道化が見た世界

エンタメ・エッセイ・考察・思想

ワンランク上の飲み会作法(2)

過去記事「非リア充諸賢、覚醒せよ!」、それを派生させた前記事「リスペクトとディスリスペクト」では、あるべきコミュニケーターとしての方法論を詳述してきた。今回もその例に漏れず、「ワンランク上の飲み会作法」で取り上げた、飲み会での「コール」という行為を批判的に見つめ直してゆく。


私は前記事で「コール」という行為を以下の様に述べた。

また、「コール」といった無理矢理にでも場を盛り上げようとする荒技も存在する。確かに、コールをふっている空間に居る人達は盛り上がることができるかもしれないが、それを傍目から見ている違う空間の人達との温度差は、文字通り火を見るよりも明らかであり、全体調和の盛り上げ方としては、少々難点があるし、コールそのものに嫌悪感を抱いている人種も少なくない。


復習するが(教授の態で恐縮だが)、飲み会での至上目的は「飲み会の空間」全体を盛り上げることである。コールはその一つの手段として認識されているきらいがあるが、それは「無理矢理にでも場を盛り上げようとする荒技」であり、ありていに言えば、酷く低俗な手法である。まずその認識を持たねばならない。


最も望ましい方法は、行為主体が飲み会の場を俯瞰し、その空間の全体調和(皆が楽しめる)を志向し、気を配り、トークを展開していくことである。私にとって「飲み会」とは、自己のトーク能力(コミュニケーション能力)を披瀝し、見定める場所であり、また、自己の能力の不備を確認、省察し、次にそれを活かそうとする、(少し言い過ぎだが)自己鍛錬の場である。


コールという手段を繰り返し講ずる人種は概して、トーク能力が無い。故にコールにすがるしかない。自らの言葉を駆使して場を盛り上げることが出来ない。ユーモアセンス、俯瞰能力が無い。その、不具者としての自己を省みることが無い。彼らにとって、飲み会での唯一の助け舟は、コールとアルコールなのである。


まるで壊れた機械の様にコールの不協和音を奏で続ける人種は、それでいて、「コールで場を盛り上げている(つもりの)自分」に心酔し、俺はリア充だ!と、心で歓喜の雄叫びをあげる。そして、その空気に同調しない他者を「ノリの悪い奴、KY」として糾弾し、輪に入れずにいる人間を見てほくそ笑む。その(読む価値すら無い、低俗な)空気を読まねば浮いてしまうと感じた善良な市民達は、彼らに乗せられ、同調する。


率先してコールをふる人間は、愚鈍にも、「私にはトーク・スキルがありません」と自ら吐露しているのであり、彼らが、依然として、コールを盛り上げの為の至高手段として認識しているのであれば、「私はトーク・スキルが無いので、コールをふります」と、少なくとも自覚すべきである。


私にとって、コールをふって馬鹿騒ぎする人種と、有無を言わさずにいきなり「うぇ〜〜い!!」と叫びながら飲みの席に割り込んで来る人種は、ほぼ同格に位置するサブキャラ諸氏である。


『コールの声の大きさと、コールをする人間のトーク能力は、常に反比例する。』
ここに一つの結論を見た。


また、例外的にコールが許容されるべき状況は、「あえて、やってみますか?例のアレ、あえて、やっちゃいますか?」と、ダブルスタンダードを堪能したい場合か、コールそれ自体が「真に」全体調和を促進させるユーモアを内包している場合のみである。