道化が見た世界

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女性がジャニーズやEXILEと付き合わずに僕達一般人と付き合うことは妥協である。

新年明けましておめでとうございます。そして、本日1月6日は僕の25歳の誕生日なんです。誕生日にこのような記事を更新するのは拗らせの極みの様な気も致しますが、実際に拗らせの極みなので理にかなっているというものです。



さて、今日は僕が常々抱いている疑念というか、もうどうしようもないこの世界に、ただ無力な自分がいるというポエティックであり虚無的な心情を、客観的に考察したいと思います。それはタイトルにもある通り、女性がジャニーズやEXILEと付き合わずに僕達一般人と付き合うことは妥協である。という命題です。



こういうこと言うと、まずはじめに善良な市民の皆々様は、「いや、有名人を好きになるのと現実世界の人を好きになるのは全然違う感情だから。」なぞと、生暖かい吐息をかけてくるきらいがありますが、冷静になって考えれば分かりますが、ジャニーズもEXILEも僕たちも、総じて現実世界の人間なのです。



まずは認識を新たにしなければいけない。そもそもジャニーズもEXILEも僕たちも、この地球上に生存している人間であり、男子なのです。みんな同じ土俵に立ってはいるのです。では、同じ土俵に立ってはいるのに、どうして好きという感情を「(有名人に抱くそれとは)違う感情だから」と言われてしまうのか。


彼女たちの主張は絶対的に誤っています。彼女たちが抱く好きという感情は、ジャニーズに対しても、EXILEに対しても、僕たちに対しても、それぞれ同質なものです。しかし、けれども、違う感情として彼女たちの中で処理されてしまう原因、それは、ジャニーズやEXILEが遥かに超越的に格上であり、ひるがえって、僕たちが遥かに超越的に格下の存在であるからに他なりません。




ごくシンプルに言ってしまえば、




彼らと比べると、僕たちは何の魅力も価値もない。






一人の男として完全に敗北している。






何の為に生きているんだろう。





彼らがあまりにも魅力的で、価値があり、輝いて見えるので、彼女たちは、自分が抱く好きという感情をねじって理解してしまっているのです。僕たちは彼らに比べると、価値も低く、魅力も無く見える対象でしかないわけです。イケメンであり、歌って踊れ、ひたすら努力を重ねている彼らに勝てるはずもありません。これが現実なのです。



さて、ここで一つ考えてもらいたいことがあります。誰かとお付き合いしているときに、みなさん一度は、ふと不安になったことはありませんか。「この人が違う人のことを好きになったらどうしよう」という不安を抱いたことはありませんか。自分よりイケメンな人に、可愛い人に迫られたらどうしようという、あの普遍的で根源的な不安。



自分より魅力的であり価値のある他者が、自分と付き合っている人に迫ってきたら、そこに見えるのは敗北という二文字でしかない。それが、ましてや、あの、名高き、男の頂点に君臨するジャニーズ様やEXILE様であったとしたならば、一人間としての圧倒的完敗しかあり得ないでしょう。



僕が嘆きたいのは、明らかに自分が無力であり、魅力的ではなく、価値のない人間であることを自覚せねばならないということです。仮に僕が誰かと付き合っていたとして、その子の前に自分より魅力的で価値のある男が現れ、彼に迫られたとしたら、僕は確実に負けるでしょうし、仮に負けていなかったとしても、それは、その子の前に自分より魅力的で価値のある男が現れていない限りにおいてでしょう。



だから、結局のところ、僕が言いたいことは、タイトルに戻りますが、女性がジャニーズやEXILEと付き合わずに僕達一般人と付き合うことは妥協である。ということなのです。確かに、そこらじゅうにジャニーズやEXILEがいるとは言いませんが、少なからず、あなたを脅かすジャニーズやEXILE“的”な存在はいるに違いありません。



そう考えると、他者(特に同性)は潜在的にも顕在的にも自分にとっては敵でしかない。自分では到底かなわない敵が周りにはうじゃうじゃいるかもしれないという恐怖と不安を背負ってかないといけない。



どうすれば、そんな彼らに勝てるのか。まず勝ち目はないんです。ただ、信じるしかないんです。自分達が付き合っている子に対する、自分の、愛の力が、彼らよりもまさっているか、というその一点のみに、全てを捧げるしかないんです。その子が、その愛という、計量不可能で曖昧模糊としたアホみたいな抽象的概念を汲み取り、繋がり続けてくれるかという一点のみを信じるしかないのです。








、、、死にたくなるだろ?
(完全虚脱)

約束させるという行為はチートである。


今年に入って半年近くぶりの更新である。2014年という新年が明けてからすぐ書いた記事、これから精力的に更新してゆく旨を伝えたあの記事を、既に新年の折り返し地点に差し掛かっている私が見つめている。もはや2014年は新年ではない。これも私の怠惰のしからしむるところである。全ての罪は怠惰にあり、私にはない。


さて、早速本題に入っていきたい。一般的に「約束する」という行為は、どのようなものだろうか。今回私が話したいのは書面上で交わされる様な契約的な、フォーマルな約束ではなく、当事者間でライトに行われる口約束である。


端的に言えば、「約束する」とは、当事者間での決め事を、私はちゃんと守りますという宣言である。そして私達は、した約束は守らなければならないという倫理観を、社会的に植え付けられて育ってきた。つまり、その約束を「破る」という行為は、非倫理的であり、人とのしてしてはいけない行為と認識しているのである。


重要なのはここなのだ。約束を守ることはまっとうな人間として当たり前のことであり、約束を破ることは、まっとうな人間としてあるまじきことなのである。私たちはかかる倫理観を共有して生きている。


この前提を頭の片隅に置きながら、タイトルの「約束させるという行為はチートである」を掘り下げてみよう。約束させる行為というのが何故、チートなのかと言えば、結論から言えば、当事者Aの欲望を、約束させるという行為にかこつけて、ノーリスクで満たすことができるからである。


何を言っているのか分からないと思うので、分かりやすく、約束を交わす当事者Aと当事者Bを例に挙げて説明したい。当事者Aは当事者Bに対して約束を取り付けたいと思っている。その約束とは、自分の欲望に即した、「今度、美味い飯連れてってくださいよ!約束ですよ!」というものである。


当事者Aは自分の食欲を満たしたい、その道具として当事者Bを利用しようと企んでいる。よく考えてほしいが、当事者Bには当事者Aの食欲を満たさねばならない道理はない。まごうことなきAのエゴであり、にも関わらずこの上から目線の物言いは、一体何であろう。


ここで、当事者Bは半ばノリでその約束をしてしまった。今度美味い飯に連れていく約束をしてしまった。ここでBの中にその約束への義務感と、それを破ってしまった時の罪悪感が同時に生まれるのである。ここが重要である。


Aは自分の欲望をぬけぬけとさらけだして、その欲望を満たすようにBに求めた。むろんBはそれに従う道理はない。非難されるべきは間違いなくAである。しかし、Aはそれを約束というヴェールに包んで提示してきた。そしてBはそれを快諾してしまった。Bがそれを快諾してしまった瞬間から、その理不尽な要求を履行せねばならない義務感と、それを破った時の罪悪感に苦しめられることになる。


何故なら、約束を破るという行為は、まっとうな人間としてあるまじき行為だからである。


Aの立場になって考えた時、約束させるという行為がいかにチートであるかが理解できる。そもそもの問題なのだが、約束を取り付けるという行為自体が、完全にノーリスクなのである。約束させる相手にただ、「約束ですよ」と添えるだけでいい。演出として指切りをすれば、もう完璧だろう。


Aはノーリスクで自分の欲望を叶えることが、叶える可能性を高めることができるのである。万が一Bが約束を破った場合には、Bを人格的に糾弾することさえできてしまう。「約束を破る人ってどうかと思いますよ。人としてどうなんですか。人間性疑います。」といった具合に。この理不尽さ、皆様に伝わっていますでしょうか?


また、約束の強度を高めるためには、むろんその当事者が約束を守る人間でなくてはいけない。普段約束を守らない奴の約束を、誰が守らなくてないけないと思うだろうか。そんな奴に約束守れよと言われたところで、いやお前だって約束破りまくってるやんでアウトである。


それと、約束される側の立場から言わせてもらうと、約束というのはむやみやたらにするべきものではない。約束させられそうになったら、とりあえずお茶を濁す。約束にはお茶を濁す。これが正解である。


で、最後に言いたいのは、私たちはドンドン自らすすんで相手方に約束をさせるべきなのです。こんなにノーリスクで自分の欲望を満たすことはできないからです。約束という便利なツールを使って、自分の理不尽な要求をたたきつけ、もし相手方がその押しに負けてその約束をしたとなればこちらのものです。約束が守られればもう言うこともなく完璧ですが、仮に破られたとしても、「約束を破るという人間としてあるまじき行為をした」相手方の人格を徹底的に攻撃できるのだから。

2014年 新年明けましておめでとうございます 本年度も何卒宜しくお願い致します

 読者諸賢、御無沙汰である。私は久しくこの場に姿を現さなかった。その理由はなにかと問われれば、そこに特に理由はない。本当にない。多忙が極まっていたわけでもなければ、惰眠をむさぼっていたわけでもない。いや、どちらかと言えば惰眠をむさぼっていた。まあそんなことはどうでもいいのだ。


 年が明けて2014年になった。私はなんと本年の年男であり、本厄であり、午年であり、ゆえに馬面である。そう、ご存知ないかもしれないが私は馬面である。ヅラという語感から粗暴な印象を受け、まるで馬鹿にされているようなので(馬だけに)、マイルドに言い換えればウマメンである。イケメンでありながらウマメンである。まあそんなことはどうでもいいのだ。


 私には物を書く使命が宿されていると思う。それは思いっきり独善的な思い込みなのだが、私の文章を読んで仮初でも救われた気持ちになってくれたり、楽しい気持ちになってくれるコアな読者諸賢の存在がある限り、私にはその使命が宿っていると思うのである。


 私は昨年の2013年、思いのほか文章によってアウトプットしようとする衝動が無かった。それは、私の中である程度、社会との関わりの中にある私自身が抱えるもやもやを言語化しきったのではないかという心境がある。私は言語化することによって私自身を腑に落としてきた。まるっきり読者を意識していない、自分を説得させる為に書いた文章が沢山散見されるのはその為である。

 
 2014年は、私の内省的な文章はある程度片隅に追いやり、読者諸賢を意識した、エンターテイメントを、ホスピタリティを、俗物的供物をプレゼントできればいいなと思っている次第である。個人的にはしゃべり、それに伴う身振り手振りの意識によってコミュニケーションにおけるエンタメを強化し(speaking領域)、また私が見聞きし感じたことを面白おかしく文章に還元したい(writing領域)と思っている。


 それでは本年度も何卒宜しくお願い致します。ファルスと共にあらんことを。

女性の心

(2009年04月12日mixiにて掲載)

 私には、女性の心というものが分かりません。彼女達が心の奥底で一体何を考えているのか、それは、私がどうあがいても知ることのできない事の様に思われます。


 というのも、昨日、とあるサークルの新歓に参加してきたのです。新歓に参加する者は、各々初めての顔合わせですから、皆一様に緊張、あるいは不安の表情を浮かべていました。


 しかし、当の私は全くといっていいほど緊張しておりません。去年のウェルパの時もそうでしたが、なぜか私は初対面の人間(女性でも男性でも)と会し話しをする事にほとんど不安や緊張を感じないのです。


 新歓の会場に着き、私が座った場所は、女性が4人、男性が2人(私を含む)という様な構図でした。私の隣に座った1年生の彼は、名を上野太郎と言いました。緊張からくるのであろう彼の挙動不審ぶりを見て、私しかこの場を盛り上げることのできる人間はいないことを悟りました。


 場は大いに盛り上がりました。はんにゃの金田君の髪型にしてもらおうとしたら、ただの坊主になってしまったこと、仙人の境地に辿り着くために、寒いなか家で甚平を着て過ごしていたら風邪を引いてしまったことが鉄板のギャグとなったり、変形自在の変顔を駆使して金田君の真似をしたりすることで、近年まれに見る比類なき盛り上がりの様を呈していたのです。


 そしてここで一つ、皆さんに告白せねばらならない。それは、私のひとつ隣にいる女性が、大変可愛らしかったのです。彼女は、私のくだらない話に熱心に耳を傾けてくれました。色々なことを私に質問して聞いてくださいました。生まれてこのかた19年、恋愛の「れ」の字も知り得なかった私は、この時初めて、愛という言葉の意味を理解したのです。「イエス!フォーリンラブ!」私は心の中で叫びました。


 彼女と文通がしたい。私は思いました。私は彼女に、メールではなく文通がしたい、そちらの方が仙人ぽいから、と伝えました。彼女は無邪気な笑みをみせてうなずきました。私が一方的に書いて送るだけでも構わないということ、冗談ではなく私は本気であることを重ねて彼女に伝えました。そして、私は彼女とメールアドレスを交換し、楽しい新歓も終わりを告げたのです。


 家に帰り、私はさっそく、文通をする為に貴女の住所を教えてほしい、と彼女にメールを送りました。明日には文通のための手紙と封筒を買ってこようと思い、私の心はおどりました。


 しかし、いくら待っても彼女から返信が来ないのです。私は急に寂しくなり、孤独感にさいなまれました。一見楽しそうにしていた彼女は、実は私に一抹の興味も有してはいなかったのではないか。彼女の微笑みはすべて虚飾だったのではないか。ほとんどなにも話を交わしていないあの上野太郎に彼女は気があったのではないか。もしかしたら彼に、新歓終わりにメールをしたのかもしれない。


 私はここで、自分が到底知ることのできない女性の心の内、絶対的な隔たりを感じてしまったのです。私は人間不信に至るほど疑心暗鬼したのちに、大粒の涙を流しました。私があの時感じた愛は、一体なんであったのでしょう。


 私は今日も携帯を片手に握り、いつくるかもしれない彼女の返信を待ち続けているのです。なむなむ!

大人のクマさん

 僕は父親の仕事の関係で、小学5年から中学1年までの2年間インドに滞在していたんですが、僕と姉と兄の3兄弟は英語を勉強する為にインターナショナルスクールに通っていました。インターナショナルと銘打ってはいるものの、在校生の8割はインド人だったのが未だに謎です。


 僕達兄弟は特異な関係性であった為(詳しくは過去ログ「私と兄と姉」を参照)、クラス内で英語を皆目しゃべらずに、日本語を3人でしゃべり続けていました。


 そんなある時の授業中に、隣に座っていた兄が一心不乱にノートに絵を描き始めました。僕達兄弟の授業態度はどちらかと言えばよくはなく、というか悪く、3人が固まって座っているために、どうしても授業を聞かずに日本語で会話したり、関係のないことで盛り上がってしまうというきらいがありました。


 僕が兄の描いている絵を一瞥すると、そこには「大人のクマさん」と題された、男性器が異常に発達したクマさんが描かれていました。



(※画像はイメージです。)


 僕はその大人のクマさんを見て大いに笑いました。兄が授業も聞かずに一心不乱に一生懸命描いていた作品が、男性器が異常に発達した大人のクマさんだったからです。僕が大いに笑ったあたりから、授業をしている先生の様子に陰りが見え始めていたのでしょうが、僕はそれを後ろに座っていた姉にも見せることにしました。案の定、姉も大人のクマさんを見て大いに笑いました。


 僕達3兄弟がそれぞれ大人のクマさんを肴に大いに笑っていると、先生がこちらを見すえて、あなたたちは何をそんなに笑ってるんだ!と怒りました。そして先生は僕達のところに来て、大人のクマさんが描かれたノートを取り上げました。


 まずいな、と僕は思いました。その先生は僕達の担任のオバサン先生でした。僕は幼心にも、女性にあの異常に発達したリアルな男性器を見せるのはまずい、と感じていたのです。僕は、先生が大人のクマさんが描かれたページを見つけ出さないでほしいと願いました。


 先生は、そのノートを取り上げてから、怒りと共に素早く一ページずつページをめくりはじめました。あなたたちはこのノートを見て何をそんなに笑っていたんだ!!、と先生は怒鳴りました。しかし、その質問を機に僕達3兄弟の頭の中にあの大人のクマさんが浮かび上がってくると、どうしても笑いを抑えることができませんでした。


 自分の質問に対して答えず、大笑いしている僕達兄弟に業を煮やした先生はついに激昂し、今から校長室に連れて行くとすごみました。一生徒が授業中に校長室に連れて行かれるという事態はかなり稀でめずらしいものでした。



学校のトップに、大人のクマさんが見られてしまう。



 僕達は完全に仰天しました。校長先生もおばあちゃんで、女性でしたので、僕は幼心にも、女性にあの異常に発達したリアルな男性器を見せるのはまずい、と感じていたのです。


 授業は中断され、僕達3兄弟は件のノートを持った担任の先生に連れられて校長室に向かいました。まず最初に担任の先生が校長室に入り事情を説明しているようでした。僕達兄弟は外で待たされ、みな口々に、あの大人のクマさんが見つかったらヤバい、と言い合いました。


 そして程なくして、僕達は校長室に通されました。校長室の大きく立派な机の上に、件のノートが開かれて置かれていました。よく見てみるとそこには、大人のクマさんが描かれていました。


 校長椅子に坐した校長先生と端で立っている担任の先生をよそに、僕達はその大人のクマさんの異常に発達した男性器を眺めていました。僕の兄によって生み出された作品は、とうとう白日のもとにさらされたのです。


 そして、その緊張の中、沈黙をやぶったのは校長先生の一言でした。校長先生は、男性器が異常に発達した大人のクマさんを指差しながら、僕の兄に、これはなんの絵ですか?と、単刀直入に問いました。僕と姉は、兄の顔をうかがいながら息を飲みました。すると、兄は一呼吸置いて、力を込めてこう答えました。




「This is Japanese Picture.」




(完)

ナンパ戦線異状アリ

 私はとある夜に渋谷へ向かった。ナンパする為では決してなく、高校以来の友人と会う為にである。ハチ公前とモヤイ像前を繋ぐ通路付近で、私は友を待った。


 そこにはちょうど人一人が写る程度の細長い鏡のていをなしたガラスがあり、私はそこで日課である髪型チェックをしていた。人にナルシストであると悟られないようにしながら視線を鏡に向けることは思いのほか困難を極める。私は分別のあるナルシストであった。


 そのガラスの横にはスーツ姿の女子学生が一人立っていた。就活生なのか、既に社会人なのかは判然としなかったが、どうやら彼女も私と同じく友人を待っているようだった。私達は同じ境遇にあった。



「○○飲みの方ですか?」



 ふと突然、黒ぶち眼鏡をしたアラサーサラリーマン風の男が彼女にそう声をかけた。「○○飲み」というのはおそらく、彼らの仲間内の飲み会で、そう問うということは、彼と彼女は初対面であり、つまり、オフ会のようなものだなと私は思った。すると彼女は、怪訝な表情を薄く浮かべながら「えっ?!違います」と答えた。



ん?



 どうやら黒ぶちは人違いをしたらしい。そこで彼は、あー、そうですかとなぞと適当に相槌を打ちながら、「いや〜でも元カノにスゴい似てるんですよ!」と、ナチュラルに切り返した。



は?



 私は人様のナンパの現場に居合わせたのである。「○○飲みの方ですか?」というのは彼女と話すきっかけを作るためのフェイクであり、つまり、人違いを装ったナンパであった。


 本当は○○飲みなど存在せず、むろん彼女もそんな存在しない飲み会に参加するわけもなく、よくぞそのアホ面下げて「○○飲みの方ですか?」なぞと自信ありげに問えたものだ。ヌメヌメしたナメクジのようなナンパをするなあと思い私は少し不愉快になった。


 黒ぶちの「元カノにスゴい似てるんですよ!」というあさっての食い込みフレーズに対し彼女は「いやいやいや!」と困惑していたが、彼はそれを意に介さず、「待ち合わせですか?学生さんですか?」なぞと続ける。彼はナメクジ冥利に尽きていた。


 私は少し隣からその光景を、ナメクジがナメナメしている光景を、嫌悪と好奇の狭間で眺めていた。ナメクジがどのようにその場を終息させるのか気になった。ナンパならば「あのこれ見ての通りナンパなんですけど、」とカミングアウトして声をかけた方がまだマシである。そもそも性の商品化がうんぬんなぞと私が思案していると、ふとナメクジがこちらを一瞥して言った。



「あ、あれ彼氏?(笑)」



 ナメクジは私を指差してそう言った。彼のほくそ笑んでいるその表情を見た刹那、私は聖なる義憤に駆られた。私には彼の内に蠢く唾棄すべき内面も同様に見えたのだ。


「(また人違いパターンでスムーズに声かけできたわー、ちょれーwナンパマジちょれーwwこっから適当にまくし立てて情報引き出すかー。この子めっちゃ困惑してるけどその感じがいいよなーwなんか優越感かんじるわーwよーし、ここでいっちょ周りも巻き込んでイジって俺の余裕っぷり、ハイレベルっぷりアピールすっかーwww)




「あ、あれ彼氏?(笑)」






「そうです(ズンッ)」






 私は間髪入れずに踏み込んだ。私のその原初の一歩を見た彼らはそろって吃驚仰天した。ナメクジはテンパった。まさか私が、まさかこの私が、彼の発言に答えて踏みこんで来るとは、到底思えなかったであろう。そのおめでたい脳味噌では。


 私が「いやいやっ」と慎ましい苦笑いを浮かべながら、自己愛に塗りたくられた傲慢至極な彼の攻撃(ナメクジ・アタック)を拒絶すると思ったであろう。世には常に例外があり、この場合、その例外こそが私であった。「確実にツブす。」私は刹那咆哮し、原初の一歩を踏みこんだ。



「俺の彼女なんで、マジそういうのやめてもらっていいですか?」



 ナメクジは尚テンパっている。何故ならば、私が彼女の彼氏なわけないからである。彼女は彼女で、この不可解極まりない状況に笑い始め、「カップルとナメクジナンパ師」ミニコントが半ば強制的にスタートした。すると彼は、「えっじゃあお互いなんて呼んでるの?」と攻撃、「けんちゃんゆきちゃんの仲」と私のカウンターアタック、「そもそも関係は?」「バスケ部の先輩後輩」なぞと応戦し、私は一呼吸置いて言い放った。



「てかこれナンパですよね?!」




「人違いと見せかけたナンパですよね?!」



 彼の言動全てを規定する、かかる釘刺しの言辞により、彼は文字通り塩をかけられたナメクジのように委縮した。この時、「そうだよ!ナンパだよ!完全にナンパです!」と開き直られたら私は何も言えなかったと思うが、そもそも彼はそういう人間ではなかった。


 結局彼は、イタチの最後っ屁のごとく「電話番号だけでも!」としつこく放言するので、「だから俺の彼女に手ェ出すなって!(この上なくキザな表情で)」と啖呵を切り、最後に彼は「じゃあ、これから男飲みなんで」とこの上なく不可解な言葉をあとに去っていた。


 そして一人残された女性に、私は開口一番で「ありがとうございました」と謝意を述べられたのである。この世にスーパーヒーローなる者がいるとすれば、それは私であった。スーパーヒーローの眼前にもう敵はいない。そして彼は続けて言った。自己愛に塗りたくられた傲慢至極な表情をたたえながら言った。



「大丈夫でした?あれ完全にセコいナンパでしたね〜。渋谷ああいう変な人多いっすから気を付けた方がいいですよ〜。本音言うと僕も電話番号聞きたいんですけど、もう下心しかないんですけど、やっぱりここは粋に何も聞かずに立ち去った方がカッコいいんで立ち去ります!お気を付けて!」



 スーパーヒーローは、最後の最後に女性を見なかった。「お気を付けて!」と女性に告げている自身の姿を鏡越しに見つめていた。

私の肺からエアリーク (2)

 私はママが運転する車に乗って大学病院に到着した。到着するや否や、担当の医師に通され、点滴の針を刺しがてら採血をされた。


 私は痛いのが人一倍嫌いな青年である。一般の血液検査でも、心を落ち着かせて深呼吸を数回しなければ注射針に向き合えない青年である。ゆえに点滴の針がさも当然の如く流れ作業で刺された時、私は今回自分の立っている土俵が既に向こう側へ行ってしまっていることを悟り身震いした。


 私の三分の一に縮まった肺は、既に自然治癒では治せない状態になっており(症状が軽度の場合は安静にして自然治癒を図り、重度の場合は手術となる)、漏れた空気を抜く為に胸腔ドレーンという管を脇腹にぶっ刺す必要があった。私が医師に、その胸腔ドレーンは点滴するよりも痛いですかと問うと、はい痛いですと即答された。



やはり。



 私は悟りきった表情をたたえながら遠くを見つめた。その宣告を受けてからすぐに車椅子で個室に運ばれ(初めて車椅子に乗った)、ベッドの上で体を横に寝かされ、その胸腔ドレーンをぶっ刺すフェーズへと進んで行った。


 手際が良すぎる。あまりにも迅速である。まだ心の準備が出来ていない。速すぎるが故にまだ心が整っていない。上半身を裸にしてぶっ刺す箇所だけ穴の空いたブルーシートの様なものをかぶせられる。視界が青くなり何も見えない。むろん前も見えない。担当の医師が「じゃあ始めます」と宣告する。まだです。まだ準備が出来ていません。心の。脇腹が消毒されてヒエヒエしている。もう来るやつじゃん。これもう来るやつじゃない。目をつぶる。もう目をつぶる。「はい、ちょっとチクッとします」。麻酔や。これ局所麻酔や。痛い。麻酔痛い。「はい、二本目行きます」。二本目もあるんかい。痛い。少し間があく。



「今から、管通します(ドンッ★)」



 圧倒的に痛かった。麻酔が効いているのは、1センチちょい切った脇腹周辺だったと思うが、胸腔ドレーンは私の胸腔奥深くへと侵攻してきているのであり、圧迫感による痛みと恐怖を私は味わった。


 少し話がそれるが、私は大学生時代に謎の腹痛に悩まされ、大腸検査をしたことがあった。それは大腸カメラをお尻の穴(マイ・エイナル)から突っ込むものだったが、カメラが私の大腸半ばに差しかかった頃合いに、ものすごい圧迫感、例えるならば「エイリアンが腹から出てくる」感を覚えたのである。つまり私は「エイリアンが肺から出てくる」感を胸腔ドレーンでも同様に味わったのである。


 ドレーンが通り、処置が終わると、強烈な肺への違和感と痛みに襲われた。肺に鉄板が斜めにぶっ刺さってる感じの圧迫感があった。その時私は38度の熱と、断続的に続く咳にも悩まされていたが、診断の結果、それは肺炎であった。私は肺気胸と肺炎を併発していたのである。


 こうして私の入院生活が始まったのである。
(続)