道化が見た世界

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黒歴史を振り返る

人には必ずその人固有の「黒歴史」がある。「黒歴史」とは、それが衆目の下に晒された日にゃ勢い余って自害やむなし、あるいは、思い出すだけでも全身に鳥肌がプツプツと立ち、やがて視界が遠のき虚空を向き始め、気付いた時には穴と言う穴から体液全放出という有り様になるところのものである。


私達は必ず、かかる薄暗い闇を抱えて生きている。「いや、私に限ってそんなことは」という人ほど注意が必要である。何故なら、その様な人は現在進行形ingで黒歴史の轍を踏んでいるかもしれんからだ。文字通り、「歩く黒歴史」に足る人材である。


黒歴史の具体的内容はといえば、例えば、「失恋、片思いポエム」や「なんびとにも御し難い力を有している」といった肥大化した自我をあらぬ方向へとこじらせてしまった類のモノに代表されるだろう。因みに、当時の私は後者の「なんびとにも御し難い力を有している」という自意識に苛まれながら、こんにちに至っている。


自覚があるだけまだマシというべきだが(実際は一点の曇りなくアウトである)、こういった黒歴史的症状は、少なくとも中学生の頃に終えておく必要がある。これは一種の通過儀礼の様なもので、誰もが経験する暗黒期間なのである。その悪しき根源を「若さ」に持って行き、「あの頃はガキだったからなあ(ゾワッ)」と自己を説得し仮初めの精神的安定を保つ為には(つまり冒頭で述べた症状ですら最小限の被害なのである)、少なくとも中学生ぐらい若くないといけない。これが高校・大学であっては、おそらく責任の所在に窮するだろう。そこで貴方を待ち構える選択肢は、ハラキリの一択のみであろう。


正気に戻った時、つまり、「黒歴史」を「黒歴史」として認識できるにようになった時、その実体が公衆の面前に晒される危険性がある場合は(例えばポエム)、すぐさま焼却処分すべきである。しかし、その黒歴史が言動や挙動によって現出していた場合、自らを焼却処分する訳にもいかないから、その目撃者達の記憶が薄れ消えることを祈る他あるまい。その歴史を刮目した生ける証人達の存在を怨む他あるまい。


私個人の部分的黒歴史はと言えば(「部分的」と述べたのは、私の人生が全体的黒歴史として機能しているきらいがあるから)、小学五年〜中学時代までインターネットで活用していた()系の文字装飾である。


インターネットにあまり興味が無い、おそらく大学生になってからPCを使い始めた方々には良く分からない話になると思うが、皆さんが使う()系の文字装飾は、(笑)ぐらいだろう。今は「w」という記号で代用していると思うが、当時のガキのネット社会では()系の文字装飾が濫用されていた。例えば以下の様なものである。


(爆)


(何)


(死)


(シネシ)


(謎)


(違)


(誰)


(マテ)


(オイ)


(核爆)


(ぁ)


(ぇ)


(ぉ)


・・・etc








・・・・・・








ちょっと休憩が必要です。




お分かりいただけるだろうか。これらの文字装飾は、自分の文章に対する「自分ツッコミ」的役割を果たしている。例えば、(ぇ)という自分ツッコミは、出過ぎた自分、斜め上を行っちゃった(と思ってる)自分に対して「ぇ・・・」というツッコミを入れている。使用例は、「そういえば最近1日3回オナニーしてる(ぇ)」と言った具合である。(ぁ)(ぉ)等も同様に、言い過ぎちゃった自分、尊大に出た自分にツッコミを加える機能を果たしている。・・・うん、そうなのだ。



ご覧の通り、メチャクチャ痛いのだ。



当時の私はこれらの文字装飾を巧みに活用し、充実したネットライフを過ごしていた。回収不可能なネットのデジタル社会に照射、流布された躍動する私の(ぁ)(ぇ)(ぉ)を始めとする装飾文字達は、今もなお私の脅威として跳梁跋扈するに至っている。これも全て、私が蒔いた種だ。現在、自分ツッコミ系としては(←)が使われているが、まあこれは傷が浅いと言えるだろう。


一つの教訓というのもなんだが、私が自身の黒歴史の中で学んだことは、



人をディスる時は、その標的の黒歴史を探れ



ということである。「黒歴史」とは、その人間の「最大の恥部」である。その赤裸々な恥部を把握し、いつでもその恥部を白日の下に晒すことが出来るとターゲットにほのめかせば、一変、ターゲットの顔色はみるみる青白くなり、銃口を向けられたゾンビの様を呈し、手足は痙攣し小刻みに振動し始め、「許してください許してください」と貴方に命乞いすること請け合いである。黒歴史を知る者、ディスりを制す(誰)。