道化が見た世界

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※ただしブサメンに限る

読者諸賢、こんばんは。皆々様は、ネットで良く散見される「※ただしイケメンに限るという、使い古された黄金の不文律をご存じだろうか。


この命題の真意は、「イケメンであれば、ほぼ何をしても許される」というNOTイケメン(つまりフツメン〜ブサメン)の男性諸賢が皮肉混じりに社会の現状をなじったものである。


しかし、私はここで一つ、疑問を投げ掛けたい。世の中では、真にイケメンが優遇され生活しているのだろうか?彼らは真に、女性にチヤホヤされ、出過ぎた言動も、高慢な振る舞いも、「まあイケメンだからしょうがないか」との一言で、許容されているのだろうか?



断じて否!(ドォンッ!)



私はそう声高に叫びたい。そして世のNOTイケメン諸君に私は伝えたい。手前勝手なコンプレックスで、自分の見る世界に率先して靄(もや)を掛け、女性社会から自ら距離を置くことは



おめでたい自爆である



、と。生来ある積極性を、自爆で消失することほど無意味なことはない。私はこれからこの負の連鎖(NOTイケメン・コンプレックス→消極的→女性と接点がなくなる→NOTイケメン・コンプレックス)を解くべく、「イケメンであることの辛さ」を説く。


私の身の回りにいるイケメン諸君の、イケメンであるが故の苦労を赤裸々に語ることで、イケメンではないNOTイケメン諸君がいかに柔軟に行動できるか、「NOTイケメンであるが故のメリット」を見出してゆきたいのである。


(1)根拠の無い期待
イケメンは、概して期待されてしまう。「あの人イケメンだし、何か(ポテンシャル)持ってそう」という世の乙女達の期待を一身に浴びて辟易してしまうのだ。その過度な期待、初期設定で既に高すぎるハードルには、往々にして添えないのが現状であり、更に辛いのが、何かに失敗しても「全然大丈夫だよ!!」と、有無を言わさずフォローが入ることである。


その善意剥き出しのフォローは、意図せずもイケメンの心に傷を付ける。自分の不甲斐無さが臨界に達し、「いっそのこと罵倒してくれ」という心境になってしまうのである。


(2)根拠の無い警戒
イケメンは、概して警戒されてしまう。「あの人イケメンだし、何か遊んでそう」という世の乙女達の警戒心を意図せずも喚起してしまう。イケメンが純粋に女性と仲良くなろうとしても、警戒心の為か、なかなか距離が縮まらないケースもある。イケメンを目の敵にしているNOTイケメン諸君からすれば、「それが真実であり、警戒するのも自明の理」だと考えるのだろうが、現実はちょっと違うのである。


確かに、イケメンでちゃらついている人間もいるかもしれないが、それはちょうど、フツメン〜ブサメンでちゃらついている人間との割合と同様で、イケメンだけが非難されるべきことではない。


(3)「イケメン」という高尚なイメージの重荷
社会から要請される「イケメンはかくあるべし」というテーゼに、イケメンは意図せずも追従せねばならない使命を負っている。イケメン路線から脱する奇行に及ぼうものなら、「え〜、○○君そんな人だったの?!」と、言われの無い落胆の声を聞く羽目になってしまうのである。よって、イケメンとは概して窮屈であり、脆弱な存在なのである。


(4)同性からの嫉妬
「※ただしイケメンに限る」というフレーズが、まさにそれを端的に表している様に、イケメン男子は概して男性諸賢の嫉妬の的になる。特に悪い事をしている訳でもないのに、「あいつはいけすかねえ奴だ」「クールをきどってやがる」といった、言われの無い非難を浴びる。彼らは「イケメン」という罪深き十字架を背負って生きねばならないのだ。


(5)「イケメン」の価値の低さ
ここが、一番クリティカルな問題であるが、実際のところ、世の乙女達は、そこまで「イケメン」男子に価値を見出していない。反論が来る前に断っておくが、男性が思っているほど、女性は男の「顔面偏差値」に価値を置いていない、ということである。この誤差は、全般的に男性が女性にくらべて、異性の「顔」に価値を置いていることから生じるものでもあろう。


確かに、顔が良い事にこしたことは無いが、それは世の女性全般にとって「ちょっとしたお得感」(たまたま買ったペットボトルにオマケ商品が付いてた)ぐらいでしかないのだ。



以上の様に、「イケメン」として生きるのも、案外、茨の道なのである。彼らには活躍できないフィールドで、私達は、思う存分飛び回れる自由を手に入れているのだ。だからこそ、飛び立つ前に自爆して、みすみす自らの人生をシャットダウンする愚行は避けねばなるまい!