道化が見た世界

エンタメ・エッセイ・考察・思想

人を「いじる」者達へ告ぐ。

コミュニケーション空間において、「いじる」側―「いじられ」側という役割分担が自然発生的に生じることは論を俟たない。しかし、私はいまだかつて、両者が健全な関係性を保ち、有機的に機能している空間を見たことが無い。


そこには常に、「いじる」側の「いじられ」側に対する侵害が、蹂躙があった。今回提起するのは、「いじり」側が遵守しなければならない規則、倫理観である。常に「いじる」側に居座り、ふんぞり返っている諸君に一つ問いたいことがある。


諸君らは、自分がふとした瞬間に「いじられ」側に回る可能性について、一度たりとも考えたことはあるか?自分が、まさに自身がそれまで行使してきた無思慮かつ独善的な手段で、蹂躙される様を思い描いた事が、一度たりともあるだろうか?


私は純然たる意志を以って、一点の曇りもない不動の情念によって断言できるが、諸君らは総じて気持ちが悪い。


そもそも、「いじる」側―「いじられ」側の関係性は、支配―服従の主従関係ではない。相互の信頼関係の構築は無論のことだが、第一に「いじられ」側への気遣い、愛がなければ、その関係性は健全ではない。


「いじる」側は、「いじられ」側を巧みにいじる「技術」を有していなければならない。その技術とは、「いじられ側の精神を徒に傷付けず、その主体を活かしながら、周囲の笑いを調達する」ものである。つまり、両者は、周囲の笑いを調達する上でwin-winの関係でなければならないのである。


しかし、「いじる」側の現状はどうだ。ろくに信頼関係を築くコミュニケーション能力も持たず、他者を気遣うゆとりもなく、周囲に「他者をけなす」ことでしか笑いを調達できない愚者ばかりではないか。その低劣至極な行為によって笑う周囲の人間も同様である。


諸君らは、人をいじり貶すことによって、自己の仮初めの優位性を確立しようと躍起になっている。そこには、笑いによって空間に調和をもたらそうとする志や、いじられる側をおもんぱかる、ごく人間的な感情すら無い。なにもかもが無い。


ただ、そこに厳然と存在するのは、諸君らのベンジョバエほどのくだらぬ自尊を満たそうとする醜悪な自慰行為である。自慰とは、他者を用いてするところのものではない。


そんな諸君らの、自己へ無批判なおめでたい態度を見ていると、私はある暗い衝動に駆られるのである。まさに、諸君らが用いた手段に拠って、諸君らをいじり貶すことによって、仮初めの優位性が真に「仮初め」であったことを、自覚させねばなるまいと感ずるのである。


私がいじり貶せば、諸君らはすぐさま猛り狂うだろう。それが、自らが行使していた手段であったにも関わらず。ここで疑問が生ずる。何故諸君らは猛り狂ったのに、諸君らがいじり貶していた者は猛り狂わなかったのか。彼らは、寛大なる慈悲心を以って、諸君らを許していたからだ。諸君らの蛮行にも目をつぶり、それを許していたからだ。諸君らはひとえに、彼らの「慈悲心」によって救われているのだ。


そんな心優しい彼らをけなして何が楽しい。けなすならまず、私をけなして見たまえ。


このゲームは、おそらく終始白熱した様相を呈すであろう。
諸君らが相手であれば、私も、技術を使わず、人間的配慮もせず、自己快楽の自慰を楽しむことができるのだから。