道化が見た世界

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恐怖と怠惰と虚無

今回は少し趣向を変えて自分語りをしたい。私の単純明快な精神構造は、「恐怖」「怠惰」「虚無」といった三概念の説明で事が足りる。私は常にこの負の循環の中に坐している。この負のスパイラル歴は、私が大学生になった夏休み(当時18歳)くらいだから、今年で四年目である(現在21歳)。


この三位一体のスパイラルに埋没している限り、私の精神は可能な限り鈍磨していき、外的な刺激を必要以上に恐怖し、本来であれば青春の果実でモイストしていなければならない精神は、カッサカサのパッサパサに枯渇してしまう。


しかし、私はこの現状を甘受している訳ではない。「抜け出したい、可能であれば抜け出したい」と、ズブズブと負の泥沼に耽溺する我が精神に問いかける。「いや、別にその必要ないんじゃないですか。頑張ったって、どうせ人間みんないつか死にますし。」我が精神が応える。「それもそうだ」と私は首肯する。この茶番劇の概要を順を追って説明していこう。


<恐怖>
私が有する恐怖とは、新たな環境に飛び出すことへの恐怖である。この恐怖が払拭されない限り、私の無為に繰り返される日常は変化しない。一般的にも、新たな事を始めたり、属することになれば一定の恐怖心というものは生まれる。ありふれた感情である。


しかし、私の場合は、その恐怖心が一般的なそれより強力であり、あるいは、それが原因で身動きが取れなくなった状態を、受容できる怠惰な精神力を持っているのである。普通の人にとって、何の変化も無い空虚で無意味な時間を過ごすことは耐えられない拷問であろう。普通であれば「何かやらないと!」と内なる積極性が萌芽するはずなのだ。それが私には無いのである。厳密にはあるが、その衝動は恐怖によって掻き消されるほど微弱である。


<怠惰>
基本的に眠い。休暇は基本的に睡眠に費やされる。何もしないことを許容できる私の怠惰力は、おそらく他の追随を許さないほどに強靭であると言っても言い過ぎではない。私は「休日は何してるの?」という何気ない会話の中で為される質問がホトホト嫌いである。わざわざ「何もしてないっす」と返答する空虚感への嫌悪感、それで途切れる会話、そういえば俺って何もしてないという悲壮な自己再認識。


<虚無>
読者諸賢、人生において「もう、どうでもいいや」と思った事は無いだろうか。中島義道の著作を大学一年の頃に読んでから、「人間はどうせ死んでしまう。今リア充で人生を謳歌してる奴でも、人生は退屈でつまらないと思ってる非リア充も、どうせ死んでしまう。リア充になったところで、その『快』の質というか記憶は、死後滅却されて持続されない訳だから、実質リア充も非リア充も同等じゃないか」


そういった一種の虚無的思考が一時に支配的となり、どんなに頑張ってもどうせ死ぬべ的なスタンスでずっと寝ていた時があった。今ではその虚無の深淵に入り込むことは稀になったが、<恐怖><怠惰>を行き来している内に、「ああ、もうどうでもいいや」と悟りグデンとなる時があるのである。


現在私が欲するモノは、この負のスパイラルから脱することができる外的強制力の行使、あるいは、こんな私を親身になって叱ってくれる乙女の現出ぐらいである。解決策は分かっているのだ。できれば後者の解決策に全力を以って身を委ねたい。



読者諸賢、お分かりいただけたであろうか。私の三位一体の負の螺旋迷宮を。「ニートの世界的権威になるポテンシャルだけはピカイチ」と判断した御仁は、半分正しく、半分間違っている。何故なら私のこの絶対的閉塞感の裏には、相反する爆発性が潜っていると踏んでいるからだ。その導火線に火が燈される日が来るかは、定かではない。