道化が見た世界

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サブキャラ的自意識(1)

サブキャラという概念は僕が大学時代から用いていたもので、その概念の説明は6年前に「サブキャラとは何か」という記事で書いているので是非参照していただきたい。

 

当時の記事で僕はサブキャラという存在を他者に見出し、それを唾棄すべき存在として捉えていたきらいがあるが、何故そこまで、ある種独善的な眼差しで他者を見ていたのかと考えた時に、浮かび上がってきたことがある。その眼差しは確かに他者を捉えていたが、それと同時に僕自身という存在をも捉えていた、ということだ。つまり、僕は僕自身をサブキャラだと思う自意識を持ってこれまで生きてきて、そこには、そうなりたくない、そこから脱却しなければならないと常に思い悩んできた歴史がある。

 

サブキャラ的自意識の萌芽がどこから生まれるのか考えてみると、そもそもの出発点は、自分は他者と比べて社会的になんの価値もない存在なのではないかという自己肯定感の欠如、そこに付随して現れる他者への劣等感である。

 

僕は小5から中1までインドに2年間行っていて、中高一貫の男子校に帰国子女枠として日本に帰って来たのだが、そこでまず初めに感じたことは、インドに行って失った(本来は日本で過ごすはずだった)2年間の空白である。僕はこの時、インドでの2年間を(日本で過ごすはずであった2年間と比べて)価値のある時間だったと見なすことができないでいた。周りの同級生は僕よりも豊かな2年間を送っている、自分にはない社会性を帯びた、いうなれば先輩的な優越性を感じさせ、そこで僕は漠然とした劣等感を抱くこととなった。振り返って考えると、僕のサブキャラ的自意識の萌芽はこの辺りからしっかりと輪郭をもって現出したのかもしれない。

 

例えば、中学一年の頃に国語の授業で作文を書く時、僕はしっかりと平均的な中学一年生が書くであろう文章を書けるのだろうかと不安になった。中1にもなってこんな文章を書くのかと馬鹿にされたらどうしようと狼狽して、鉛筆を持つ手が進まなかった。

 

僕は自分自身を、他の同級生と比べて決定的に劣っている存在だと思っていた。故に彼らの前では萎縮して、ありのままの自分を出せずに殻にこもり、名前を呼ぶ時も、普通に名字で呼んでいいよと言われても頑なに君付けで呼んでいたし、僕がもし普通に名字で呼ぼうものなら、それは身の程をわきまえていない、劣位の者が優位の者に対してすべきでない行為であると、他の誰でもない、まさに自らの目線で自らを罰していたのである。

 

この窮屈で陰鬱なサブキャラ的自意識から僕は常々脱却しなければならないと考えていた。その自意識から一過的にでも解放されるためには、自身が力を獲得し、自分よりも優位者だと認知している他者と肩を並べるか、あるいは超えていくことしか道はなかったのである。