道化が見た世界

エンタメ・エッセイ・考察・思想

世界は豊饒であった。

 ゼミの一次募集に落選し、更に二次募集にも落選した私にとって、今日受けた三次募集は文字通り死活問題であった。そもそも、私の卑小な人生において、これまで挫折という挫折を経験したことがなかったが、大学三年になってやっとそれを味わった。


 挫折と一口に言っても、私は単にゼミに落ちたから気が滅入っていた訳ではない。ゼミ面接に落ちたということは、面接において私の個人的能力が足りなかったということである。そして、その乏しい能力は将来の就職活動においてより顕著になるであろうことを私は悟った。何故なら大学1年〜2年の間、私は何もやっていなかったからである。喋ることが無い。


 結論から言ってしまうと、私は社会に適応するのに丸二年を有したということになる。これを話はじめると幼少の頃の私まで遡らればならないから割愛するが、簡潔に言ってしまうと、私が信奉する価値体系と、社会のマジョリティが有する価値体系の根源的不一致によるカルチャーショックなるものに私は悩まされ続けていた。


 傍目からすれば、その二年間は「無目的に浪費された日々」と解釈されるだろうし、それもしょうがないと思う。私にとってその二年(自己と社会のズレの認識)は必要な年月だったが(付随的な怠惰は不必要であったという思いもあるが)、社会はそれを価値あるものとは看做さないだろうという視点を獲得した。

 
 私の認識として、入ゼミとは就職における不可欠な要素、たとえば容器の底のようなものであった。ゼミに入らないということは、底が抜けているということである。ノンゼミの焦燥感に駆られ就職に向けて何がしかのアクションをとらなければならないと考えるが、それを支える底がない。全ての行動を「これは就活の為になるか?」と考えるようになり、心の余裕ができない。結論、鬱にならざるを得ない。


 そしてこの度、三次募集に合格したことによって私の心の底は補修されたのである。面接というシステムの中で私が端的に理解したことは、私の価値体系は社会的に評価されず、“私が無価値だと思っていた”価値体系あるいは価値保有者が、評価されたことである。この構造は、内的世界に浸っていた私にとって大変意味のあるものとなったのは言うまでもない。