道化が見た世界

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ファルス的大学回想録(1)

読者諸賢、ごぶさたぶりである。私がこう挨拶しても、誰も一瞥してくれぬことは織り込み済みでごぶさたぶりなのである。さて、私は最近大学を卒業したのだが、ふと、その4年間の生活を回想したい衝動に駆られた。自分語りの多さに酷評がある私の語りっぷりは終始一貫しており、大学1年生の頃には既に自伝を書いていた。しかも何故か分量も結構あった。


私の大学生活の4年間は、見る者が見れば、虚無と混沌と狂気に満ちたナンセンスなものに映るかもしれないし、あるいは、語る必要の無いありふれた凡俗なものとして映るかもしれない。第一、自分語りを嬉々としてする輩にロクな奴はいないのだが、私が語る限りにおいて、それは「ファルス的」たらざるを得ない。簡単に言ってしまえば、面白いかもしれない。故に読んでほしいのである。


時は遡り2008年4月、私は大学入学前にして既に自宅のお風呂場で天啓を授かっており、気付けば狂気じみたハイテンションで大学に向かっていた。何故その時テンションがキチガイじみていたかと言えば、それは全て天啓のせいである。ではその天啓とは一体何か。それを説明する為には更に時を遡る必要がある。


私は、大学に入学する前の月、つまり、高校を卒業(ブレイク)した2008年3月に、小学校の同窓会に出席した。中学高校と男子校という名のプリズンに6年間収容されていた私の精神は既に枯渇しており、その渇ききった精神の表面には大きく「童貞」という文字が刻みこまれていた。そして、私はその同窓会で、小学校高学年から、2年間のインド修行へ、そして再び帰国し収容期間を終えたその地点に至るまで好きだった同級生の女性との再会を果たした。


さらに、その再会がキッカケで彼女と付き合うことになった。枯渇していたはずの私の精神の中核から途端に湧き出した聖水は全てをモイストした。そして万事がトントン拍子でうまく行くかに思われた私の人生であったが、そうはならなかった。それは全て天啓のせいなのである。


私は彼女と付き合い始めてから、何故か病的に内省的になり、自分のそれまで歩んできた人生を回想していた。そしてある時、風呂場で髪を洗っている時に天啓的インスピレーションが私の頭に飛来し発光した。それは、「私は人を笑わせることに至高の喜びを感じる人間である」という自意識の萌芽であった。私はその天啓を神から授かった瞬間(洗っていた「髪」と「神」を掛けている)に、可能な限り大勢の人を可能な限り沢山笑わせたいという欲求を持ち、これが自分の使命なのだと悟った。


いやもう本当に何を言ってるか頭パッパラパァなのだが、私はあの瞬間に、今の私になった、と思う。そして、何故か彼女に対する愛も無くなってしまっていた。しかし、テンションだけは狂気じみたハイテンションになっていたのである。それはおそらく、自分が他人とは違い、選ばれた人間だというパッパラパァな選民意識、そして人を笑わせるという使命感をその中に宿し、確固たるアイデンティティを確立した気になっていたからだと思う。ちなみに今も思ってるんだけど。