道化が見た世界

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責任の所在

他人に気を遣いすぎてしまう人は、基本的に、責任の所在を常に自分に押しつけてしまう、自罰的かつ卑屈な存在である。他人に気を遣いすぎるということは、つまり、自分の精神を過度に緊張状態へと置き、他人の言動や状態を逐一注視し、消極的には他人が不快に思わない、積極的には他人が快を感じれるような振る舞いをなす状態である。


根源的には人に嫌われたくないという恐怖が作用していると思われるが、気を遣いすぎると、当然の如く、疲労とストレスが溜まる。それは自らの精神を緊張状態に置き続けているからであり、かかる存在が「はぁ、一人になりたい」と考えるのは、その状況が唯一、自分の精神を弛緩させることができるからである。他人がいなければ、気を遣わずに済む。


責任の所在の観点から、一つ例を挙げよう。あなたは今、コンビニのローソンで唐揚げクンを買おうとしている。そこでレジに向かい店員に、「唐揚げクン、一つください」と頼むと、店員は「、はい?」と聞き返してきた。


ここで、問題になるのは以下の二点である。
1、自分の声が小さかったがゆえに、店員が自分の声を聞き取れなかった。
2、店員の耳が悪かったがゆえに、自分の声を聞き取れなかった。


可能性としては五分五分あり、どちらに責任の所在があるかは判別できない。しかし、気を遣いすぎる人間は、自罰的かつ卑屈であるために、すぐに自分の声が小さすぎたのだと判断する。他人とのコミュニケーションに対し、全ての摩擦や軋轢、齟齬は自分が原因で生じたものだと即座に判断する。そのような事態が生じないように、彼らは他人に気を遣うのである。その時、他人に対して責任を転ずることは決してない。


私は、そんな慎ましく繊細な彼らに一つ言いたい。時には責任を他者に転嫁してもよいのだと。店員が聞き返してきたら「お前、耳悪くね?」と怒り、面白いことを言ったつもりでも周りが笑わなかったら「こいつら、総じてセンスねえな」と睥睨し、上司に対する不遜な態度で彼が激怒したなら「器ちっさ!ちっさ!」と小馬鹿にすればよい。そうやって過度な緊張を弛緩と釣り合わせて生きていかなければ、精神は疲労の一途をたどるだろう。


彼らは、人に気を遣わずに生きれる人間を、蔑みながらも羨んでいる。なんの摩擦もなく自分の言いたいことを言って、小心翼々としない人間に自由を感ずる。しかし、私は思う。繊細でしおらしく、卑屈で自罰的な彼らにしか見えない、人の精神の機微は、人に寄り添うことのできる力を秘めている。