道化が見た世界

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塾講師バイトの早慶戦

どの組織内にも自分と合わない上司や先輩が少なくとも一人は存在することは、この世に取り巻く、ある種の宿命的あるあるであるかのように思われる。

齢三十にして未だ社会に出ていない僕は必然的に、これまでしてきたバイト先からその小経験を引き出さざるを得ないが、嗚呼、これか、確かにあったなという体験が一つあった。

 

当時の僕は慶應義塾大学(あえてフルネームで表記する筆者の内に蠢くエゴを各自勝手に解釈していただきたい)に入学したての大学一年生で、初めてするバイトに塾講師を選んだ。

そもそもバイト経験がゼロな僕は、まがいなりにもそこが初めて経験する社会の入り口であり、緊張もひとしお、さらに性格がシャイなのでベースが緊張、そしてあるかないか分からないながらも輝かしい将来に向かって希望をたたえている生徒達の今後をある程度背負っているという責任感からくる緊張、とにかく僕はバイト初手から自身に襲いかかってくる重層的な緊張に切羽詰まっていた。

 

バイトの採用が決まってから実際に生徒の前に立って勉強を教える前に、配属された校舎にいる先生達の前で模擬授業をするという流れがあった。そこでは実際に本職として塾講師をされている先生と、僕と同様に大学生のアルバイトの先生が複数名いた。

慶應なんだ〜!僕は早稲田だからライバルだね!」

そう言って気さくに笑いながら、僕に話しかけてくれた早稲田大学の先輩が一人いた。僕より一つか二つ学年が上で、見るからに人の良さそうな、周囲の大人の先生達とも打ち解けて会話のできる、柔和な人だった。これから先生達みんなの前で模擬授業をしなければならない僕の緊張が少しほぐれた気がした。

 

僕はホワイトボードを背に教壇に立ち、あらかじめ前日に用意していた授業の段取りを記したプリントを見ながら、慣れないながらも授業を進めていった。授業を見ている先生達は生徒役として、こちらが名指しして問題を解いてもらったり、そこらへんは各自アドリブで、こちらの授業進行を邪魔しない程度に行われた。その中で、問題児の生徒役を自ら率先してこなしていたのが早稲田の先輩だった。

 

無論、自ら率先してこなしていたので誰から頼まれた訳では決してない。完全なるアドリブである。早稲田の先輩は問題児なので僕がホワイトボードに英語の文章を書いている時に急に

 

 

 

「先生!字が小さすぎて見えない〜!」

 

 

 

なぞと大声で言ったりする。問題児だから。その演技を見てそれぞれの先生達が笑い、クラス内は一見和やかな雰囲気をかもし出す。僕はその刹那にひるみながらも「ごめんね〜」なぞとあくまで教師であり続けなければならない己を見つめ、力無い言葉を返し、ホワイトボードに一度書いた、決して小さくはない普通の大きさの文字を消して更に大きめに書き直し、再び授業を続行する。するとまたふとした時に

 

 

 

「先生!緊張してるの?声が小さい〜!」

 

 

 

と早稲田の先輩が小気味よいタイミングで言葉を掛けてくる。問題児だから。こちらの授業進行を邪魔しようがしまいが関係がない。問題児だから。僕は再び「ごめんね〜!大きくしゃべるね!」なぞと、決して小さくない声の大きさから、更に大きく声を張って返答する。しようがないことだ。彼はそういう役割を、誰から言われた訳でもなく率先してただ全うしているだけなのだから、善意で。そして、僕の授業も佳境を迎え、ようやく最終的な総括の部分に入りホッと一息つこうとするや否や、

 

 

 

「先生〜!おしっこ漏れそう!!」

 

 

 

 

なんやねんコイツ

 

 

 

いや、

 

 

 

なんやねんコイツ

 

 

 

一気に溢れ出しそうになった憤怒を一旦全て飲み込んだ僕は、弛緩しきった表情筋と共に虚ろな笑みでそれに返した。僕の模擬授業は終わった。そして、僕の模擬授業が終わると、それを見ていた先生達から、ここが良かった、あるいは、ここは改善すべきなどといったフィードバックをもらう時間が設けられた。僕は順々に先生達のご意見を聞こうと耳を傾けようとしたその瞬間、

 

 

 

「、え?メモ帳出して?」(笑顔)

 

 

 

「もしかして、無い?」(笑顔)

 

 

 

、えっ?コワッ。

 

 

 

さっきまで問題児の生徒役を躍起になって演じていた早稲田の先輩が、今度は急に素に戻って笑顔でメモ帳マウンティングをしてくるその豹変ぶりに僕は心の底から、えっ?コワッ。となった。そもそも僕と同じ身分の、年上とはいえ、一アルバイトである大学生がふりかぶって大上段から指摘してくるその高圧的な態度、百歩譲って本職の先生達からそう指摘されるのであればまだ理解が及ぶが、それにしたって「メモ帳持ってる?メモった方がいいよ。」とニュートラルな感情で伝えれば事済むこと、初めてのバイトにおける初めての状況でメモ帳をその胸ポケットに既に携えている可能性はほぼゼロに近く無理ゲー極まりないジ・エンドであった。

 

完膚無きまでの敗北で早慶戦のデビュー戦を飾った僕は、それ以降、早稲田の先輩と再びその火花を散らす機会はほぼなくなった。そもそも相手は生徒の子供達なので、先輩と同じ空間にいることもほとんどなく、校舎内でたまにすれ違う事はあれど、あそこまで濃厚な接触をすることは皆目なくなった。安堵した気持ちと、いくばくか煮え切らない気持ちとが半々あった。

 

そんな折、一つのイベントとしてなのか、アルバイトの僕達を含む配属先の先生達を対象にした筆記テストが行われ、その点数が講師室に張り出されるというある種の行事めいたものがあった。その月は英語のテストが行われ、後日その結果が講師室に張り出された。僕の点数は89点ほどで、割と上位にランクインしていたのでホッとした。そしてそのランキングを下になぞって目線を下ろした時、僕はハッとした。

 

早稲田先輩 43点

 

 

 

 

、えっ?ヨワッ。