道化が見た世界

エンタメ・エッセイ・考察・思想

【復刻版】カルカッタ・ラプソディ(7)

CISから家に帰ってすることと言えば、遊戯王かゲームかバスケか卓球かの、四者択一だった。


この『カルカッタ・ラプソディ 7』の構想を練っている時、私は冒頭の文句を「暇だった。」で始めようと決めていた。他者とのコミュニケーションもままならない閉塞された環境にいれば、暇になるのは当然の帰結だからである。しかし、いざ書いてみると、果たしてそんなに暇だったのか、といった純粋な疑問が浮かび上がってきた。


当時のことを少し思い出し始めたところで、先に述べたように既に4つもの事柄を想起することができた。そして、その事実に私は今愕然としている。何故なら、今の私の方が断然ヒマを持て余しているからである。ミステリー極まりなし。


ミステリーはミステリーのまま触れないでおくことにして、先述した4つの遊びのうちの1つ、「遊戯王カードゲーム」は私達兄弟の間では、聖なる遊びとして神格化され、親しまれていた。遊戯王は、私達が最も時間を費やして遊んだ娯楽であり、それが無ければヒマヒマ・テリトリーの害悪に心身を蝕まれていた可能性も否定できない。簡単に言うと、暇すぎて死んでいたということになる。


日本から祖父母がインドに訪れる事になった時は、決まって遊戯王のカードを箱買い(5枚1パックで150円、箱は30パック入り)してきてもらったり、夏休みなどでシンガポールやタイに遊びに行った時には、必ずカード屋を訪れてレアカードを購入したりした。


特に祖父母が日本からインドに訪れた時は、本当に待ち遠しく、幸せな気持ちに包まれていたことを、今でもしっかりと思い出すことができる。幸せすぎて周りのインド人がみな可哀想に思えてくるぐらいだった。


その名残もあり、私は大学生になった今も遊戯王をこよなく愛し、いつでもデュエル(相手と戦うこと)ができるようにカードをバッグの中に忍ばせている。因みに、遊戯王の対象年齢は小学校高学年から中学校までの心清き少年達に限られる。そんなことはない、と私は思っている。


もう一つの娯楽にゲームを挙げたが、私は当時「ファイナル・ファンタジー5」というあの有名なRPGゲームにハマっていた。


その日は、なかなか倒せないボスに悪戦苦闘している最中で(既に3回はゲームオーバーになっていた)、私はテレビ画面に見入りながらコマンドをピコピコと軽快に押していた。


そしてその時、たまたま、あのサンカックが部屋の掃除をしていたのだ。彼は機敏に箒を動かし、熱心に掃除をしてくれていたのだが、いかんせん、彼の掃除する場所がゲーム機のコンセントの差し込み口に近かった。


私は、彼に目をやりつつ、流石にそんなことは起きないだろう漫画じゃないんだしと高を括り、憎きボスに渾身のサンダガ(雷魔法)を喰らわせた。ボスは少し震えた後、画面から消失した。ついに我の勝利である。それに合わせて私がガッツポーズをしようとした瞬間だった。


「プウィン」と怪奇な音を立てたテレビは、忽然と黒くなった。真黒になったテレビには、目が見開き口がポカンとなっている私の顔が映っていた。これは果たして私なのだろうか、と判別しかねるくらいの弛緩した顔だった。周りを見渡すと、案の定コンセントが抜けていた。


私は声にならない声を出し、憎きサンカックを睨み付けた。それを察したサンカックは、私に視線を返してきたが、彼は何故か申し訳なさそうな顔をしてはおらず、「消しましたが何か?」といった表情を浮かべていた。


私は不可解だと思い何度もまばたきをしたが、彼のその表情に変化はおとずれなかった。私は彼のせいで、危うくインド人という人種及びインド全域を、総じて嫌いになるところだった。


そうして、再びゲームの電源を入れた私は、その強靭で手強いボスに、かのサンカックを投影し、彼の生命の消失を図ったのだった。


「その怒りだ・・・。その怒りが、やがてお前を強くする」隣に座っていた豪鬼が、眼光を光らせ私に呟いた。

(続)