道化が見た世界

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解き放て自分

 そこにモチベーション、原動力があるにも関わらず、それを上手く行動として具現できない諸要因は、様々にある。私はそれを、行動に具現できない自己であるからこそ、綿密に省察してきたと自負している。最も、こんなことを自負していても皆目意味は無い。


 思うに、その諸要因とは、怠惰・恐怖心・羞恥心である。私がこの諸要因の中で最も悪質であると考えるのは羞恥心である。では、そもそも羞恥心とは何だろうか。その答えは単純明快で、自己が内在する原動力によって踏み出す原初の一歩が、他者によって嘲笑、侮蔑、罵倒の俎上にあげられることへの羞恥であり、恐怖である。前述で羞恥と恐怖を分けたが、もうこの際一緒にしちゃおう。


 私が言いたいことは、その原初の一歩を阻む、他者の目線である。世間体とかそういう言葉に換言ができるかもしれない。この他者の視線というのは、私たちの中に内面化されて存在している。別に特定の他者が私たちのことを監視している訳ではないが、私たちは無意識的に、その他者の目線を自己の内にみる。内面化とは、つまりそういうことである。


 更に、特定の共同体に所属する私たちは、意図せずも、その共同体の中に共有されている矮小な価値観に従って生きている。共同体が付与する私たちのイメージに、他者が創出する私たちのイメージに呪縛される。「お前、そんなキャラじゃないっしょ」という言葉が端的に言い表している様に、他者の目線によって、それが多数であればあるほど、正しいか否かの価値判断を介在せず、自己は規定される。有象無象の狭窄な視点によって。


 たとえば、自分の家族に規定される自己、中学の学友に規定される自己、その自己像が、自分の思い描く理想の像でなければないほどに、私たちの孤独感・疎外感は増してゆく。


 仮に私が自分のことをイケメンだと思っている、ナルシシズムを体現した学生だと想定してみよう。私のその自己像は、無論、自分の家族には承認されず、中学の学友にも承認されないだろう。ここで私は挫折するが、何故挫折するのかと言えば、自己がイケメンであるという認識は、前提的に他者の承認を要請するからである。自己完結的なイケメンがこの世に存在するとすれば、彼はとてもおめでたい人である。ある意味ではうらやましい。


 話が逸れたが、私が言いたいことは、矮小な共同体が創出し規定する貴方の像に、貴方が追従する必要は皆目ないということである。貴方は放浪すべきである。貴方が想起する理想像を、理解してくれる他者と出会うまで放浪するべきである。世界は広い。矮小な共同体が規定するちっちぇえ価値観に拘泥し、挫折することはない。そして、その羞恥・恐怖を払拭する為のほんの少しの勇気を手に入れねばなるまい。原初の一歩を踏み出さねばなるまい。


 その高尚なイメージが他者と結実した時に、初めて、貴方は自己の可能性を、真の自己を、まのあたりにするだろう。故に、解き放て自分!