道化が見た世界

エンタメ・エッセイ・考察・思想

私の肺からエアリーク (1)

 「アレィ、、この痛みはなんぞコレィ、、」

 昼夜逆転の生活、喫煙生活、日頃の不摂生がたたったのか、私は咳き込む私を止めることができずにいた。風邪をひくことはままあったが、今回はそれに上乗せされた痛みがあった。全体的に肺が痛かった。


 普段病院に行くことは億劫で放置プレイが多い怠惰な私も、今回ばかりは自分の置かれた危機的状況を察知した。生まれ持ったシックス・センス、つまり、センスのある私は、この痛みは放置していても治らないこと、そして、放置していればいずれ危機的状況に陥ることを察知した。


 起床と同時に私がまずしたことはママへの電話である。「風邪止まらなくて、肺痛いんだけど、この場合、何科受診?」


 独立自尊の精神を培ったはずであった私の大学生活は、風の前の塵に等しく、その実は、両親にパラサイトする為の根を地中に這わせ続けていただけであった。


 早速、近場の病院に自転車で向かった。センスのある私には一つの確信があった。この症状は「肺気胸」であると。無論私は一度も肺気胸になったことは無かったが、例によって例のごとく、センスによってそれを直感的に悟ったのである。そして実際にそうだったのである。


 病院に着き、体温計を手渡され計ってみると38度の熱があった。咳も断続的に続き、受診を待つおじいちゃんおばあちゃんはかなりの数いたが、私は先に個室に通され、無駄に厚化粧をしている看護師に、どのような症状なのか尋ねられた。


 私は自身のセンスを確信し、「これ肺気胸だと思います」と率直に言った。咳は一週間前から続いていて、昨日急に肺が痛くなったこと、咳をすると肺が圧迫される感じがして息苦しいことを伝えた。すると、驚いたことにその看護師は苦笑しながら私に反論した。



「風邪でもそういう風になりますよ(笑)」



・・・・・・!?



「いや、肺が痛いんじゃなくて、脇腹ですよね?(笑)」



・・・・・・!?!



 私は激怒した。私はその看護師の「いやいや、ただの風邪なのにこの子何言っちゃってるの?ぷっ(笑)」というぞんざいな扱い方、その「ぷっ」感に激怒した。


 お前は、患者が述べることをそのまま額面通りに書き出し、首肯し、その純然たる情報をお医者様に手渡せばよい伝達係の任に就いていることをおめでたくも忘却し、身の程をわきまえずにその醜き我をしゃしゃり出し、何故か患者にあさっての診断を下して悦に浸る、その姿、下衆の極み。(ハマカーン風に)


 「もう取り敢えずレントゲン撮ってください」私がそう言うと、わりとスムーズにレントゲン室に呼ばれ、そして、わりとスムーズに入院が確定した。診断結果はやはり肺気胸で、私の右肺は既に三分の一の大きさに縮んでいること、肺の穴から漏れている空気(エアリーク)を止めなくてはならないことなどが伝えられた。


 その結果を聞いたその看護師は神妙な顔をしていたが、私はその顔に対して「取り敢えず化粧濃いよ」と呟き、一人ごちた。


 私は入院先の大学病院に向かう為に、電話を入れた。「もしもし、ママ、俺入院することになっちゃった。」

(続)

全体的に面白そうで面白くない話

だいたいどの駅近くにも携帯ショップってあるじゃないですか。それで携帯安いですよって看板持って宣伝してる人よくいるじゃないですか。だいたい若い女性が多いんですけども。


で、この前ですね、駅前を歩いていますと、iPhone5 20000円 環元」って手書きの看板抱えて道のセンターにどーん立ってた携帯ショップのお姉さんいたんですよ。もう一瞥した刹那に、えも言えぬ違和感あるじゃないですか。いやいやいや、お姉さん、と。


で、僕、普段そういうストレートな性格じゃないんですけど、あの、すいません!と、えも言えぬ違和感をモチベに話しかけたんですよ。そしたら、あっちはもうこっちをiPhone5に機種変更する人として見るじゃないですか。僕がすみません言った初速で結構あっちの営業トーク始まったんですよ。でも僕は違うじゃないですか。僕は環元の環は環境の環じゃなくて、しんにょうの還だよって指摘する人じゃないですか。


それ話したら、お姉さん完全に僕のこと「は?」って感じで見て来たんですよ。僕の言い方が多分独特だったというか、「いやあのこれ、還元って書きたかったと思うんですけど、はい、そうですよね?これ、この環は、完全に環境の環になってますよ。しんにょうですよ。ホラ。」


って言って携帯取り出して予測変換のとこ見せたんですよ。そしたら徐々に、自分の過ちに気付き出したのか、「あ〜、、そうですよね、いやー、私もこれ書いてる時、なんかおかしいな思ってたんですよね、違和感ありましたもん」


いやー、結構自信満々の筆圧でしたけどもねー、まあそれは良しとして、でも紙に直接書いてたんで、ホワイトボード的な修正きかなかったんですよね、まあでもあまりにもダサすぎたんで変えるかなー思って、一周してまた同じ道来たんですよ。


でね、僕も指摘した手前、二回目会うのちょっと気まずいじゃないですか、だからちょっとこっぱずかしくなって、そのお姉さんをちらっと見たんですね。そしたら、「環元」って書いてあったところに新しい白紙を重ねてちゃんと「還元」書き直してあったんですよ、チラっとしか見てないんであれなんですけども。


でね、今のこの↑の部分オチなんですけど、いかんせんちゃんと見てなかったぶん、もやっとしてる感じじゃないですか。ここちゃんと脚色できたらもっと面白い話になるんじゃないかな、っていうお話でした。

怒りの矛先

私が最も怒りに駆られる場面は、加害者が被害者に対して更なる害悪を自覚的/無自覚的に加えようとする時である。その傲慢で愚鈍な厚顔無恥加減に私は渾身の一撃を加えたいのである。


例えば、男Aが女Aに電車内で痴漢に及んだ際、男Aが言う。「女Aはミニスカートをはいていた。その服装は男の劣情をいたずらに喚起させた。そもそも、そういうファッションをしているということは、男を性的に挑発している自分を自覚している。ビッチだ。女が悪い」


自己の過失を棚上げし、自制の効かない欲望を吐き出して、女性に肉体的/精神的苦痛を与えている主体が、更にその女性を攻撃する。この醜悪極まりない口実、つまり、冒頭でも述べたように、「加害者が被害者に対して更なる害悪を自覚的/無自覚的に加えようとする」場面は様々なところで散見される。


交際中にある男Aが女Bと口論になり、女Bは沈黙した。男Aが何を言っても女Bは沈黙を守るばかりである。そこで男Aは言う。「なにいじけてんだよ!黙ってたら何にもわかんねえだろ!原因言えよ、言ったら解決できるかもしんねえじゃん」


その沈黙は男Aが理解できない人間であると諦観した女Bの答えである。男Aは自己が無自覚的に女Bを加害した可能性について、一切の罪悪を持っていない。自己の過失を棚上げし、沈黙した被害者に対して、何故沈黙するのかと叱責する。ここで仮に女Bが「〜〜と言われたのが心外だった」と真摯に述べたとしても、「そんなことかよ、だったらそん時に言えばいいじゃん」と叱責するであろう。


人のモノを壊しておいて、「大事なモノだったらちゃんと自分の部屋へ置いておきなさい」と、かつて私の母は言ったが(デスノートブレスレット・バラバラ事件(BB事件)参照)、それもまさに、被害者に自衛を促す加害者の常套句である。諸悪の根源である貴君らの言動の全ては、どこにいってしまったのだ。

責任の所在

他人に気を遣いすぎてしまう人は、基本的に、責任の所在を常に自分に押しつけてしまう、自罰的かつ卑屈な存在である。他人に気を遣いすぎるということは、つまり、自分の精神を過度に緊張状態へと置き、他人の言動や状態を逐一注視し、消極的には他人が不快に思わない、積極的には他人が快を感じれるような振る舞いをなす状態である。


根源的には人に嫌われたくないという恐怖が作用していると思われるが、気を遣いすぎると、当然の如く、疲労とストレスが溜まる。それは自らの精神を緊張状態に置き続けているからであり、かかる存在が「はぁ、一人になりたい」と考えるのは、その状況が唯一、自分の精神を弛緩させることができるからである。他人がいなければ、気を遣わずに済む。


責任の所在の観点から、一つ例を挙げよう。あなたは今、コンビニのローソンで唐揚げクンを買おうとしている。そこでレジに向かい店員に、「唐揚げクン、一つください」と頼むと、店員は「、はい?」と聞き返してきた。


ここで、問題になるのは以下の二点である。
1、自分の声が小さかったがゆえに、店員が自分の声を聞き取れなかった。
2、店員の耳が悪かったがゆえに、自分の声を聞き取れなかった。


可能性としては五分五分あり、どちらに責任の所在があるかは判別できない。しかし、気を遣いすぎる人間は、自罰的かつ卑屈であるために、すぐに自分の声が小さすぎたのだと判断する。他人とのコミュニケーションに対し、全ての摩擦や軋轢、齟齬は自分が原因で生じたものだと即座に判断する。そのような事態が生じないように、彼らは他人に気を遣うのである。その時、他人に対して責任を転ずることは決してない。


私は、そんな慎ましく繊細な彼らに一つ言いたい。時には責任を他者に転嫁してもよいのだと。店員が聞き返してきたら「お前、耳悪くね?」と怒り、面白いことを言ったつもりでも周りが笑わなかったら「こいつら、総じてセンスねえな」と睥睨し、上司に対する不遜な態度で彼が激怒したなら「器ちっさ!ちっさ!」と小馬鹿にすればよい。そうやって過度な緊張を弛緩と釣り合わせて生きていかなければ、精神は疲労の一途をたどるだろう。


彼らは、人に気を遣わずに生きれる人間を、蔑みながらも羨んでいる。なんの摩擦もなく自分の言いたいことを言って、小心翼々としない人間に自由を感ずる。しかし、私は思う。繊細でしおらしく、卑屈で自罰的な彼らにしか見えない、人の精神の機微は、人に寄り添うことのできる力を秘めている。

空とスカイツリー


結論から先に言ってしまえばスカイツリーには登れなかった。金銭的な理由もさることながら、そもそもスカイツリーに登るには予約が必要らしかった。そしてその予約は半年先まで埋まっているとかいないとか、そこらへんはもう皆目さだかではない。


私には数少ない友人がいて、彼らの大半とは中高一貫の男子校(今後は一貫して「プリズン」と表記する)で知り合った。スカイツリーに登ろうと発起した発端は、私がプリズン卒業後(プリズン・ブレイク)から定期的に主宰している「イングロリアス会議」という超俗的会合においてであった。


その会議の全貌について語るのは、またいつかの機会(おそらく無い)に譲るとして、そこに出席している友人が「空(そら/sky)」という異名(本名)を持つ人間だったから、私と彼と、もう一人の友人のJINとで今流行のスカイツリーに登ろうという運びになった。


私達の無計画さと他者へのフリーライド力は常軌を逸しており、結局当日現地に着いてから、おやおやどうやらこれはスカイツリーには登れないらしいぞ、と互いに怪訝な表情で相槌を打つ体たらくであった。


JINは大学の都合上、遅れての合流となったが、私と空は先にスカイツリーを取り囲む「ソラマチ」という、ショッピングストアやらレストランが立ち並ぶ商業施設を徘徊しており、その帰結として7階にあった「世界のビール博物館」に入り浸った。


「(「世界のビール博物館」ホームページより抜粋)ドイツ、ベルギー、イギリス、アメリカ、チェコ共和国といったビール大国の樽生ビールをはじめ、世界を代表するビールが一同に集まった、まさにビールのパラダイス」に16:00頃から入り浸った。流石自らパラダイスであることを喧伝するだけあって、そこには享楽的空間が広がっていた。


しばらくしてからJINが加入し、「ドイツのヴァイスビアはヴァナナの味がする」、「ところで煙草は吸えないの?」、「そういえばスカイツリー登れないらしい」、「らしいね」などとうそぶきながら、喧々諤々の鼎談に花を咲かせたり散らせたりした。


数時間入り浸ったのちに、お会計のお時間となったが、私は例によって例のごとくお金を有していなかった。そこで、最近では定例化しつつある空の財布(名前は空/skyだが財布は空/emptyではない)にフリーライドする運びとなった。空は私に「お前、人としてクズだな」と心で詠唱したのちに声に出してから、諭吉を召喚した。


そして、私は酔っていたからなのか、事の詳細は皆目覚えていないのだが、空の諭吉召喚後に店を出る際、彼に「ござーすっ!(ゴチになります)」と謝礼を述べたのちに、顔面におもっきしのビンタを喰らわせていた。


さて、読者諸賢。よく聞きなさい。確かに私の行動は理解しがたく許しがたい、人道に反する比類なき愚行である。お金を出させた相手に直後不意打ちのビンタを喰らわすとは何事だと、そう感ずるのが人間というものである。しかし、である。しかし。そののちに彼が私に返したビンタは、人智を超える痛さだった。


ビンタとは、普通、手のひらの指先部分に重点を置いてたたかれるもののはずだが、彼のビンタはどちらかといえばカンフーにおける手刀に近く、というか手刀だった。反対側の顎の付け根が「ガゴッ!」と鈍く鳴った。ここで読者諸賢は思うかもしれない。それは当然の報いだと。しかし、私の愚行を織り込んだとしても、私は私自身の内から込み上げてくる彼に対する憤怒もとい殺意を抑えることはできなかった。


「オラァッ!!」


私は再度、空の右頬をおもいっきし叩いた。しかし効果はいまひとつのようだ。


「おい!こいよ、ホラ!こいよ!」


私はそう言って自分の右頬を空に差し出した。


「ガゴッ!」


私は、右頬を殴られたのにどうして左顎の付け根に激痛が走るのか不思議だった。


「もう、やめよう」(ドヤ顔接近)


そこでビンタの応酬は終わったが、そこから絶妙にピリピリした空気が私達を席巻した。そして徘徊に徘徊を重ね、夕飯時になったが、どの店舗も長蛇の列であったため、私達は料理を諦め、アイスを食べようということになった。そこで向かったのがセルフアイスクリーム屋「Lemson’s(レムソンズ)」である。


多種多様なアイスクリームとトッピングがサーティーワン的な配置で用意されており、100グラムあたり360円という料金設定のもと、自由にアイスをクリエイトできる仕組みだった。それは私達の少年心をくすぐった。エントランス付近にいた女店員のポップな笑顔にもいざなわれ、私達はヒョコヒョコと列をなしてその門をくぐった。その瞬間、先程までのピリピリした空気がポップ化し、霧消したように思われた。


私達はそれぞれ思い思いのアイスクリームを作り上げ、「こういうの見ると全部入れたくなるよねーウェーイ!」、「グアバいいねーグアバー!」、「スイカ、メロン、ライチ、グアバ、ドンッ!」なぞと盛り上がりながら、近年まれに見るポップ感を身にまとっていた。そして、完成したアイスクリームをそれぞれレジの計量器に持っていった。



「2200円、1600円、1500円でーす!」



虚無「こんにちは〜」



ちなみに、空が一番高いアイスクリームを、一番嗚咽まじりに食していた。途中から各々が砂を食べている感覚に陥ってから、その日一日を概観する物思いにふけった後、それぞれの帰路についた。総括すると、疲れた。

キオスクの乙女

最寄り駅のキオスクに小動物系の、どの動物かと言えばリスっぽい乙女(以下、リス子さんと記す)がいるのだが、そのリス子さん、リスっぽくて可愛らしいというのは勿論のこと、接客のサービス精神が逸しているのである、常軌を。


キオスクに来店するお客に対して癒しの笑顔を惜し気なく振り撒きながら、プリンのような物腰の柔らかさから「今日も一日頑張ってください(おんぷ)」と非言語メッセージを伝えてくる(私の恣意的解釈であるが、そういう陰翳があるのである)かのリス子さんは、陰りある接客業界をそのリス子スマイルで照らし、領導する存在であることはまず間違いない。


そこで私はある時、自身のカッサカサの唇を癒す為にリップクリームを買いに行った。「すみません、リップクリームありますか?」という私の問いに、彼女は刹那思案し、「ちょっと待っててくださいね」と言ったあと、遠くに吊るされていたリップクリーム全種をわざわざレジまで持ってきて、「これしかないんですけど、どれがいいですか?」と、笑顔で魅惑的な前歯を見せながら私に伝えた。リス子さんは私の唇を癒す前に既に心を癒していたのである。


私は、その一件を境に、「リス子さんの接客の素晴らしさ」を本人に伝えなければならないという使命感に燃えた。その純然たる使命感の中に、「ぶっちゃけリス子さんとお近づきになりたい」というよこしまな情念が混入していたかと問われれば、それは否定できないし、むしろ渾身かつ全速の首肯を見せざるを得ない。



「あの、これナンパとかじゃないんですけど、めっちゃ可愛いっす!」



私は意を決して、リス子さんにそう伝えた。前置きとして「あの、これナンパとかじゃないんですけど」と述べることによって、チャラさを抑制する作用をもたらした私の言霊は、リス子さんに純然と伝わり、「えっ〜?!そんなことないですよー!」という彼女のリアクトをもって、私たちの微笑ましいコミュニケーションは幕を開けた。


無論、その後に彼女の接客の素晴らしさも重ねて伝えることは怠らなかった。私は色香に惑わされて、事の本義を忘却するほど愚かなチャラチャラパァな人間では無い。「あの、連絡先とか交換できませんか?」と放言したあたりから理性は飛んでいたが、リス子さんはどうやら彼氏がいるらしかった。私は続けて「そういうの僕は全然大丈夫です!」と、なんのこっちゃなトンチンカンなことを言いながら結局、一方的に自分のメルアドだけをリス子さんに託した。


さて、上記では私ががっついている様を意図的に強調して描写してきたが、実際は良い感じであったのである。俺とリス子良い感じ、だったのである。客観的に見ても空気的には「わかりました!じゃあメールしますね(おんぷ)」ぐらいのフランクさがあった。しかし、私の携帯は未だに彼女のメールを受信しない。「なんぞこれ」私はつぶやいた。


結局なにが言いたかったのかというと、彼女、リス子さんの接客態度は、一人ひとりのお客を機械的に見るマニュアル的なものではなく、真に「一人ひとりのお客」として見て接していたということである。その接客態度が神がかっているがゆえに、一人の青年は、「この人、もしかして僕のことラブ?」と微笑ましい勘違いをしてしまったという、切なくも滑稽な小噺である。

ファルス的大学回想録(2)

かくかくしかじかで私が天啓を授かったところまで話したが、私はその使命を悟った感動のあまり、「この感動を可及的速やかにみんなに伝えたい」というある種の派生した使命感を重ねて宿した。


抽象的な言い回しになるが、その時の私の認識として、自己と他者(みんな)の距離感は完全に一致していた。自己は他者であり、他者は自己であった。私は、私が知覚した天啓とそれに伴う感動の質感を言葉で伝えれば、他者もそれを同様に感ずると思っていたのである。人はこれを狂気と呼ぶ。


しかし、それが狂気だろうがなんだろうが、私はそのお陰でなんびとも抑制することができないほどのハイテンションを手に入れていた。水野敬也氏の共著『ウケる技術』によれば、ハイテンションであること、氏の言うところの「ガイジン化」は、人を笑わせる為の原初的な戦略の一つなのである。私はそれを狂気によって既に獲得していた。マイ・ステージは既に整っていた。


更にそれに拍車をかけたのが、中高一貫の男子校という名のプリズンには存在しなかった、大学という名のエデンで戯れる女性の存在であった。私は、普通に(厳密には普通ではないが)女性と喋っている自分を、マイ俯瞰カメラで見ながら、「あれ?俺普通にしゃべっとるぞ、しかも笑わせとるぞ!」と全面的にキャッキャした。


私は原則的に女性としかしゃべらなかった。ウェルカムパーティーの時も14名とメルアドを交換したが、うち13名は女性だった。また、入学式前に必要教材を貰いに大学へ行った際には、一人で物憂げそうにしている乙女達に発作的に話しかけ続け、「あっちの食堂に女の子(ウェルパで知り合った方々である)いっぱい居るから来ない?」などと言って、雪だるま式にマイ・ハーレム環境は広がってゆく様相を呈していた。


そしてある時、その食堂に、魅惑的な八重歯を見せながら微笑む乙女が私の目に入った。その乙女は友達と昼食をとっているようだったが、私は彼女の隣の席にささっと座るや否や、「はじめまして、学部どこですか?えっ、文学部?オレ法学部ー!」なぞと喋り出した。


その会話のさわりを聞いただけでは、そこらへんに生息する凡百のチャラ男と遜色無いかもしれないが、冒頭でも述べたように、私は、己の使命を語る者であった。初対面だろうがなんだろうが、いかなる状況に置かれてもまず真っ先に己の使命を起承転結で語る者であった。私が女性に率先してしゃべりにゆくのは、チャラいからとかいう皮相な動機なぞではなく、使命をその内に宿していたからである。


八重歯の乙女は怪訝そうに笑いながら、私のメルアド交換の申し出に対して「でも彼氏いるから…」と、拒否の意思表示を見せようとした刹那、



「俺とその彼氏、どっちがカッコイイ?」(ドヤ顔スマイル)



私は即レスのカウンターでそう切り返していた。信じられないけれど、気付いたらそう切り返していた。狂気だったからという予防線では回収しきれないほどの過ちを、私は犯していたかも知れない、という自己内省はそこらへんにポイするとしても、彼女は「いや…、私は彼氏のがカッコイイと思う」と穏便にも真っ当な返答をし、私たちはフォーエバー的に別れた。彼女はのちに、2008年度の準ミス慶應に選ばれることになる可憐な乙女であった。


そして、またある時、食堂で乙女四人が昼食をとっていたのだが、その内の一人に、ウェルパで知り合った乙女がいた。彼女達は一様に携帯画面を見ながら会話をしていなかった。今思えば、みんなで写真を見たり、mixi見てたりしてんだろうなと容易に察しがつくかもしれないが、当時の私には、その光景が「何をしゃべればいいか分からなくて気まずい空間」に見えた。


「じゃあ、誰が盛り上げるの?」内なる声が私にささやく。「誰が、あの空間を笑いで盛り上げることができるんだろう?」その声は続けてそう反響する。「あの空間を、盛り上げなければならない人間が、いるんじゃない?それは誰?」



「俺でしょう!!!」



私はその空間を破壊し、ウェルパで知り合った乙女にダル絡みをした後に、残りの三名の乙女の怪訝を飛び越えた引きの目線に撃ち抜かれても屈せず(ここが重要である)、最終的にその乙女のマイミクから外されるという言外のメッセージをいただいて落ち着いた。


とにかく、当時の私は、自分の内に宿った使命の生命力に包み込まれていた。その生命力が躍動し暴走した結果、人様に迷惑をかける始末になってしまったかもしれないが、あの時の私の快活で自由なコミュニケーションは、確固たる信念を後ろ盾に、羞恥も恐怖も不安も全て取っ払っていた。そこに今、少なからずの羨望を見る。