道化が見た世界

エンタメ・エッセイ・考察・思想

生きることは本質的に無意味であり無価値である。

私の死生観は、生きること、今私がこの世に存在していることは、徹頭徹尾、無意味であり、かつ無価値であるという一種虚無的な認識に依拠している。また、この認識を個から全体へ敷衍させて、森羅万象もみな総じて無意味かつ無価値であると私は考えている。


私の死生観に大きく影響を与えた人物は、「人生を<半分>降りる」「不幸論」などの著作で知られる中島義道と、史的唯幻論という独自の理論で近代日本を考察する精神分析学者の岸田秀、両名である。


そもそも、我々には絶対的価値など付与されていない。我々に価値があるとするならば、それは一体何者から付与されたものなのか。この世に神なる絶対者が確かに存在し、彼がその役割を担っているなら話は別だが、それはただの空想・幻想に過ぎない。


アリストテレスは、人間はポリス的な生き物であると言ったが、人間は社会という他者との相対的な関係の中でのみ、自分の存在に意味付けすることができるのである。


だから、世間一般でいう生きる価値というのは、<社会的>な生きる価値・意味のことであると換言可能である。ここをごっちゃにしている人間が多々いる。自我が他者との関係の中でしか育まれないのと同様に、いや、だからこそ、その人間の価値も意味も相対的であり、不安定であり、流動的である。


結局私が言いたいことは、人間に<社会的>価値を付与することは可能であるが、そもそもの価値、絶対的な価値・意味は何処にも存在していないということである。故に、我々という存在は突き詰めてゆけば、無意味かつ無価値である。