道化が見た世界

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ゼミ対抗ソフトボール大会

スポーツの効用の一つは、日常生活では噴出することが困難な、他者へ対する剥き出しの攻撃性・敵愾性を放出できることである。その空間的構造は、仲間―敵の対立項、勝敗の明確的区分によって端的に表されている。故に、サッカーワールドカップ等の国際的な試合が、国と国との代理戦争のように見えるのも必然である。


さて、先日に敢行されたゼミ対抗のソフトボール大会も、無論その例にもれず、私にとっては代理戦争に違いなかった。では一体何の代理か?モチロン、俗物社会に決まっている。ならば、その俗物社会とは何か?ありていに言えば、リア充共がはびこっちゃってる社会である。告白するのが若干遅れたが、私は世に言うリア充な人間(特に同性)があまり好きではない。むしろ嫌いである。


私は、グローブやキャッチャー防具等が入った規格外のデカさの荷物を背負いながら、下丸子駅にスウェット姿で舞い降りた。そこには、待ち合わせをしている複数のゼミがあり、その(俗物臭のする)光景を目の当たりにした瞬間



絶対に負けたくない



と、私の心の奥底に堆積していた、鬱屈した負のエネルギーが指数的速度で燃え始めた。その感情は、すぐさま昇華し、



絶対に負けてはならない



という使命感、私が存在する上で全うせなばならないノブレス・オブリージュ(高貴なる者の責務)へと変容を遂げた。そして、そう思うことで、私服を着ている彼らの目に映った、私の本気感漂わせるスウェットの、場違い的滑稽さをまぎらわせた。


去年に比べ、私には自信があった。何故なら、ポテンシャラブルな後輩達が続々と私の所属するゼミの門を叩いてくれたからである。門番である私は、低姿勢ですぐさま栄光のレッドカーペットを敷き、おのおのに「このカーペットはアルコール消毒済みです」と言って回った。


二試合全勝しなければ、決勝リーグには進出できない。この厳しい現実を前に(現実は常に厳しいが)、私は、私自身のノブレス・オブリージュと、同期2人(イケメン&ホムラ)、そしてポテンシャラブルな後輩達と共に立ち向かったのだった。


結論から述べると、我々は近年まれに見る、グロリアス勝利をおさめたのである。しかし、残念なことに当の私はそこまで活躍することができなかった。「そこまで」というより、「ほとんど」、いや、「居ても居なくてもそんな変わらん」ぐらい活躍していなかったかもしれない。だが、「声」だけは一番出ていたと自負している。人はその声を「聖なるボイス(the holy voice)」として崇めたてまつる予定である。


我々は、決勝リーグに駒を進める。負けることは、高貴なる者の責務として、許されない。そして我々は、慶應ゼミ対抗ソフトボール大会の歴史に、一等の光を放ち、未来永劫、輝き続けるSHGV(Side Handers' Glorious Victory)の勇名を、刻み込むことになるだろう。


では、そろそろ素振りの時間なので筆を置く。
(金属バットに持ち替えながら)