道化が見た世界

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空気が読める、気を遣える能力について

実家のすぐ近くに信号が無い短めの横断歩道があるんですが、そこを交通する車は毎回ほぼほぼ決まって歩行者を待たないんですね。信号の無い横断歩道って、歩行者がそこを渡ろうとしていた場合、交通法的にも歩行者を優先して車側が一時停止しなければならない訳ですよ。

 

僕はこのことに関して結構前から義憤を感じていて、まあ、僕がこう、渡ろうとするわけじゃないですか、でも全然車側は我関せずでスピードも落とさずで、何台も通過していって、なかなか向こう側に渡ることが出来ない。けど、僕がこのまま渡って車と激突しても死んじゃうし、結果待たざるを得ないんですが、なんで僕が本来すべき行動をとっていない車側の主張(歩行者をガン無視して通過)を受容して、気を遣って、空気を読まなければならないのかという根源的な葛藤と怒りがそこにはあるのです。

 

そこでふと思ったのは、空気が読める能力、あるいは気を遣える能力というのは果たして、能動的で主体的で優位な能力なのかということなのです。

これまでの人生で僕は空気が読める能力、あるいは人を気遣える能力を獲得すべき優位な能力だと思っているふしがありました。場を俯瞰的に見て他者の状況を把握すること、メタ認知すること、客観性の鬼となること、その結果としてその場に調和を提供すること、そこに対して一定の矜持を持って生きてきました。

社会的にも、空気が読めない人間はKY(死語?)などと揶揄され、ネガティブに解釈されるのが当たり前で、コミュニケーションにおいて場の空気を読む能力が重要視されることは今でも変わってはいないでしょう。

 

しかし、僕が最近になって思ったのは、空気を読む能力とは実は受動的であり消極的であり、“弱者が必要とする”能力なのではないかということです。

僕が自身の視野の客観性、俯瞰性に並々ならぬプライドを持っていたが故に靄がかって見えていなかったことでもあるんですが、シンプルに考えて、空気を読むということは既存の空気にハナから屈服しています。屈服しているから一時的にも継続的にも従う(読む)必要があるのです。

そして、そもそも何故、その場の空気を大前提的に尊重して読む必要があるのかというところから考えなければなりません。そこに自分よりも身分の高い上司がいたり、あるいは自分以外の大多数の人間の総意という数の力もあると思いますが、そういった、自分より上位のもの、優位のものが作り出す不文律こそが空気の正体であり、そしてそれは明々白々、力が作り出したものに他なりません。

 

空気が読める、人に気を遣える人間が優位に立ち、強者なわけではないのです。真の強者とは、そこに存在するだけで人に空気を読ませ、気を遣わせる人間なのです。僕たち弱者は真の強者(それは個人でも、複数人でもあり得ます)からパージされないように、やむなく、空気を読む能力を習得しなければならない状況に追いやられているのです。

 

冒頭で述べた横断歩道の例に当てはめると、歩行者である僕が弱者であり、車が強者と言えるでしょう。一見、法という強い武器を持っているようで、シンプルにフィジカルという部分において敗北しているので、僕は泣く泣く空気を読んで、本来であれば渡れる道も渡らず、彼らが過ぎ行くのを待つほかないのです。もし僕が走行中の車をも跳ね返す全身アダマンチウム合金の人間であったのなら、ひるまずに横断歩道を突き進むでしょうし、僕を眼前にした車はおそらく一時停止しているでしょう。何故なら僕がフィジカルという点において強者だからであり、車側に気を遣わせ、空気を読ませているからです。

 

人が言う、「空気読めよ」という発言は端的に強者を表す発言で、あるいは自分が強者だと勘違いしている人間の発言で、後者の可能性がある場合には非常に楽しいコミュニケーションになるはずです。それはつまり、「そもそもその空気は読む価値があるものなのか」という純然たる疑問が口をついて出てくるからで、革命家たる人物は、全ての空気に対しそれを行い、空気の全てを破壊し、そののちに創造するでしょう。