道化が見た世界

エンタメ・エッセイ・考察・思想

「ストレスを溜め込ませて爆発させてしまう」人達へ。

一個人に対して、「ストレスを溜め込んで爆発してしまう人」という表現の仕方に、私は遥かいにしえの昔から、いくばくかの違和感と義憤を抱き続けてきた。この機会にそれらを紐解いてゆきたい。

 

まず、「ストレスを溜め込んで爆発してしまう人」は、一体どのような存在であるか。その個人は、他者との関係性において生じた摩擦、不快感や違和感を、他者に嫌われたくない、不快に思われたくない、怒られたくない、傷付けたくない、などの諸理由から表明できず、それらを数多の状況で抑圧してしまい、それらが自己の内に蓄積していった結果に、とあるキッカケで、傍目からしたら常軌を逸した感情の発露(号泣、激昂、拒絶など)をしてしまう人間であろう。

 

そして私は、かかる気質を有した人間を、繊細で、気遣いができ、慎ましく、他者を慮ることのできる善良な人間だと考えている。しかし、そんな彼らを「ストレスを溜め込んで爆発してしまう」人といった、さもそれが、治すべき気質的欠陥であるかのような恣意的な言い回しに、許されざるべき傲慢さと愚鈍さを見、そしてその態度が私の義憤を呼び覚ます。

 

それは、まるで爆発してしまった個人が加害者であり、その爆発を被った人間、つまり己が被害者であるという関係性を示唆している。そういった被害者意識を持つ個人が、爆発してしまった個人にかける言葉は決まって、「溜め込まない方がいいよ」、「言ってくれないと分からないよ」、「もっと早く言ってくれれば良かったのに」といった、おしなべて自分は一つ上に立っているかのような、アドバイスめいた傲慢なものになる。

 

彼らの視点の中に決定的に欠けているものは何か。それは、自分が無自覚的に他者にストレスを与えてしまっているかもしれないという可能性への自覚、加害者意識、それを積み重ねることによって、他者に耐え難いストレスを断続的に与えることになる自覚である。そして、その視点を持っていないがゆえに、その結果たとえ他者がストレスを爆発させるという可視化された状況になったとしても、それを自分の過失だとは露とも思わず、自身の鈍感さも傲慢さをも棚に上げ、己を被害者・健常者に、爆発した他者を加害者・異常者に当てはめて、彼らをはた迷惑な存在として見下し、あるいはそしらぬ顔で助言めいたおめでたい言辞を弄してくるのである。

 

そんな言葉を掛けられた個人は、一体どの様な気持ちになるであろう。爆発してしまった自分が一方的に間違っていたのではないかという罪悪感を抱き、今後この様なことがないように、キチンと嫌なら嫌だと自分の気持ちを伝えようとするであろう(そもそも、嫌なら嫌だと自分の気持ちを伝えた結果に、その意見を真摯に受け止める器量が受け取り側にあるかどうかも疑わしいし、その器量の小ささを先刻承知していたが故に伝えることができずに溜め込んでしまった可能性すらあろう)。ここでも、彼らにストレスを溜め込ませた加害者側の傲慢さや鈍感さは棚上げされる。

 

単純に考えて、これは突き詰めてゆけば、加害者が自身の過失を棚上げし、被害者側の過失を強調する構図となんら変わりがない(例えば、痴漢をはたらいた加害者が、被害者の女性に対し、彼女がミニスカートを履いて己の劣情をいたずらに喚起させたせいであると糾弾する構図)。さらに言えば、例えばコミュニケーションにおいて、自分の声が聞こえなかった時に聞き手が「はい?」と聞き直してきたとする。この時、自分の声が小さ過ぎて聞き手に聞こえなかったのか、あるいは、聞き手の耳が悪過ぎて自分の声が聞こえなかったのか、その責任の所在は、どう高く見積もってもフィフティーフィフティーたらざるを得ない。一方の責任が100で、他方の責任が0であると言ったことまず起こり得ない。たとえ蚊の鳴く消え入りそうな声でしゃべりかけていようが耳かっぽじってよく聞けよと思うのは自由だし、ひるがえって、たとえ爆音で音楽を聴いていようが全然聞こえねえよもっと大きな声でしゃべれと思うのも自由である。ストレスを溜め込ませた側の人間が、ストレスを溜め込んで爆発してしまった人間に言う傲慢なアドバイスめいた言葉は、ちょうど発話者の聞き取れなかった言葉に対して、自分の聴力を棚上げして「何言ってるか分かんないからもっとハッキリしゃべれ!」と強要することに等しい。

 

つまり、「ストレスを溜め込んで爆発してしまう人」を問題視するのであれば、それと同等に、「ストレスを溜め込ませて爆発させてしまう人」も問題視しなければフェアでない。後者の存在なくして前者の存在はない。

 

そして、ストレスを溜め込んで爆発してしまった人にかけられる言葉は、アドバイスめいた傲慢な言葉などではなく、「気付いてあげられなくてゴメン」の一言しかない。

 

本当にその個人のことを思っているなら、その個人にとって信頼に値する人間に自分がなりたいのであれば、どうして彼/彼女が爆発するに至ったのか、その原因と、その価値観と真摯に向き合って対話する他あるまい。

僕らの阿部真央

つい先日、Spotifyがサブスクだけではなく無料バージョンも提供していることを知り、早速ダウンロードしてみたんだけど、良いですね。とても良いですね。Spotifyは、言うなればフェス。実際にフェスに行ったことは一度もありませんがフェス。自分の全然知らないアーティストの全然知らない楽曲が流れてきて飽きることはなく、お気に入りの曲だけを聞いているだけでは出会えなかった新しい出会いがある。月並みですが。

 

そんなSpotifyでの新たな出会い、厳密には再会と言うのが正しいですが、阿部真央さんの曲をずっと聴いています。僕が最初に聴いた阿部真央さんの曲は「ふりぃ」で、確か僕が大学二年生の頃、11年前だったと思います。阿部真央さんの魅力は沢山あると思いますが、僕が特に魅力的だなと思っているのは、阿部真央さんが男っぽいワイルドな低い歌声と、乙女っぽいソフトで可愛い歌声をそれぞれ歌い分けて表現していて、そのギャップがそのまま等身大の阿部真央という存在を映し出しているようで奥深く、そんな彼女に僕はfall in love with Abema now.です。

 

楽曲によって、男っぽいワイルドな歌声で歌われているもの(「ふりぃ」、「伝えたいこと」など)、乙女っぽいソフトな歌声で歌われているもの(「貴方の恋人になりたいのです」、「ロンリー」、「モンロー」など)、またその両者が部分的に交わって歌われているもの(「モットー。」など)、ワイルドが行ききって獣のように歌われているもの(「デッドライン」など)、乙女が行ききってメンヘラチックに歌われているもの(「ストーカーの唄〜3丁目、貴方の家〜」など)、かように多彩な歌い方をされています。

例えば、僕が「ふりぃ」で特に好きな歌詞が二つあるんですが、まず、

「思うままに行けよ、背中くらいは押してやるから」

という歌詞で、阿部真央さんの男っぽい声でそう言われると「兄貴!!」という包まれた安堵感に浸ることができ、たまに体験談として、「◯◯の曲が自分の背中を押してくれました!」と語られる様に、まさに等身大の阿部真央に、「背中くらいは押してやるから!」と言われて文字通り背中を押された気持ちになる体験ができます(?)。

そしてもう一つ、さらに狂おしいほど好きな部分が、

 

「さぁ、両手掲げて息をしろ、スーハー、スー

 

ハアァァイッ!!」(鬼シャウト)

 

心を決めさせる為に一旦僕らに寄り添って深呼吸をうながしつつも、最終的に鬼シャウトして一人違うベクトルに行ってしまうヤンチャな感じが狂おしいほど好きです。

 


阿部真央「ふりぃ」Music Video【Official】

 

そして、僕が今現在Spotifyで一番聴いている、鬼リピしている阿部真央さんの曲は「お前が求める私なんか全部壊してやる」というダイレクトでアグレッシブな曲なんですが、最初の歌詞から「お前が求める私なんか全部壊してやる」の連呼で始まり、最終的には「全部全部全部全部全部全部全部全部全部、壊してやるよ」で一段落します。この最後の「壊してやるよ」がセリフ調でロックでカッコよくも愛おしくて好きなんですが、さらに次のサビでは最後の言い方が変化していて、どう変化しているかと言うと、

 

「全部全部全部全部全部全部、

 

ぜーっんぶ、こぅっわすっ!!」

 

お分かりでしょうか。この爆発したヤンチャっぷりが最高に可愛いんですね。さらに続けて、

 

「止める気ないよ止める気ないよ、戸惑えばいいじゃん。

 

『ちょっとなんか、違った』とか

 

ほざいてんな、ヴァーッカが!」

 

 

 

(...好きだ...!!)

 

 

「ハ」に点々ではなくて、ちゃんと「ウ」に点々でヴァカと言っているところが気分爽快ですし、女性がバカのことをここまで語気強く吐き出すところを見たことも聞いたこともないのでとても新鮮な気持ちにもなります。

そして間奏に入ると、お祭り然とした掛け声で「ハッ!ハッ!ハッ!ハッ!」とお神輿を担いでいる様な彼女の合いの手が入ってきて、曲全体が乱痴気騒ぎの様相を呈し、テンションが主張を通り越してゆき、「もうなんでもええわ!」というような四方八方に発散されたカタルシスがあります。僕はこの「ハッ!ハッ!ハッ!ハッ!」の合いの手を聴いた瞬間にモテキのお神輿のイメージが飛来して、阿部真央さんの法被姿、絶対に似合うなと思いました。

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(※イメージ図)


阿部真央「お前が求める私なんか全部壊してやる」Lyric Video【Official】

 

今回は、阿部真央さんの男っぽくてワイルドな歌声、そのヤンチャっぷりにフォーカスして魅力を勝手に語ってきましたが、乙女っぽくてソフトで可愛い歌声もどちらも魅力的なので、是非一度楽曲を聴いてみて下さい!

あと、先日ウィキペディア阿部真央さんを調べたら、僕と同い年で生まれ月も一緒だったので、一人勝手にテンション上がってました!ハアァァイッ!!

カリスマ転校生、FUKUDA君

僕が小学三年生の頃にFUKUDA君は転校生として学校にやってきた。彼とクラスが一緒になったのは彼が転校してきてから一年後だったと思うが、彼はとにかく目立っていて異彩を放つカリスマ的存在だった。

まずイケメンであった。そして運動神経が抜群に良く、足も速く、すぐさま運動会でリレーの選手に抜擢され、普通に上の学年の先輩よりも速かった。体育の水泳の授業では常軌を逸した速さで25mを泳いでいた。

加えて頭も良かった。4年生の時に算数の授業で100マス計算という、マス目状に空欄になった九九を解いてタイムアタックする決まった時間があり、それを毎時間やっていたのだが、決まってFUKUDA君がクラスの誰よりも一番速く解き終わって手を挙げて、ストップウォッチで時間を測っている先生がそのタイムを告げていた。FUKUDA君は常に1分フラットで、僕はどれだけ頑張っても2分は掛かってしまい、ついぞその時間を縮めることは叶わなかった。

更に絵も上手かった。常軌を逸して上手かったので逆に浮いていた。休み時間に自由帳に書いていたデジモン、ウォーグレイモンとシルバーガルルモンがめちゃくちゃカッコ良かった。僕はそこで絵に影を付けることによってリアリティを出すという技法を学んだ。

彼が書く字も特徴的で、なにか親しみが湧いてくるような、丸みを帯びた面白い字体だった。僕は彼の影響で彼の字を思い切りに真似た。模倣の努力が功を奏して、だんだんと僕の字は彼ソックリの字体になっていって、僕はそれをとても嬉しく思った。

学芸会では、彼は主役級の役に抜擢された。色々な星に住む人種が一堂に会して、それぞれが自分の星で最も大切な宝物を発表して、どの宝物が最も優れているか競うという筋書きの物語で、その脚本が僕の学校オリジナルのものだったのかは未だに分からないが、僕は彼と同じ星、ウォーズマニア連邦という星の同胞で、彼がリーダーだった。ウォーズマニア連邦は戦争が大好きな星の人種で、そんな彼らの最も大切な宝物は、どんなモノをも破壊してしまう巨大な爆弾だった。その巨大な爆弾は、巨大な固い段ボールの表面に色々な壊れた鉄製のゴミや道具を持ってきて貼り付けて、最後にシルバースプレーを吹きかけてメカニック感を出して先生と一緒に作った。僕のセリフは「113番!ウォーズマニア連邦の宝!」だけだったが、FUKUDA君はその爆弾がいかに凄いか滔々と語り、何かの拍子にそれが誤作動してしまい会場が一時騒然となる一悶着も演じきり、そのとても長いセリフをリーダー然とした風格でやりきっていた。

そして、彼はいい意味でとても変わった人で、面白い人間だった。僕が覚えている印象的な会話のうちの一つは、彼が給食を食べながら、うわ〜なんだこれ!ゴキブリの味がする!と言った。僕はそれに対して何気なく、なんだそれ!と言った。すると彼は、いや!けんちゃん違うよ!そこは、いやゴキブリ食べたことあんのかよ!って言わないと!、と返してきた。彼は僕に望ましいツッコミをさせるために敢えてゴキブリの味がする!と言ったのである。僕が望ましい返答をしなかったから、FUKUDA君は他の違った女子のクラスメイトに、同じボケを放って、その時ちょうどその女子が、いやあんたゴキブリ食べたことあんの?!と笑いながらツッコミを入れたので、彼は嬉々として両手を広げ、彼女をハグしようとしていた。

しかし僕は転校してきたばかりのFUKUDA君のことを、つまり四年生になって同じクラスになり仲良くなる前に、とっつきにくい、どちらかと言うと苦手なタイプな人間だと思っていた。なんで最初はそんな印象があったのかと思い返してみると、確か僕が彼にいじられて恥ずかしくなったからだと思う。僕は当時、トイレに行っておしっこをする時、半ズボンのチャックを開けずに、片方の裾をまくしあげて、かなり不格好におしっこするスタイルだったのだが、それをたまたま見た彼は口を抑えながらも爆笑し、それは絶対におかしいよ、え、ずっとその方法でおしっこしてたの、と執拗に僕に問いて来て、僕はそれがとても恥ずかしかったのを覚えている。

だから僕にとって彼の最初の印象は好ましいモノではなく、4年生になって同じクラスになったらどうしてあんなに仲良くなれたのかもあまり分からない。ただ、彼が人懐っこく僕にしゃべりかけてくれていた気がする。何故そうしてくれたのかは分からない。そこから僕たちは雪解けして、僕は彼という存在をいくらか尊敬の念で見て、少しでも彼を模倣して、同化したいと思っていたのかもしれない。彼と僕がしゃべっている時、彼はいくらか俯瞰してちょっと上に立ってしゃべっている感じで、けれど、別にそれは嫌悪感を与えるモノでもなくて、僕には見えていない道が見えているようで、そう比べると僕はすごいガキっぽかったと思う。大人っぽいのかと思えば彼は無邪気に変なこともするし、僕がいつも笑いながらFUKUDA何してんだよと言っていた気もする。彼が当時僕の好きだった子をからかってるのを見ると、なんとも言えない気持ちになると同時に、こういう風に接すればいいのかと勉強しているようでもあった。

下校時はだいたいいつもFUKUDA君と一緒に帰っていたと思う。僕の誕生日には、彼は遊戯王のめちゃくちゃ強いカードをくれた。コナミ遊戯王では無かった時代の、六芒星の呪縛という相手モンスターの攻撃力を0にする最強カードがあるのだが、彼はそれを惜しむことなく普通にくれた。加えてジャンプフェスタに行かないと貰えない未開封の限定パックも何枚もくれた。

学年が一つ上がって五年生になりFUKUDA君はまた転校しなくてはいけなくなってしまって、僕たちは別れた。そして僕も親の仕事の関係でインドに行くことになってしまった。それ以来、彼とはなんの連絡も取っていないが、ふと彼のことを、三十路になった今になって思い出した。それは僕とカリスマとの不思議な関係性だった。

 

(追記)

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当時の思い出の品がなにかないか部屋を探していたら、四年生の頃にクラス全員から貰ったクリスマスメッセージ集が出てきた。その中でFUKUDA君から貰ったメッセージが上の写真である。因みに、おみくじの部分はめくれるようになっていて、めくると「ミラクルハイパースーパー超大吉」と書かれている。

ルーティーン化の三大要素

コロナ自粛期間中に自宅で何かをしようと思い、とりあえず英語を勉強し直しています。文法と単語、TOEICのアプリで問題集を解くという作業を継続的にしています。

そうしている中で僕自身が受験生だった時の頃を思い出しました。当時は多分、特に受験前の高校三年生の冬休み時期がピークだったと思いますが、1日8時間程度は集中して勉強していたと思います。

当時8時間集中して勉強できていた頃の自分と、今の自分(1〜2時間程度で集中力が切れる)を比較して、どうすれば継続的にタスクをこなしルーティーン化、習慣化させることができるか、という本質的な問いに対して体系的な答えを示したいと思います。

 

1.タスクが自己の欲望に根差していること

遂行するタスクが自己の欲望に根差していることは、そのモチベーションを維持し、継続させる為のエンジンであり、それが無い場合は、遂行にあたり大なり小なりの苦痛を常に感じていなければならないでしょう。

僕が英語を学びたいと欲するその根源的な欲望は、シンプルに英語をカッコイイと思っており、エミネムが好きであり、英語を喋っている自分をカッコイイと思うからであり、海外の人達と難なくコミュニケーションをとりたいと欲しているからです。

更に加えて言えば、僕は帰国子女の身であり、標準的な日本人よりも英語能力に長けており、他者と比べてスタート地点で既にアドバンテージがある為、その能力を更に伸ばすことによって他者と自己の差別化を図り、価値を見出し、優越したいという欲望があります。

金髪美女と会話してお付き合いしたい、や、洋楽をカッコよく歌ってモテたいなどといった自己の欲望に根差した具体的なイメージを継続的に想像できるか否かによって、その遂行力の強弱が別れるでしょう。そのイメージが沢山あればあるほど、より強固な推進力となるでしょう。

そして客観的な実用性よりも主観的な感情を大切にすることも肝要だと思います。例えば僕は大学で第二外国語を履修するに際して、何語を選ぼうか悩んでいたんですが、当時中国語とスペイン語がその言語を利用する人口が多いという点で人気でした。しかし、僕はなんか発音がカッコイイという理由でドイツ語を選びました。

これはある種の結果論ですが、もし仮に僕が言語の利用人口が多いという客観的な有用性から中国語かスペイン語を履修していたとしたら、それを継続して学習し続けようというモチベーションは低かったでしょう。

何故ならそれは外部から仮託された事実でしかなく、自分の内から湧き出る欲望ではないからです。ドイツ語の発音がカッコイイ、そのカッコイイ言語を喋りたいと欲する単純で等身大な欲望こそ、タスクを継続へと導くエンジンになると考えています。

 

2.集中力の維持・強化

集中力の維持・強化こそ、タスクを継続的にこなし習慣化させることができる最も大切な力でしょう。何を当たり前のことを振りかぶって言っているのだと思われるかもしれませんが、集中力とはある種、筋力に近いものであると考えています。受験生当時の僕は1日8時間(要所で休憩は挟みますが)集中して勉強することができましたが、今の僕は頑張っても1時間〜2時間で集中力が切れてしまいます。

筋トレを初めた当初、例えば腕立て伏せを最初の頃は10回が限界だったけれど、継続的に筋トレを重ねていくことによって日に日に20回、30回と回数を増やすことができたように、集中力も継続的に鍛えていくことによって、1時間であったものが2〜3時間、ゆくゆくは8時間へと成長していくと考えています。

集中力と筋力は同じような力であり、つまり集中力肥大化も継続的努力によって可能なのです。だから現在の僕は、しぼんで弱ってしまった集中力を現役当時の集中力へ戻す為にも徐々に強化させていかなければいけません。

そして、その集中力を強化する為に最も必要なことは、ディストラクション(気を散らすもの)の排除に他なりません。

では、そのディストラクションの最たる物はなんでしょう。皆さんお分かりように、携帯電話ですね。極言すれば、携帯電話と決別できるかどうかに全てがかかっていると言ってもよいです。携帯電話は全ての行動を遂行する上で必要な集中力に対するディストラクションになり得ます。今や映画館という空間が稀有に感じてしまうのは、映画館が半ば強制的に一つの物事へ集中させる装置として機能しているからに他なりません。だから、映画館で映画を観ている時ですら携帯が気になってしまうという方は、集中力の獲得にかなり苦労すると思います。

僕が受験生だった頃にも携帯はありましたが、今のようにアプリも充実していなかったですし、ましてLINEなどの便利なコミュニケーションツールもありませんでした。現代の受験生の大半は、携帯との決別に一層の苦労を要すると思います。特にリア充高校生などは、恋愛というディストラクションもあるので、ほぼ集中力が育ちません。

意中の人からの連絡が遅い、あるいは既読無視されている、嫌われているのではないか、何か変なことを言ってしまったか、といった疑心暗鬼な問答で堂々巡りとなり、頭の中のメモリは意中の人でキャパオーバーしており、勉強が全く手につかない。タスクを継続的に遂行し習慣化することができない。

そういった意味で、僕が当時置かれていた状況、携帯電話が今ほど発達しておらず、かつ、中高男子校という特殊な環境に属していたという要素は、大学に合格するという目標を達成する上でこの上ない盤石な土台になっていたのでしょう。

また、携帯電話恋愛というディストラクションの他に、音楽を聴いて勉強するという方法も集中力を欠く要素になり得ます。ここが筋トレとは違う点で、筋トレはテンションが上がる音楽をかけながらやったほうが相乗的にヤル気が出ますが、勉強、目下の言語学習においては、無音でやることをオススメします。

 

3.スケジューリングの徹底

まず1日の睡眠時間、食事・お風呂の時間などを差し引いて、フリーに使える時間はどれくらいあるかを把握して、その中で何時間は英語の勉強にあてる、何時間は筋トレの時間にあてる、などのスケジューリングが大切です。

一定のスケジューリングをしなければ、弛緩した時間が無為に過ぎてゆき、たとえ集中してタスクをこなした時間があったとしても、それを把握していなければ、客観的にそれが強化され維持されてきているかの経過を判断することもできません。

1日の終わりに、主に就寝前に明日のスケジュールを把握しておくと、今日何をすればいいんだっけと迷うこともないのでオススメです。さらに1日何時間こなすという枠組みを決めていれば、タスク遂行途中でディストラクションに惑わされることも少なくなります。

1日のスケジューリングは勿論ですが、大局的なスケジューリングを定めるのも大切だと思います。例えば英語学習で言えば、何月のTOEICテストを受験すると決めて、逆算的に小さなスケジュールを立てるといった具合です。

スケジュールに沿って、1日を機械的に過ごすということはまさに習慣化、ルーティーン化の入り口であり、無為に1日を過ごして流れ去っていった時間に価値を見出すこと(価値をみすみす取りこぼしていたという自覚)もできますし、自分の時間には価値があるという認識、そしてその認識からタスクに優先順位を付けて、取捨選択をして、決断することができるようになります(例えば、いつもなんとなく参加していた飲み会に費やす時間とお金、英語の勉強に費やす時間を天秤に掛け、どちらに価値があるかを鑑み判断し、結果、飲み会を断って英語の勉強をする、あるいは、飲み会に参加すると英語の勉強の時間がなくなってしまうので飲み会を断る)。

顔面偏差値とペニス偏差値の非対称性

イケメン、美女、ブサイクといった容姿の美醜、各々の顔面偏差値に、私達の人生は否が応でも左右される。私達は自身の顔に翻弄され、また、他者の顔に翻弄され生きなければならない。その人の顔というのは、そのままその人の魅力に直結する。最も広範かつ恒常的で顕在的な力を、私達の顔は有していると言っても過言ではない。それは途方もなく視覚的で分かり易く、文字通り、明瞭に可視化された、優劣を生む根源である。

 

なぜ顔面偏差値が高いことが最も広範かつ恒常的で顕在的な魅力なのかと言えば、その力が常に誰にでも晒されて可視化されており、隠すことのできない、フィジカルなものだからである。例えば、運動能力に長けている個人がいたとしよう。なるほど確かにそれは個人が持つ魅力の一つになりうるけれども、その力を他者に披瀝するには、体育館やレクリエーション施設といった限定的な空間に足を運ばねばならず、故に、その力は部分的かつ一過的、潜在的にならざるを得ない。歌が上手い個人も魅力的だが、カラオケボックスに行かなければその魅力を最大限に発揮することは難しいであろう。さて、しかしながら冒頭で述べた私達の顔面はどうだろうか。それはずっと私達につきまとって離れない。

 

以上のように、相対的に見ていかに顔面偏差値が強固で不動な魅力であるかはご理解いただけたと思うが、私はそこに一石を投じたい。ここで投じる秘策の一投、その魅力の源泉、それはペニス偏差値である。ペニス偏差値と顔面偏差値の共通項はとても多い。両者は共にフィジカルなものであり、一過的ではなく恒常的であり(顔もペニスも取り外すことなぞ出来ず、代替不可能である)、その個人が存ずる空間には常にその顔とペニスがつきまとって離れない。しかし、両者を別つ唯一にして最大の要素、それは、それが常時可視化されているか否かという点にある。顔は常時他者に可視化(ズルムケ化)されているが、ペニスはごくプライベートな限定的空間でしか可視化されることはない。何故ならペニスを顔と同様に常時可視化してしまえば、

 

 

シンプルに捕まる

 

 

からである。今回私が詳述したいのは、まさにタイトルにもある通りこの顔面偏差値とペニス偏差値の非対称性についてである。男女の身体性において、ペニスは直截的に性的なものとしてタブー視されている。しかし、例えば男性の筋肉であったり、女性の胸やお尻、総合的なプロポーションはペニスほどタブー視されておらず、それはいわば準性的な要素(グレーゾーン)として可視化が大方許容されている(厳密には衣服の上から目視することができる)。女性が男性に対して筋肉触らせてと言及するのは成立するが、女性に胸やお尻を触らせてと言及するのはハラスメントに当たる程度の違いはあるが、そういった意味では、男の筋肉よりも、女の胸やお尻といった身体性の方が性的である。筋肉質な人が好き、あるいは、おっぱいが大きい人が好きといった個人的趣向からも分かるように、それらの要素は可視化されているが故にその個人の魅力になり得る。しかし、ペニスはそのタブー性から可視化されることは許されない。

 

極言してしまえば、顔面偏差値とペニス偏差値の非対称性(顔は可視化され、ペニスは可視化されない)はひどく不公平であり、私はペニス偏差値も顔面偏差値と同様に、法的に問題が起こらぬ限りにおいて可視化されるべきだと考えている。この狂言に一定の説得力を持たせる為に順を追って説明していきたい。

 

一対の男と女がデートをする時、その男が掲げるゴールを便宜的にセックスとする。また女も男に好意を抱いており、一定の相互理解があるものとする。この時、両者の脳内には、その脳内の片隅のわりと端の方には、少なからず、この後ゴールに向かうであろうという思案が巡っている。そしてその思案の中には、その男がいかなるペニス偏差値を有しているかという漠然とした不安の残滓があることは否定できない。

 

つまり、女は(その不可視な性質上)男のペニス偏差値をゴール間近でしか目視することができないというリスキーな状況下に追いやられているのである。男の顔面はデート中常に可視化され目視可能だが、ひるがえって、男のペニスはデート中常に不可視化され目視できず、それはやっとゴール間近で目視して確認できるものになってしまうのである。そこで飛来する懸念事項は、イケメンとは概して身長が低いので、それと同様にしてチン長も低いのではないかという疑念、万が一にも、短く小さかった場合の落胆及び幻滅、その情報開示がゴール間近でしか確認できないというリスクマネジメントの欠如。

 

ペニスが大きいことに価値を見出す、それを魅力とすることがホモソーシャル的価値観であることは否定できないが、しかしだからといって、それが絶対的に魅力になり得ないということでもない。例えば中には、顔面偏差値が高ければ、ペニス偏差値が低くても構わないという人もいるだろうし、顔面偏差値もペニス偏差値もそこまでこだわらないという人もいるだろう。しかし、中には、ペニス偏差値が高ければ顔面偏差値がそこそこでもよいという人が

 

 

 

確実に存在する

 

 

 

という希望に目を向けなければならないだろう。そうなると、可視(ズルムケ)化された顔面偏差値と同様に、不可視(皮かぶり)化されたペニス偏差値も可視(ズルムケ)化しなければ不公平であるのは当たり前である。リスクマネジメント的観点からも、そのペニス偏差値はゴール間近になって引き返せない状況下で開示されるものなどではなく、事前に知っておくべき有意な情報であるべきである。この事前の情報開示、不可視からの可視化(皮かぶりのズルムケ化)が可能になれば、「あなた顔は普通だけど、ペニス偏差値は高いからデートしましょう」という会話が交わされるかもしれない。その可能性が0ではないのならば、顔面偏差値と同じフィールドでペニス偏差値を鑑みる必要があるだろう。

 

最後に一つ、バイアスを取り払い、より平易に理解を促すために思考実験をしたい。顔面偏差値という可視化された情報と、ペニス偏差値という不可視化された情報が逆転した場合を考え、上述した男女のデートの状況に当てはめてみよう。つまり、顔がゴール(セックス)目前までは不可視化され、逆にペニスが常に可視化されている状況である。ペニスは常に公の場で露出することを許容され、逆に顔を出すことは許容されない社会を仮定してみよう。すると下記の4通りの社会における②の社会に該当することが分かる。

 

①顔が可視、ペニスが不可視の社会(現行の顔優位の社会)

②ペニスが可視、顔が不可視(ペニス優位の社会)

③顔もペニスも可視の社会(実現すべき平等社会)

④顔もペニスも不可視の社会(完全不可視社会)

 

②の社会は現行の社会とは真逆の社会であり、この社会では顔面偏差値が広範で恒常的な魅力として作用しない。何故なら不可視化され隠されているからである。この世の全男性が銀行強盗の目出し帽をして顔を隠していると思ってほしい。しかし逆にペニスは常時露出している。常時フルチンである。公の場で顔を露出することは恥ずべきことだとタブー視され、法的に禁止されており、お風呂に入る時や、男女がデートをしてゴールする直前など、至極プライペードな空間でのみその露出が許容されている。

ペニスこそが本体であり、あくまで顔は不可視化された付属品に過ぎない。そしてそのペニス偏差値、ペニスの造形や長短、硬度やその持続力などは十人十色であり、それぞれの要素が複合的に混ざり合いその魅力を確定させる。女は男がいかなるペニスを有しているか査定し、より多くの魅力を持ったペニスがイケペニスあるいは美ペニスとしてチヤホヤされ、相対的に魅力のないペニスはブサペニスとしてその地位を甘んじることになる。

女は無論、ブサペニスよりも魅力的なイケペニスとデートをしたいと考える。そしてゴール目前、彼女は男がこれまで被っていた目出し帽を脱がす。すると、そこに想像を超えたブサイクな顔面が現出した。イケペニスではあるが、顔はブサイクである。どうしよう。これまで目出し帽で隠されていたが故に確認することができなかった。もっと前もって目視することができれば、イケペニスかつイケメンの男とゴールすることができたのかもしれないのに。あるいはそこそこペニスでも、イケメンだったらデートしたのに。なんで隠してるの?なんで直前まで隠さないといけないの?!リスクマネジメント的観点からも問題ありなのではないか!?

 

 

現行の社会もまさに同じ状況なのである。

 

 

現行とは真逆の社会を想起することによって、タブー視され不可視化されているペニス偏差値という魅力の源泉を、フィルターをかけずにクリアに見ることができたのではないだろうか。故に①の現行社会も、上述した②の社会もどちらか一方が可視であり他方が不可視な不平等社会であることに違いはなく、私が求める理想社会は、③の、その両者の魅力が可視化された社会である。③の社会ではその魅力の情報に非対称性は無く、事前に顔とペニスの情報開示がなされ、その開示された全情報を総合的に鑑みてから個人を選択することが可能になる。最後の④完全不可視社会は、もはや二つの魅力は力として作用することができず、他の複合的な魅力が作用する社会である。例えば、声がカッコイイ・可愛いであったり、いい匂いがするであったり、知的であったり様々な魅力がその源泉となるであろう。

 

③顔もペニスも可視化された、私の想い描く理想社会を実現する為の現実的な方法論はあいにくまだ発見されていないが、今回のこのテーマに次章があるとすればまさに、その方法論を語るフェーズに移行した時であろう。待て、次号!

ヴァンパイアのメンヘラ学

一時期、海外のヴァンパイア映画(タイトルは『トワイライト』だったと思う)が流行って巷のジャパニーズ乙女達が総じて胸キュンする現象が巻き起こった。見た目は筋骨隆々の白人の長身イケメンだがどこか雰囲気はアンニュイで、そんな彼が実はヴァンパイアであり、愛する女性の血を吸わなければ生きることができず、そんな彼と女性は恋に落ちてしまう。

 

ヴァンパイアの彼としては血を吸ったら牙も出すし自分の正体もバレちゃうし、好きな人の血を吸わないと生きていけないけど、吸ったら吸ったで彼女を傷付けてしまうし、殺してしまうかもしれないという葛藤に苦悶し、彼女も彼女で彼を生かす為に自分の血を吸わせてあげたい気持ちもあれど、吸わせたら吸わせたで自分死んじゃうかもだしという葛藤があり、さてどうする、という大まかなストーリーだった気がする。記憶が曖昧になってしまっているが、そこはご了承いただきたい。

 

さて、今回私が考察したいのは、何故そのヴァンパイア映画が大いなる胸キュン現象を巻き起こすに至ったのかということなのだが、結論から言ってしまうと、それは、ヴァンパイアという存在が、

 

 

究極的な愛を体現している

 

 

からであり、さらに換言すれば、

 

 

究極的なメンヘラを体現している

 

 

からである。これは一体どういうことなのか。順を追って説明するにはまず、そもそも愛とは何かという、最も壮大かつ深淵な、ロマンに満ちたテーマを語らねばならず、私なぞの青二才にはいささか荷が重すぎるので、ここでは便宜的に愛とは何かの定義付けをしたい。愛とは何か。それは一人の特定の存在と、その他大勢の他者とを区別し、前者を特権的地位に置く行為である。

 

一人の女性を愛するという行為は、それ以外の女性と交流することを無論よしとしないし、彼女を全ての優先順位の頂点に置き、彼女を誰よりも理解し、安心させ、誰よりも喜ばせ、楽しませ、可能な限りの力を注ぎ与えることである。

 

そして、この定義における愛の反意語は、平等である。愛と平等は両立し得ない。前述したように、愛とは特定の他者を特権的地位に置く行為であり、ひるがえって、平等は、全他者を区別・差別なく等しく見なす行為だからである。つまり、その両方が合わさった博愛(愛+平等)という思想は、それ自体が矛盾をはらんだものなのである。(博愛主義の矛盾については下記の記事を参照してほしい。)

 

さて、ヴァンパイアは究極の愛を体現していると述べたが、何が究極なのであろう。それは、ヴァンパイアの、愛する者の血を飲まなければ「死んでしまう」という性質に秘められている。貴女の血、つまり貴女という存在がいなくなってしまえば、彼は死んでしまうのである。

 

たまに人間のカップルが冗談交じりに、会えなくて辛い〜死んじゃう〜なぞと戯れているが、ヴァンパイアは冗談とかではなくガチで死ぬのである。あるいは、人間側もガチに、もういい死ぬ、他の子と遊んでたの知ってるから、死んでやる死ぬ死ぬと言う機会もあるかもしれないが、私達ヴァンパイアはそんなことすら言う間もなくガチで死ぬのである。

 

ヴァンパイア自身の死という絶対的かつ決定的なピリオドによって、貴女の存在は誰も辿り着くことのできない唯一無二なものへと昇華され、絶対不可侵の聖域へ達することになる。

 

それはある意味で、というかシンプルに、究極的に重い。例えばそれは、今何処にいるの、誰といるの、何してるの、いつ帰ってくるの、よりも重い。例えばそれは、既読じゃん、返事まだ?、通話しよ?よりも重い。それは、俺以外の男としゃべらないで、俺以外の男としゃべって笑わないで、よりも重い。それは、俺以外の男の連絡先全部消してよ、ブロックして削除してよ、ブロックだけしててもあとで解除できるから、ちゃんと削除までして見てるから、よりも重い。それは、俺以外の人間に会わないでよ、お互い信頼し合ってるならあのGPSのアプリダウンロードして逐一お互いが何処にいるのか把握し合おうよ、よりも重い。

 

彼にとって貴女こそが全てであり、彼は貴女を絶対的に必要としている。彼は貴女に決定的に執着し、絶望的に貴女を求めている。何故ならば、愛する貴女の血を飲まないと死んでしまう身体だから。

 

 

メンヘラここに極まれり。

 

 

ヴァンパイア映画が胸キュン旋風を巻き起こしたのは、かかる究極の愛を描き、その愛の中に身を投じたいと思わせ、その中で葛藤し苦悩するイケメンヴァンパイア、その性質として、首元に噛み付くというサディスティックで嗜虐的な愛情表現が世の乙女達のM気をくすぐったのだろう。

 

このヴァンパイアの性質を汲み取って、女性に噛みグセがあると吹聴し、実際に噛んで歯型を付け、それを自身のマーキングと位置付け悦に入っている人種がいるとかいないとか、ささやかなS気アピールかなんなのか知らないが、あなた人間だから。ヴァンパイアじゃないから。徹頭徹尾の人間だから。やり切るならやり切るで最後までやり切ってほしい。彼女のその傷口から出た血以外飲まないで。飲んで、ああ美味しい!とか最悪言ってもいいけど、それ以外の液体、清涼飲料水、アルコールドリンク一切飲まないで。だって美味しくないはずだから。で、たまに普通の食事するんだけど、嗚呼まずい、やっぱりまずいって言って虚空見つめながらそれ吐き出して。血以外は美味しくないはずだから。全部砂食べてるみたいな感覚だから。で、最終的に死んじゃうから。血飲めないからとかじゃなくてシンプルに空腹で餓死。だって僕ら人間だもん。無理ですよね。うん、無理なんだよ。じゃあ最初からすんなって話。

 

生憎、幸か不幸か、私はその人がこの世からいなくなったら死んでしまうと思えるほどの"ヴァンパイア的"な愛を体験したことが無い。少なからずそのような体験を、恋愛をしたことがある、あるいは、これからしてみたいと切望する乙女達は最後までこの映画を観ることができたに違いない。死んでしまうと思う、いなくなったら自分も死んでしまうかもしれない、、うーーーん、、ママくらいかな。私はそうひとりごちて究極の愛を悟り筆を置く。

陰キャとお酒

お酒、アルコールにまつわるトピックは、往々にして、飲酒運転や、飲酒の強要、他人に絡んだ末に暴行・傷害、そういったネガティブな側面にスポットが当てられる。確かに、かかる犯罪やハラスメントに加担する人種はお酒を飲むべきではないし、そういった人種のせいで、お酒=ネガティブなものという印象を抱くのもしようがない話ではある。

 

しかし、お酒にネガティブな側面があるのと同様にして、ポジティブな側面があることも、読者諸賢には見逃してほしくない。今回私は、そのポジティブな側面に光を当てていきたいと思っている。何故なら、私はお酒のおかげでこの世の中を自由闊達に生きれそうだと希望を見出している人間のうちの一人だからである。

 

なにを大仰なことを、アルコール依存症なのかお前はと思われるかもしれないが、その判断は各自に任せるとして(弁解するとマジでそうだと思われるのが嫌なのだが依存症ではない)、ここで一つ、お酒とは何か、その効用は何か、端的に言い表すと、それは

 

 

陰キャ陽キャにする薬

 

 

であるとひとまず結論付けることができるだろう。お酒は一時的にではあるが陰キャの人間を陽キャにすることができる薬であり、それこそがお酒の効用である。それでは、ここで言う陰キャとは何か。陰キャとは、心が繊細な人間の総称である。

陰キャはコミュ障といった属性と結ばれがちだが、彼らが対人コミュニケーションに一定の障害を感ずるのは、彼らが過度に繊細な感受性を有しているからであり、自己の一挙手一投足が他者の精神の機微にどのように作用するか、逐一自己・他者監視していなければ精神的に安心できない人種なのである。例えば、本来であれば、何も考えておらずその場にそぐわない失礼な言動を他者にしてしまう人種もコミュ障の括りに入れるべきで、何故なら彼自身がコミュニケーションに一定の障害を感じていないだけで実際にそれは存在しているので(つまり繊細ではなく過度に鈍感な感受性がゆえに)、陰キャ=コミュ障と断罪するのは早計である。

 

それでは続いて、ここで言う陽キャとは何か。陽キャとは、心が適度に鈍感な人間の総称である。陽キャは良い意味でその感受性が適度に鈍感であり、他者の心の機微をそこまで読まずともコミュニケーションが可能であり、快活で自信に溢れた人種である。彼らには線引きがない。これ(例えば、ある程度踏み込んだ内容)を伝えたいけど、伝えたら相手が引いてしまうかもしれない、嫌われるかもしれない、傷付けてしまうかもしれない、怒ってしまうかもしれない等の葛藤が、苦悩が、その一線がない。厳密にはあるが、それを苦労せずにまたいで行き来できる存在である。そしてそれをまたいで失敗したとしてもさほど傷付かず、あるいは(無意識的に獲得した)過去の成功体験から自信を持って踏み込むか、失敗したとしても嫌われることもない愛嬌を持っている。

 

ひるがえって陰キャはそうはいかない。その一線をおいそれとまたぐことができない。陰キャは常にその踏み込むか否かの葛藤の中にこそ生きる。何故か。繊細だから。狂おしいほどまでに繊細だから。このままでは陰キャは一生陽キャのようになることができない。眼前には静かに絶望が横たわっている。何故陽キャには容易くできることが自分にはできないのか。これが自分自身の人間性の限界なのか。、ポンポン。ふと後ろから肩を叩く音が聞こえる。振り返るとそこにはお酒君がいる。え、な何ですか急に、陰キャが答える。僕を飲みなよ、お酒が耳元でそう囁く。そう、僕を飲んで、

 

 

僕を飲んで陽キャになりなよ。

 

 

お酒の甘い囁きに頷いた陰キャは指示通りにお酒を飲む。するとどうだろう。今までクッキリと輪郭を持っていた一線がぼやけておぼろげになり、やがて霧消した。そこには今まで抱いていた葛藤やそれに付随する苦悩もない。眼前は開け、なんら障害もなくただただ邁進することができる。なんと自由で闊達なことか。楽しくて仕方がない。コミュニケーションが楽しい。陽キャの見ている世界はこんなにも享楽的なのであろうか。そこには何もない。本来であれば抱いていたであろう羞恥心も、恐怖心も、劣等感も。ただそこにあるのは全能に裏打ちされた自由のみ。フリーダム、イズ、ヒア。

 

お酒は陰キャにかかる効用をもたらすことのできる薬であると、私は思っている。その薬を飲むことによって、過度に繊細であった感受性を適度に鈍磨させることができるのだと考えている。適度に繊細かつ適度に鈍感の黄金比率、センシティブに空気を読みつつも、適所で踏み込むことのできるコミュニケーターへと変貌を遂げる可能性が、夢が、ロマンがそこにはある。しかし、その容量、つまり、自分がどれ位飲酒すればそのステージに到達することができるかは自分で手探りで探すしかない。かなり感覚的な話になるが、酔い度合いを1から10で表すとしたら、その全能フリーダムタイムは6〜8ぐらいの酔い度合いの時に到達することができると考えている。〜5だとまだまだ酔い始めでほろ酔いくらいで到達できず、9〜10だと飲み過ぎで行き過ぎてしまう。過不足のない、自分のゴールデンタイムを探し当てるにはトライアンドエラーを繰り返すしかないだろう。

 

そしてさらに夢のない話になってしまうが、そもそもお酒が身体に合わない、飲んでもすぐ頭が痛くなってしまう、すぐ寝てしまう、飲めるけどそこまでテンションも上がらないし、全能フリーダムタイム?何を言っているんだ?と怪訝な表情を浮かべる人種も多いと思われる。私はそんな彼らを背負って、選ばれし陰キャというひどく独善的なアイデンティティを勝手に確立させ、陽キャと熾烈な戦いに身を投じる所存である。