道化が見た世界

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政治と道化(ファルス)

笑いには政治的効用がある。本論では、この経験的確信を理論化・体系化させることを一義的な目的としている。


笑いの政治的効用とは、政治的な力に他ならない。ここで私は、笑いの「力」(自分が望む結果になるように他人の行動を変える能力)としての側面を「ファルス(FARCE)」として定義し、その力を行使する個人を「『社会をより良く作り変える』という自負心を持ち、『力』を自覚し、それを獲得しようと志向し、自己の支配を膨張主義的に拡大させる主体」と定義する。つまり、政治的個人をその前提に置くのである。


上記で定義した「個人」は、笑いの力に「自覚的かつ主体的な道化」であると言える。それは、戦略的に笑いを政治的パワー(つまりファルス)として用いることのできる主体の最低限の条件となる。ここで、その他に3つの場合分けが可能になることが分かる。つまり、「無自覚的かつ主体的な道化(人を笑わすが、ファルスに無自覚)」、「自覚的かつ客体的な道化(笑「われる」主体、いじられキャラ)」、「無自覚的かつ客体的な道化(自分が笑「われて」いることにも無自覚、ダンボ)」である。


3つ挙げたうちの1つ、「無自覚的かつ主体的な道化」とは、笑いのパワーとしての側面を自覚しておらず、あるいは、政治的野心(「『社会をより良く作り変える』という自負心を持ち、『力』を自覚し、それを獲得しようと志向し、自己の支配を膨張主義的に拡大させる」)をその内に秘めていない個である。彼は人に「笑われる」のでなく、主体的に人を「笑わせる」が、そこでもたらされる空間的調和(この論に関しては、過去記事のファルスに関する諸記事を読んでほしい)は、一過的にならざるを得ない。何故なら、彼はその空間的調和を「政治的な力(ファルス)」として活用しようとは思っていないからである。故にそこには戦略もなく野心もない。そういった意味での「無自覚」である。


3つ挙げたうちの2つ、「自覚的かつ客体的な道化」とは、ありていに言ってしまえば世間で「いじられキャラ」として扱われている人種である。彼らは会話空間において、道化役を担っているが、それは受動的に、客体的に「担わされて」いるのである。彼は、人を主体的に「笑わせる」のではなく、客体的に「笑われる」立場に位置する。そういった意味で、上述した2つの道化(「自覚的/無自覚的かつ主体的な道化」)とは一線を画している。


彼には、戦略や野心が無いのは勿論のことながら、人を笑わせることすら望んでいない場合がある。人に「笑われる」ということは、主体的意志とはかけ離れたところにあるからだ。故に彼が創り出す空間的調和は、彼によって創り出されたものには変わりないのだが、空間に存する他者が「彼を媒体にして(道具として)」間接的に創り出した調和であると表現したほうが正しい。


3つ挙げたうちの3つ、「無自覚的かつ客体的な道化」とは、自分が「いじられキャラ」としての認識も有していない、「笑われる」人種である。読者諸賢は、ディズニーの「ダンボ」を御存じだろうか。ダンボはある時、その風貌からサーカスの観衆にひっぱりだされ、彼の不恰好な耳を笑われる。観衆に笑われたダンボは、自らも嬉しくなって笑い返すが、それを不憫に思った母親ゾウは、ダンボをたぐり寄せて彼を隠す。つまり、ダンボは自らが「嘲笑」されていることに気付かない、不憫ではあるが無垢で幸福なゾウであった。「無自覚的かつ客体的な道化」とはつまり、かのダンボの様な人種である。彼は(先に挙げた4つの道化のうちで)ファルスから最も遠い存在であると言える。


次に、ファルスが用いられる領域区分をしよう。まず、言語領域であるspeaking/writingの両領域が挙げられる。次に言語を介さないマイム(表情や挙動)領域であるactingの領域が挙げられる。言語領域とマイム領域が重なる場合も無論存在する(たとえば、ジェスチャーをしながらしゃべる等)。speaking領域のファルスは、動的であり、一方、writing領域のファルスは静的である(詳しくはhttp://d.hatena.ne.jp/kent-0106/20100812/1281635972を参照されたい)。


そして、笑いのファルスとしての効用は以下である。「緊張の緩和」、「権威の誇示」、「否定性の肯定」、「無化作用」、「ストレスの緩和」、「風刺による抑制・批判」、「対象者以外の他者の同意を調達する心理的暴力」。


私が最も着目するのは、ファルス主体と他者の間における関係性、つまり社会学的見地から分析するファルスである。笑いは、他者との間で生まれた「こわばり(緊張)」を解き(距離感の接近)、更には、自己―他者(複数)との間で一体感を形成すること(先程述べた「空間的調和」とはまさにこのことである)が可能なのである。


個人(「自覚的かつ主体的な道化」)は、文字通り自覚的かつ主体的にファルスを用いて自己の空間を膨張主義的に形成し拡大する。空間の外枠をファルスで固める。かかる道化は、ファルスによる共同体構成員の支持を獲得し、ファルス主体の発言権の相対的強化を図り、最終的には彼が企図する秩序を形成するに至るのである。