っているわけでもありません。私達がかかる臭いを有してこの世に生を授かったことは、ありていに言って神様のいたずらであり、誰も欲しいと求めて授かった才能などではなく、勝手にオプションとして付いてきた返却希望のギフトであり、そこには深い同情心すらあります。

僕が怒っているのは、自身の「ハード」なワキガに対して「無自覚的」な人間です。「ハード」なのに「無自覚的」なワキガです。

 

 

 

 

気は確かか?

 

 

 

 

僕の怒りの全容は上記の5文字に集約されてると言ってよいです。さらにその怒りをひも解いてゆくと、まず第一に頭に飛来する言葉は、「なぜ、そんな鈍感なの?」です。

自称するのもおかしい話ですが、僕は繊細で敏感な青年であり、自分が無自覚的であることに人一倍の羞恥を感じる人間です。ですから、まずその鈍感さがうらやましくも憎らしくもあるわけです。

 

さらに、ワキガの十字架を背負っていないノンワキガの人達も私のように、「なぜ、気付かない?」と感ずることと思いますが、その感情と私が抱く感情の間には濃淡があり、と言いますのも、私は一介の自覚的ソフトワキガーとして、「何故、ソフトの俺ですら気付いているのに、ハードのお前は気付いてないんだ」という、

ワキガーとして上乗せされた黒々とした憤怒があるからです。ありていに言ってしまえば、

 

 

 

「なんでソフトワキガ―の俺がハードワキガ―のお前に気を遣わないといけないの?」

 

 

 

ということになるでしょう。ノンワキガの方々からすれば、なんかワキガ同士でいがみ合ってるんですけど、超ウケるんですけどクセェという滑稽な状況に映ってしまうと思いますが、僕は本当に無自覚的な彼らが理解ができないのです。

 

自分から発せられる臭いを感知するには、五感のうちの嗅覚が正常に機能している必要があります。例えば、臭いの話をすると必然的に汚い話になるのでご了承願いたいですが、自分がしたオナラを嗅ぐとします。クサいです。当然のようにクサいですよね?それを俺のオナラは全然無臭だと言い張ってプップしている人がいたら嫌ですよね?

もう一つ、自分がウンチをしたとしましょう。クサいです。当然のようにクサいですよね?それを俺のウンチは全然無臭だと言い張ってブリブリしている人がいたら嫌ですよね?

 

 

 

無自覚的ワキガ―はそういう人達です。

 

 

 

そして更に何が恐ろしいかと言えば、それは、自分の嗅覚と、他者の嗅覚との落差です。例えば、自分のしたオナラの臭いは、自分よりも他者が嗅いだ時のほうがクサく感じるでしょう。ウンチも然りで、自分がしたウンチのにおいを、自分が嗅いでもクサいでしょうが、他者が嗅いだ方がよりクサく感じられるでしょう。何故ならそこには「他者から発せられた」という圧倒的距離感があるからです。この理屈はワキガにも適用できるはずで、つまり、自分のワキガのにおいは、自分が嗅いでいるにおいよりも、数倍他者はくさく感じている、ということになります。しかし、無自覚的ワキガ―の人たちはそれを嗅覚で感知できていないのです。

 

 

 

気は確かか?

 

 

 

ここまできて、無自覚的ワキガ―の方々に対して一つのテーゼが浮かび上がってきます。それは、「ワキのにおいもおかしいが、その前に嗅覚もおかしい」という命題です。そして、無自覚的ワキガ―から自覚的ワキガ―(僕がここに所属しています)へとランクアップするためには、

 

1.正常な嗅覚を取り戻す

 

2.自分がワキガであることを自覚する

 

3.更にそのにおいが自分で嗅ぐよりもクサいことを自覚する

 

4.Ag+を毎朝両脇にそれぞれ25秒照射することの習慣化

 

このフォーステップを踏むことが必須であると考えています。自覚的になりさえすれば、事前にケアができますし、周囲に変な気遣いをされずに、不快な気持ちにもさせずに、快適なワキガ―ライフを満喫できるはずです。

 

僕は、謙虚な自覚的ソフトワキガ―ですが、よくワキガであることを周囲(ノンワキガー勢が調子に乗りやがって)にいじられ、あちらからこちらの脇を嗅いでくることもしばしば、それを僕は全力で阻止しながら、「やめろやめろ!ワキガだから!!」と脇を閉めながらのけぞるなどの一幕、どんだけ謙虚なワキガなんだと、謙虚なワキガってなんだよと、自分をホメてやりたい気分ではあります。

 

僕が最後に言えることは、ノンワキガもワキガも、ソフトでもハードでも、無自覚的であろうが自覚的であろうが、全ての人類が手を取り合ってAg+を照射し合える平和的社会の実現を心より祈っています。

世界は絶対的に相対的たらざるを得ない。

人とは社会的動物であり、世界とは大小様々な数多の社会が重なりあって形成されているものであり(たとえば国家は一つの大社会であると言える)、社会とは人と人とが、細胞のように結合や分離を繰り返し、関係して形成されるものである。僕達は自分自身から逃れることができないのはもちろんのこと、自分以外の人からも逃れることができない。文字通り、僕達はこの世界で1人では生きていけない。

 

周りには自分より優越した、価値のある存在である他者がいたり、逆に、自分より劣った、価値のない存在である他者がいる。周りには常に、敵になり得る他者がおり、逆に味方になり得る他者がいる。その混交した他者たちとの関係性の中で、つまりその社会の中で僕たちは生きていかざるを得ない。だから、世界とは、絶対的に相対的たらざるを得ない。

 

僕たちの価値は「他者との関係性の中で」相対的に決まる。例えば僕の顔面は芸人の世界で言えば、「比較的」イケメンの部類である。それは芸人界にそれほどイケメンな他者がいないからである。しかし、また違ったホストの世界であれば、普通か、わりとブスの部類になる。一つの世界ではイケメンたりえる僕の顔面は、また違った世界ではブサイクたりえる。一つの世界では価値のある顔面も、もう一つの世界では価値のない顔面となる。これが、相対的な世界である。

 

ありていに言ってしまうが、僕よりブサイクが多い社会であれば僕は相対的にイケメンになれるし、逆に僕よりイケメンが多い社会であれば僕は相対的にブサイクになるということだ。イケメンかブサイクかという価値は客観的に数値化できるものではなく、判断するのは人それぞれ個人的趣向、タイプによるところもあるが、それを考慮するとさらに複雑な話になるので今回は便宜的に度外視している。

 

相対的な世界は、非常に不安定なものである。僕は自分の顔がイケメンであるか、ブサイクであるか、分別のある人間なので、他者の評価をかんがみて判断したいと思う。芸人界ではイケメンだと言われていても、ホスト界では普通、あるいはブサイクと言われる。一体どちらの評価を信じて生きればよいのだろう。僕は思い悩む。しかし、畢竟すると、思い悩むことはごく当然であり、それが正解の感情なのである。何故ならば、僕たちの価値は「他者との関係性の中で」相対的に決まるからである。この世には絶対的イケメンも、絶対的ブサイクも存在しない。

 

相対的であるというこの考察を、今になって思い起こしたキッカケは、「頭脳王」という一つのテレビ番組を見てからだ。その番組はクイズ番組で、僕が見たのは決勝戦で、前回王者の医学部の男子学生と、挑戦者の医学部のイケメン学生がサシで早押しクイズをしているところだった。彼らは日本屈指の頭脳を持つ学生で、確か京大と東大の学生であった気がする。

 

番組的には、そんな彼らの人知を超えた頭脳から導き出される答えに対して、「どうしてそんなこと分かるの?!」的盛り上がりを見せている構図だった。しかし、僕が一番印象的に思ったことは、頭が良すぎてどうかしているのはもちろんなんだが、前回王者の学生と、挑戦者のイケメン学生の相対性が、ドラマチックに描き出されているその光景にについてである。

 

その世界には、彼ら二人しかいない。彼らは日本の学生の中でもひと握りの、トップ中のトップの頭脳の持ち主である。東大や京大という選りすぐりの高偏差値の学生をあつめた社会の中でも、トップに君臨する人種であろう。しかし、今、この世界には、彼らは二人しかおらず、どちらかが勝ち、どちらかが負ける。どちらかが一方よりも頭が悪く、頭が良い。

 

勝戦の経過としては、前回王者がほぼほぼ劣勢のまま進み、挑戦者であるイケメン学生が優勢であった。僕はここで率直に、前回王者がとても憐れだなと思った。王者はおせじにもイケメンとは呼べない学生だった。そんな彼が負けている。僕よりも何百倍も頭のいい、価値のある彼を見て、僕は純粋に憐れだなと思ってしまった。何故なら、そんな彼が相対して負けているのは、自分よりも頭も顔も良い、他者、敵であったからだ。周りもイケメン学生を応援していると思った。顔も頭も良い挑戦者が優勝した方が画的にも良いに決まっている。

 

その光景を見ながら、世の中、不条理だな。と思った。ずっと頭が良いことを自分のプライドとして、存在証明として生きてきて、この相対的な世界で、その価値を絶対的なものに近づけ続けてきて、才能もありながら努力も続けて、他者を劣位において、みんな頭わるいなって優越感も感じたりして、トップに君臨していた、そんな王者が、自分より頭も顔も良い挑戦者に、二人だけの世界で負けようとしている。二人の世界だから負けようとしている。二人ともすごいのに、僕たちの社会からしてみたら、二人ともすごいのに、彼は今、二人だけの世界で、自分より価値のある人間に、惨めにも屈辱的に負けようとしているのだ。

 

僕たちは結局、この相対的な世界で、不安定ながらにも生きていくことを強いられている。これはある種の宿命であり、それを絶望ととるか、希望ととるか、ありのままのもとして受け入れるかは、僕たち自身の自由であることに違いはない。

めでたくても、めでたくなくても

読者諸賢、2018年、新年明けましておめでとうございます。

と、まずはていとして祝わざるを得ないが、私は知っている。実は既に予見してしまっている。またどうせなんの変わり映えもない、だらっとゆるい一年という日常の連続性の中に身を埋め、精神を鈍磨させてゆく自身の姿を。

変わりたいと願っているのに、結局変わろうとする努力もせず、厳密にはするにはするが、習慣化させるには程遠い、ほどほどの努力、努力と言えぬほどのスズメの涙程度の努力でゼェゼェ息をあげてその場にへたり込み、新年だから、節目だからという心機一転の切り替えも、結局は長年飼い慣らし、肥大化させてきた己の怠惰に飲み込まれて雲散霧消することを、私は既に予見している。

が故に、私にとって新年はあまりめでたいと思えないし、日常の延長線上にあるものだし、カウントダウンも一人で家でどん兵衛のそば食べながら迎えたし(しかもちょうど電波が悪くてテレビがつかなかった!)、人様にツイッターやインスタでアピールできるような甘美な年末も送ってなかったし、あけおめラインも誰からも来なかったし(本当は1人からきたが誇張して0にしている)、ましてや年賀状なんて来るわけもないし、世間の新年も盛り上がって行きましょうムードから1人取り残された感じでスタート切ってるし、なんならまだクラウチングからスタート切ってないしで、とにかく、とくにめでたいことはないですけど、ていでおめでとうと言っています。

あ、でも明後日の1月6日に28歳の誕生日を迎えるので、おめでたいことはありますね。あ、でもやっぱり、正直もう年取りたくないし、ホストって20歳前半の後輩がほとんどで、28歳とかほぼほぼいないんですけど、数名しかいないんですけど、もう若い後輩見ると本当に羨ましいし、大学時代に戻れること頻繁に夢想するし、俺、今まで何してきたんだろうって思うし、まあ頑張って勉強してたんですけど、だとしたらこの今現在の売れない芸人売れないホストの境遇なんやねんって思うし、だから結局年取りたくないんでめでたくないですね。

けどそんなもんひっくるめて、めでたいもめでたくないも全部ひっくるめてめでたくありたいと思うので、是非皆様、新年も何卒宜しくお願いします。

ツイッターもやってるのでフォローして、僕の誕生日におめでとうのメッセージ送って下さい。あけおめメールとハピバメール0だと流石に早々ニューイヤーメンタルブレイクくるんで。芸人としてブレイクする前にメンタルがブレイクするんで。宜しくお願いします。

Twitter @hondy_kenty

男はセックスの事をエッチと言うな。

これは僕の至極個人的なポリシーというか、義憤というか、なんでそんなことに突っかかるのかと、客観的には全く理解されないことなんですが、僅かながらにも共感者がいることを切に信じて、ここであえて声を高らかに上げて宣言します。

わたくしは、

 

 

セックスの事をエッチと言う男が許せない

 

 

ゆめゆめこの信念を曲げることが僕にはできません。何故、セックスのことをエッチと言う男子を許せないかと言えば、これは理屈と言うよりもほぼ感情のニュアンスになってしまいますが、なんか可愛い子ぶってる感があるからです。男子なのに女子っぽく、自らのむき出しの性欲を可愛さでコーティングしている感があるからです。嗚呼、男子なのに。ですから、もちろん別に女子がセックスのことをエッチと言うことに対しては、何ら問題ありません。だって女子だもん。

 

ゆえに、同様のニュアンスの問題として、僕は男子が

 

 

キスの事をチューと言うことが許せない

 

 

のはもちろんの事、

 

 

ハグの事をギューと言うことも許せない

 

 

のであります。だいたいキスをチュー、ハグをギューってねえ。というかチューとギューに至ってはもはや

 

 

 

擬音

 

 

 

であり、セックスをエッチと言い表すよりも、より間接的表現というか、乙女感が余計に増してくるというか、もうそんなに女子とのスキンシップの表現方法を擬音でまとめて可愛くしたいなら、

 

 

 

セックスの事はエッチじゃなくてパコパコって言って。

 

 

 

ギューからのチューからのパコパコって言ってよ絶対!

隣の席の女の子は自分のこと好きになる説

僕は中高男子校で育ったので、小学生の時以外は隣の席に女の子はいなかったんですが(大学生時代にも女の子はいたが、クラスと言う固定的な空間はあまりなく流動的だったのでカウントしない)、だから、僕の中の乏しい経験で講釈を垂れるのはわりと憚れるんですが、そこでふと感じたことは、

 
 
隣の席の女の子、気付いたら俺のこと好きになってる
 
 
この一点の確信に尽きます。僕と席が隣になった女の子は気が付いたら僕のことを好きになっていて、一年に4回か5回ほど席替えをした覚えがありますが、そのことあるごとの席替えで僕の隣の席に座ることとなった女の子4~5人は総じてそれぞれ僕のことを好きになっていたという確信があり、僕の中ではそれが当たり前のこと過ぎるあまり、
 
 
小学校あるあるのうちの一つ
 
 
としてカウントしていたふしがあります。これは僕個人の個別具体的な事象(僕があまりにも魅力的な人間なので、それを間近で見ている異性が無意識的に惹かれていってしまう)というよりは、ある程度一般化が可能な事象であると考えていて、それ故に今回タイトルを「~~説」と銘打っている訳であります。
 
何故一般化できるかと言うと、そもそも、固定的な空間でほぼほぼ毎日顔を合わすという状況は学生時代特有で限定的なもので、小中高の12年間以外ではなかなか経験することのできない特殊な状況であるということが言えると思います。
 
クラスという形態ですら固定的で継続的なわけですから、さらにその空間内において最も近い存在者(隣の席の女の子)は誰よりも自分と濃密に時間と空間を共有することになります。
 
よくある心理学的な話で、何回も同じ人と出会うとその人を意識しはじめるというのがあって、だからどんどん会うようにしましょうということなんですが、その状況を極言すれば、まさに隣の席の女の子ということになるでしょう。より長い時間、お互いに時間と空間を共有することは、関係を深めるために、人を好きになるために、非常に重要なファクターであると言えます。
 
そして、小学生時代、隣の席の女の子を絶対的に魅了し続けてきた僕から皆さんに、告白したいことが一つあります。
 
僕は当時、隣の席の女の子の心を射抜くプロフェッショナルとして無意識的に天狗になっていたきらいがあり、席替えの時に自分の隣の席を「マイハニー・プレミアムシート」として勝手に認知していたきらいもあり、そうやすやす誰にでも僕の隣に座らせることはできないと大上段からクラスを睥睨しておりました。
 
そして迫りくる席替えの時、まずは女子がクラスから出され、クラス内には男子のみが残り自分の席を決めます。これは誰がどこに座っているかを女子に特定されないためであり、完全にアトランダムで席を決めるというシステムでありました。
 
そして、その席は既に予約済み(誰が座るかは分からないが、その席には男子の誰かが座ることが分かる)であることを女子に知らせるために、男子生徒はみなそれぞれ自分の手荷物(筆箱、てさげ袋、etc)をその席のどこかしかにセットするというプロセスがありました。
 
このプロセスに欠陥があることは誰の目にも明らかであり、というのも、その手荷物が誰のかを女子が判別できさえすれば、その席にどの男子が座るのかというのは事前に把握できてしまうからです。
 
当時の僕はこのプロセスの欠陥にいち早く気付き、そう簡単に俺の隣には座らせまいとする天狗心が躍りに躍り、結果として、てさげ袋をいわばフェイク(いわば釣り餌)として用い(実際にてさげ袋がかかった席には違う男子が座る)、僕の本当の席はMONO消しゴムを机の上に置いた席となりました。そして、一旦男子がクラスから出され、女子がクラスに入りそれぞれの席を決めます。
 
 
いざ!!選別の時!!!
 
 
そう心の中で叫び、先生の「それでは男子のみんなも入ってきてください、女子はそのまま席に座っていて大丈夫です」という言葉と共に僕はクラス内をゆっくり睥睨しました。
 
そこで僕は愕然とします。僕のフェイクてさげ席の隣に、僕がかねてから恋慕の念を抱いていた女の子が座っていたのです。その女の子は目を輝かせながら口パクで隣の席を指さし、「ここ?」と僕に向かって伝えてきたのです。
 
 
そこじゃないィ!!本体は別にあるゥ!!!
 
 
僕はそこで、自分の犯した大きな過ちに気付きました。自分が尊大に振る舞ったせいで、フェイクてさげなぞという訳の分からない障害物を設置したせいで、本来獲得できた幸せをも無に帰してしまった。そして僕は、もしも自分が天狗にならなければ実現できた彼女と隣の席どうしの幸福な生活に思いを馳せていました。
 
 
 
あの子、絶対僕の女になってのに!!!(血の涙を流しながら)

人生で初めて女子に胸ぐら掴まれる

蒸し暑かった夏も終わり、大分過ごしやすくなって来た今日この頃ですが皆さんはいかがお過ごし。もう九月も終わりを迎えつつあり、今年も残すところ三か月という頃合いになって参りましたが、、、あ、そうそう。そう言えばつい先日、私、人生で初めて女子に胸ぐらを掴まれたんですが、

その経緯をこれから話して行きたいと思います。

 

私は売れない芸人をしている傍らに、アルバイトで売れないホストもしているんですが、そのホストクラブに初回でいらっしゃったお客さんがいました。そのお客さんは20代前半位で、結構飲み慣れている感じで、何よりお酒が強い方でした。

 

そして当の私も人一倍お酒が強いと自負している誇り高き万年ヘルプですから、そのプライドを示すべく、「いや!俺の方が酒強いから!」と煽りながら、結果として彼女との飲み合いをするという運びになりました。

 

営業が終わる少し前の来店でしたので、時間としては一時間くらいでしたが、ちょうど鏡月のフルボトルを一つ空けたくらいの時間で、勝敗としてはイーブン、決着つかずという形になりました。

ただ私はこの段階で既にだいぶ酔ってたんですが、何をもって負けと定義するか、それは一方が他方に対して「もう飲めません、負けました」と宣言することに他ならず、どれだけ酔っていようがその言葉は決して言うまいと心に決意した私の見上げた三流ホスト魂はここぞとばかりに火を噴きはじめ、「まだ俺たちの戦いは終わっていない。アフターで飲みに行こう」と彼女に提案しました。

 

アフターというのは、ホストがホストクラブの営業終わりに、その日来店してくださったお客さんと会うことを言います。言うなればプライベートな時間のようなもので、ご飯に行ったり、カラオケに行ったり、また飲みに行ったりなどして過ごすことを指します。

 

彼女には、お気に入りというか、仲良くしゃべっていた私の後輩のホストが一人いて、その子が付いてくるなら行くと彼女は言いました。ですので、私は彼を連れて営業が終わってから彼女に会いに行きました。

彼女はどちらかと言えばポーカーフェイスで、表情を見ただけでは酔っているか否か判別できない人種でした。ひるがえって私は前述通りだいぶ酔っていて、後輩に至っては絶賛「ちょっと吐いて来ていいすか?」状態だったので、これは満身創痍の出陣になるぞと再度心を決めました。

 

二軒目の飲み屋では二時間飲み放題を注文し、ただひたすらビールを飲み続けていました。このあたりからだいぶ記憶がまだらになりはじめるんですが、僕の中ではまだまだ戦えるという確固たる自信がありました。その自信を支えるのは、かれこれ5年を数える僕の圧倒的売れていない故に伸びしろしかないホスト人生で積み上げてきた圧倒的経験値に他ならず、そんじょそこらの若娘に負けるはずがないという向こう見ずな矜持でもありました。

 

そして三軒目のバーでは、後半の記憶がバッサリ抜け落ちており、どれくらい酔っていたのか判別する事象を挙げるとすれば、トイレで用を足したあと洗面台の鏡越しに映る自らの姿を他者と見誤り、鏡に映る自らの顔面に指を差して目を見開きながら「おいなに見てんだテメェ!!」と密室で自分で自分に凄む程度に酔っていました。今にも消えてしまいそうな2%程度の理性の残滓の中で僕は、「これはマズイ」と思いました。もう負けでいい。ってかもう負けでいい。そもそもお酒どっちが強いか勝負とかしょうもないことアラサー男子すべきじゃない。もう早く帰って寝たい。一通り吐いてから寝たい。

 

三軒目のバーを出た時には既に日が昇っており、どれだけの時間飲んでいたんだという感慨と共に疲労感を感じました。そしてそのバーが入っていたビル前の路上で彼女と別れを告げ、嗚呼頑張ったし疲れたなと吐き出しふと横を見ると一緒に連れてきた後輩がほぼ寝てました。僕は「え、起きてる?」と彼の頬をぺちっとはたきました。

 

 

 

「ねぇ!!!!」

 

 

 

っ?!?!

 

 

 

「私、暴力振るう男大嫌いなんだけど!!!!」

 

 

 

?!?!?!

 

 

 

吐きたくなるほどの酔いと疲労も相まってはいたと思いますが、僕は本当にその一瞬、何が起きたのか皆目把握できませんでした。ただ僕の目の前には、般若のような形相をした、20代前半の、身長も僕よりは幾分も低い、さっきまで一緒にお酒を飲み交わしていた女子が僕の胸ぐらを確固とした力で掴んでいたのです。

 

彼女は僕たちと一旦別れてから、道路を1つ渡って向かいのコンビニ前あたりにいたと思います。そしておそらくですが、振り向きざまに、僕が後輩の頬をぺちんと叩く光景を目の当たりにしたのでしょう。彼女はその光景を見るや否や怒号に似た声を発したのちに、一度渡った道路を再び戻って来たのです。なんで戻って来たかって?僕の胸ぐらを掴みに来たんです。

 

僕は気が動転しながらも、まずはじめに「女の子ってわりと力強いんだな」と感心しました。だって上半身全然動かせねえんだもん。彼女は僕の真正面、至近距離で暴力が絶対的に許せないこと、つまり僕のことが絶対的に許せないことを胸ぐらを掴みながら怒号をもって僕に主張してきます。彼女の胸ぐらを掴む力もさることながら、その胸ぐらへのねじり具合も常軌を逸しており、控えめに言ってもトリプルサルコウほどのひねりがありました。

 

僕はただひたすら、彼を殴ってはいないこと、そもそもが誤解であること、ただ、僕がしたことと言えば、優しくソフトかつジェントルにぺちんと彼の右頬をフェザータッチで一叩きして肌と肌が触れ合ったこと、いわば、

 

前戯ビンタ

 

したことを伝えましたが、彼女は聞く耳を持ちません。目線を外すと(彼女から見たら暴力被害者である)後輩が僕たちを見て笑っていましたが、その後輩を見るや否や彼女は「笑うな!」と一喝します。

 

 

 

キミは一体何と戦っているんだ。

 

 

 

そして、断崖絶壁にジリジリと追い込まれて行くように、彼女は僕を後ろへ後ろへと胸ぐらを掴みながら押していきます。僕は今から本当に崖から落とされるんじゃないかと錯覚するくらいに彼女の底知れぬ憤怒を宿した表情には説得力がありました。そして僕の後ろにはたまたま割と高めの段差があり、無論それが見えない僕は結果として盛大に後ろへとコケてしまいました。

 

一瞬何が起きたか分からなかったですが、ふと目の前を見ると彼女が依然として僕の胸ぐらを掴んでいます。構図として、パッと見ただけであれば、よく少年漫画であるようなちょいエロ学園モノで、女子生徒と主人公の男子生徒がお互い学校に遅れまいとダッシュしていて、曲がり角でぶつかってしまい倒れてあわやキス寸前的な構図だったはずです。

 

 

ただ、こっちの人般若の顔してますし。

 

 

僕、ケツ打ったあと、後頭部もちょっと打ってますし。

 

彼女がどういった環境で育ってきたのか、どういった経緯で暴力を極度に嫌いになったのかは皆目知り得ぬことですが、僕は彼女の胸ぐらドンの一連の行動を見るにつけ、

 

 

これこそ暴力なのではないか

 

 

これこそがキミの忌み嫌う暴力なのではないか

 

 

自ら忌み嫌う暴力をまさに自らの手で行使してしまっている自己矛盾、己こそが正義であると盲信しているその独善的な不正義、そのただ中にキミは身を投じているのだという、ある種の

 

 

 

哲学的問い

 

 

 

の前に立たされた僕は、時間にして30分ほどの胸ぐらドンを体験したのちに、最終的には力なく彼女との(気持ちとしては)今生の別れを告げました。彼女は最後の最後まで般若でしたが、この白昼に行われた路上での一連のアクシデント、後輩に後日聞いたところによると割とオーディエンスがいたらしいのですが、その方たちに僕達は一体どのように映ったのでしょうか。

 

恐らく可能性としては、彼女の人格を否定するレベルで僕が彼女を罵倒した結果、彼女に逆切れされているように映ったかもしれませんし、あるいは、浮気が発覚した彼氏が彼女におもいっきし詰められているように映ったのかもしれません。

ただ、蓋を開けてみると原因は単に、僕が立ちながら寝ている後輩に前戯ビンタしただけです。

 

帰りの道すがらに、最悪の日だったなと思い返しました。わざわざアフターをしてまでお酒代を出して、重度の二日酔いになって、吐いて、結果として胸ぐらを掴まれて転んで怒号を浴びせられる一日を。

 

「先輩、服のそこやぶれてますよ。」

僕は「えっ!」と胸ポケットの辺りを見て驚いたのちに力なく笑いました。

上を向いて歩こう。そして家に帰って下を向いてトイレで吐こう。暴力はアカンという気持ちを込めながら。