道化が見た世界

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「ストレスを溜め込ませて爆発させてしまう」人達へ。

一個人に対して、「ストレスを溜め込んで爆発してしまう人」という表現の仕方に、私は遥かいにしえの昔から、いくばくかの違和感と義憤を抱き続けてきた。この機会にそれらを紐解いてゆきたい。

 

まず、「ストレスを溜め込んで爆発してしまう人」は、一体どのような存在であるか。その個人は、他者との関係性において生じた摩擦、不快感や違和感を、他者に嫌われたくない、不快に思われたくない、怒られたくない、傷付けたくない、などの諸理由から表明できず、それらを数多の状況で抑圧してしまい、それらが自己の内に蓄積していった結果に、とあるキッカケで、傍目からしたら常軌を逸した感情の発露(号泣、激昂、拒絶など)をしてしまう人間であろう。

 

そして私は、かかる気質を有した人間を、繊細で、気遣いができ、慎ましく、他者を慮ることのできる善良な人間だと考えている。しかし、そんな彼らを「ストレスを溜め込んで爆発してしまう」人といった、さもそれが、治すべき気質的欠陥であるかのような恣意的な言い回しに、許されざるべき傲慢さと愚鈍さを見、そしてその態度が私の義憤を呼び覚ます。

 

それは、まるで爆発してしまった個人が加害者であり、その爆発を被った人間、つまり己が被害者であるという関係性を示唆している。そういった被害者意識を持つ個人が、爆発してしまった個人にかける言葉は決まって、「溜め込まない方がいいよ」、「言ってくれないと分からないよ」、「もっと早く言ってくれれば良かったのに」といった、おしなべて自分は一つ上に立っているかのような、アドバイスめいた傲慢なものになる。

 

彼らの視点の中に決定的に欠けているものは何か。それは、自分が無自覚的に他者にストレスを与えてしまっているかもしれないという可能性への自覚、加害者意識、それを積み重ねることによって、他者に耐え難いストレスを断続的に与えることになる自覚である。そして、その視点を持っていないがゆえに、その結果たとえ他者がストレスを爆発させるという可視化された状況になったとしても、それを自分の過失だとは露とも思わず、自身の鈍感さも傲慢さをも棚に上げ、己を被害者・健常者に、爆発した他者を加害者・異常者に当てはめて、彼らをはた迷惑な存在として見下し、あるいはそしらぬ顔で助言めいたおめでたい言辞を弄してくるのである。

 

そんな言葉を掛けられた個人は、一体どの様な気持ちになるであろう。爆発してしまった自分が一方的に間違っていたのではないかという罪悪感を抱き、今後この様なことがないように、キチンと嫌なら嫌だと自分の気持ちを伝えようとするであろう(そもそも、嫌なら嫌だと自分の気持ちを伝えた結果に、その意見を真摯に受け止める器量が受け取り側にあるかどうかも疑わしいし、その器量の小ささを先刻承知していたが故に伝えることができずに溜め込んでしまった可能性すらあろう)。ここでも、彼らにストレスを溜め込ませた加害者側の傲慢さや鈍感さは棚上げされる。

 

単純に考えて、これは突き詰めてゆけば、加害者が自身の過失を棚上げし、被害者側の過失を強調する構図となんら変わりがない(例えば、痴漢をはたらいた加害者が、被害者の女性に対し、彼女がミニスカートを履いて己の劣情をいたずらに喚起させたせいであると糾弾する構図)。さらに言えば、例えばコミュニケーションにおいて、自分の声が聞こえなかった時に聞き手が「はい?」と聞き直してきたとする。この時、自分の声が小さ過ぎて聞き手に聞こえなかったのか、あるいは、聞き手の耳が悪過ぎて自分の声が聞こえなかったのか、その責任の所在は、どう高く見積もってもフィフティーフィフティーたらざるを得ない。一方の責任が100で、他方の責任が0であると言ったことまず起こり得ない。たとえ蚊の鳴く消え入りそうな声でしゃべりかけていようが耳かっぽじってよく聞けよと思うのは自由だし、ひるがえって、たとえ爆音で音楽を聴いていようが全然聞こえねえよもっと大きな声でしゃべれと思うのも自由である。ストレスを溜め込ませた側の人間が、ストレスを溜め込んで爆発してしまった人間に言う傲慢なアドバイスめいた言葉は、ちょうど発話者の聞き取れなかった言葉に対して、自分の聴力を棚上げして「何言ってるか分かんないからもっとハッキリしゃべれ!」と強要することに等しい。

 

つまり、「ストレスを溜め込んで爆発してしまう人」を問題視するのであれば、それと同等に、「ストレスを溜め込ませて爆発させてしまう人」も問題視しなければフェアでない。後者の存在なくして前者の存在はない。

 

そして、ストレスを溜め込んで爆発してしまった人にかけられる言葉は、アドバイスめいた傲慢な言葉などではなく、「気付いてあげられなくてゴメン」の一言しかない。

 

本当にその個人のことを思っているなら、その個人にとって信頼に値する人間に自分がなりたいのであれば、どうして彼/彼女が爆発するに至ったのか、その原因と、その価値観と真摯に向き合って対話する他あるまい。