道化が見た世界

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陰キャとお酒

お酒、アルコールにまつわるトピックは、往々にして、飲酒運転や、飲酒の強要、他人に絡んだ末に暴行・傷害、そういったネガティブな側面にスポットが当てられる。確かに、かかる犯罪やハラスメントに加担する人種はお酒を飲むべきではないし、そういった人種のせいで、お酒=ネガティブなものという印象を抱くのもしようがない話ではある。

 

しかし、お酒にネガティブな側面があるのと同様にして、ポジティブな側面があることも、読者諸賢には見逃してほしくない。今回私は、そのポジティブな側面に光を当てていきたいと思っている。何故なら、私はお酒のおかげでこの世の中を自由闊達に生きれそうだと希望を見出している人間のうちの一人だからである。

 

なにを大仰なことを、アルコール依存症なのかお前はと思われるかもしれないが、その判断は各自に任せるとして(弁解するとマジでそうだと思われるのが嫌なのだが依存症ではない)、ここで一つ、お酒とは何か、その効用は何か、端的に言い表すと、それは

 

 

陰キャ陽キャにする薬

 

 

であるとひとまず結論付けることができるだろう。お酒は一時的にではあるが陰キャの人間を陽キャにすることができる薬であり、それこそがお酒の効用である。それでは、ここで言う陰キャとは何か。陰キャとは、心が繊細な人間の総称である。

陰キャはコミュ障といった属性と結ばれがちだが、彼らが対人コミュニケーションに一定の障害を感ずるのは、彼らが過度に繊細な感受性を有しているからであり、自己の一挙手一投足が他者の精神の機微にどのように作用するか、逐一自己・他者監視していなければ精神的に安心できない人種なのである。例えば、本来であれば、何も考えておらずその場にそぐわない失礼な言動を他者にしてしまう人種もコミュ障の括りに入れるべきで、何故なら彼自身がコミュニケーションに一定の障害を感じていないだけで実際にそれは存在しているので(つまり繊細ではなく過度に鈍感な感受性がゆえに)、陰キャ=コミュ障と断罪するのは早計である。

 

それでは続いて、ここで言う陽キャとは何か。陽キャとは、心が適度に鈍感な人間の総称である。陽キャは良い意味でその感受性が適度に鈍感であり、他者の心の機微をそこまで読まずともコミュニケーションが可能であり、快活で自信に溢れた人種である。彼らには線引きがない。これ(例えば、ある程度踏み込んだ内容)を伝えたいけど、伝えたら相手が引いてしまうかもしれない、嫌われるかもしれない、傷付けてしまうかもしれない、怒ってしまうかもしれない等の葛藤が、苦悩が、その一線がない。厳密にはあるが、それを苦労せずにまたいで行き来できる存在である。そしてそれをまたいで失敗したとしてもさほど傷付かず、あるいは(無意識的に獲得した)過去の成功体験から自信を持って踏み込むか、失敗したとしても嫌われることもない愛嬌を持っている。

 

ひるがえって陰キャはそうはいかない。その一線をおいそれとまたぐことができない。陰キャは常にその踏み込むか否かの葛藤の中にこそ生きる。何故か。繊細だから。狂おしいほどまでに繊細だから。このままでは陰キャは一生陽キャのようになることができない。眼前には静かに絶望が横たわっている。何故陽キャには容易くできることが自分にはできないのか。これが自分自身の人間性の限界なのか。、ポンポン。ふと後ろから肩を叩く音が聞こえる。振り返るとそこにはお酒君がいる。え、な何ですか急に、陰キャが答える。僕を飲みなよ、お酒が耳元でそう囁く。そう、僕を飲んで、

 

 

僕を飲んで陽キャになりなよ。

 

 

お酒の甘い囁きに頷いた陰キャは指示通りにお酒を飲む。するとどうだろう。今までクッキリと輪郭を持っていた一線がぼやけておぼろげになり、やがて霧消した。そこには今まで抱いていた葛藤やそれに付随する苦悩もない。眼前は開け、なんら障害もなくただただ邁進することができる。なんと自由で闊達なことか。楽しくて仕方がない。コミュニケーションが楽しい。陽キャの見ている世界はこんなにも享楽的なのであろうか。そこには何もない。本来であれば抱いていたであろう羞恥心も、恐怖心も、劣等感も。ただそこにあるのは全能に裏打ちされた自由のみ。フリーダム、イズ、ヒア。

 

お酒は陰キャにかかる効用をもたらすことのできる薬であると、私は思っている。その薬を飲むことによって、過度に繊細であった感受性を適度に鈍磨させることができるのだと考えている。適度に繊細かつ適度に鈍感の黄金比率、センシティブに空気を読みつつも、適所で踏み込むことのできるコミュニケーターへと変貌を遂げる可能性が、夢が、ロマンがそこにはある。しかし、その容量、つまり、自分がどれ位飲酒すればそのステージに到達することができるかは自分で手探りで探すしかない。かなり感覚的な話になるが、酔い度合いを1から10で表すとしたら、その全能フリーダムタイムは6〜8ぐらいの酔い度合いの時に到達することができると考えている。〜5だとまだまだ酔い始めでほろ酔いくらいで到達できず、9〜10だと飲み過ぎで行き過ぎてしまう。過不足のない、自分のゴールデンタイムを探し当てるにはトライアンドエラーを繰り返すしかないだろう。

 

そしてさらに夢のない話になってしまうが、そもそもお酒が身体に合わない、飲んでもすぐ頭が痛くなってしまう、すぐ寝てしまう、飲めるけどそこまでテンションも上がらないし、全能フリーダムタイム?何を言っているんだ?と怪訝な表情を浮かべる人種も多いと思われる。私はそんな彼らを背負って、選ばれし陰キャというひどく独善的なアイデンティティを勝手に確立させ、陽キャと熾烈な戦いに身を投じる所存である。

鬼滅の乙女

ある日私は、友人との待ち合わせ時間までに余裕があったので、仕方無くゲームセンターで時間を潰すことにした。種々のクレーンゲームを見て周りながら、早く時間が過ぎないかと少なからず悶々としていた。

 

すると、一人の小柄な黒髪の乙女が小走りで私の前を横切って行った。私は少しばかり驚いて、何をそんなに急いで行くところがあるのだろうか、ここはゲームセンターだのにと怪訝に思い、その乙女へ一瞥をくれると、彼女はある一つのクレーンゲームの前に確固たる意志を宿しながら対峙している様に見えた。

 

その乙女の眼前には、鬼滅の刃の竈門炭治郎の小さなぬいぐるみがぶら下がっていた。おそらく彼女は、私が時間を潰す為にこのゲームセンターに訪れる前からずっとあの竈門炭治郎を手に入れる為に奮闘しており、しかしなかなか取ることが出来ず、とうとう財布の中の100円玉も底をついてしまい、新たに100円玉を手にする為に両替機まで走り、そして、その間に誰かに取られてしまう危険性を考慮し、また走って戻ってきたのだろうと思った。

 

彼女の一見清楚で物静かそうな外見と、何としても取りたいという感情のこもった視線のちぐはぐさに私は心を打たれた。ありていに言ってしまえば胸キュンした。なんとしても竈門炭治郎を手に入れて欲しいと思った。

 

しかし、彼女が100円玉を入れども入れども、無情にも竈門炭治郎にクレーンのアームは届かない。厳密に言えば、届いてはいるけれども、アームの力が貧弱過ぎて炭治郎を毫も揺らすことが出来ずにいた。

 

負け戦であることは一目瞭然、しかし彼女の眼からヒノカミ神楽の火(日)は消えていない。小さな財布を手に取り、もう100円を投入するか否かのささやかな葛藤、しかしそれは彼女の中では最も重大な決断になるかのような重々しさがあり、そのいじらしさに私は心を打たれた。ありていに言ってしまえば胸キュンした。

 

可能であるならば、私の胸中をあえてさらけ出すならば、私が取ってあげたかった。しかしそれはできなかった。何故ならシンプルに気持ち悪いからである。そして、万が一にも、その気持ち悪さを乗り越えて、私が代わりに取りますと声を掛けたとしても、あの竈門炭治郎を取れない恐怖の方がそれを上回った。それほどまでにクレーンのアームは貧弱だった。

 

思い返すと、彼女の少し後ろにたたずんでいた中年の男性従業員。アナタしか、あの鬼滅の乙女を救うことは出来なかったのかもしれない。アナタが、かかる状況にいた彼女を見兼ねて手を差し伸べて、「もう、あとチョンてやれば落ちますんで」と竈門炭治郎を移動させるべきだったのかもしれない。

 

願わくば、鬼滅の乙女のもとに竈門炭治郎があらんことを。

男女のおごるおごらない問題

男女のおごるおごらない問題、割り勘にするのか、はたまた全額男が支払うべきなのかという、もはや男女間の古典的問題と化しているこの命題は、令和になった現代でも喧々諤々の論争を巻き起こしていたり、いなかったりする。

 

この難題を論ずる前に、私自身の立場をクリスタルクリアにしておくと、私はできることなら相手に

 

 

 

全額おごってもらいたい

 

 

 

と思っている。しかし、実際のところは、かかる願望を隠しながらも社会が要請するジェンダーロールに窮屈にも対応しようとする慎ましい三十路のオジサンである。つまり、本心としてはおごりたくないが、それだと"男として"ダサいからおごるのである。

 

私のように声を大にしてそう言う人がいないだけで、ここの村、おごりたくないけどおごる村の男住人はかなりの人口がいると思うし、さらに、おごってもらいたいとまではいかずとも、割り勘がいいと考える男性諸賢は大いにいるだろう。この村に住む住人は、男のプライドとしておごりたい、おごることによって自分の虚栄心を満たしているタイプの男性の価値観が理解できない。確かに、おごった時は刹那的な気持ち良さみたいなものはあるが、別にそこまで無理して感じたいような気持ち良さでもない。

 

そして、この村の住人が辿る空虚なフローチャートは、誰々と飲みに行きたいという欲求の発生→しかしおごらねばならぬという葛藤→割り勘の打診はダサいので黙殺→予定作りがうやむやになり流れる→1人家でNetflix である。ここでの可能性としての不運は、1組の男女が互いに興味を示し、もっと時間と空間を共有したいと思っているにも関わらず、それが実現しない可能性である。例えば、女性側が全然割り勘でよいと考えているにも関わらず、男性側がそれを与せずに、自身の与えられたジェンダーロール(「男がおごるべき」という社会的要請)に押し潰されてしまい、互いの願望が結実しないパターンなどである。

 

ここで、何を大袈裟な、そんなに魅力的な異性だと思っているのであればお前が飲み代の一つや二つ出してやればよいだろう、それが出せないと言うのであれば、そこまで魅力に感じてないのだろうから会わずに勝手に家に篭って一人でNetflixでも観ていろという反論があり得るが、その反論はまさにジェンダーロールに囚われた優等生的回答で、1組の男女が互いに一定の興味を示しているのであれば、答えは明々白々のイーブン、win-winの関係性、つまり割り勘でよいのだ。

 

女性側も女性側で、急進派のおごらない男マジでダサい論者から、穏健派の割り勘で全然良い論者、ごく少数派ながら、なんなら貢がせて欲しい論者までグラデーションはあるが、やはり、割り勘の場合はどうしても、「私っておごられないほど魅力のない女なの?」という疑念は少なからず残ってしまうだろう。それほどまでにジェンダーロールの社会的要請は私達の思考様式に染み付いてしまっている。

 

これまで男女のジェンダーロールに焦点を当ててきたが、男女のおごるおごらない問題の中には更に複合的な社会的要因が存在しているように思われる。分かり易く箇条書きにすると、

これまで話してきた

①男女のジェンダーロール的要因

に加えて、

②年齢的要因

③経済的要因

④当事者間の心理的距離感

 

かかる諸要因が、更にこの問題を複雑化させているように思われる。例えば、自分が女性であったとしても、②年齢的要因によって、つまり自分の方が相手より幾分か年上だった場合、どちらが会計を負担するのか悩ましいところではある。前述した、おごることによってプライドを潤すタイプの男性は③経済的要因においてプラスな人種であり、それ(お金を沢山稼いで使う)が彼自身の男性性に直結している人種に多いと思われる。

 

ここで一番窮屈な人種は、①において男性であり、②において年上であり、③においてマイナス(貧乏)であり、④において心理的距離が遠い存在であるということになる。ありていに言ってしまえば、お金が無く、さらにそれをできるだけ使いたくないと考える年上の男性は恋愛市場で淘汰される前にそもそも参入することができないということになってしまう。

 

ここまで何か長ったらしく書いてきたのに結論が身も蓋も無さすぎて泣けてくるが、私が言いたいのはそういうことではない。一人の男と、一人の女が、純然たる願望によって時間と空間を共有したいと望んだのに、それが複合的な社会的要因によって消失してしまうことはなんとも悲しいことなのかということである。社会的要因に汲み取られずに成立する希望ある男女の関係性を、私達は相互のコミュニケーションで構築してゆかねばならないはずだ。

 

例えば、一人の年上の男性が女性をデートに誘い、共に飲み交わしている。その男性は実は薄給ブラック企業勤務の純朴なサラリーマンなのだが、彼女に対してはそんなことおくびにも出さず、目の前の会話に花を咲かそうと躍起になっている。躍起になりながらもどこか頭の片隅の割と端のほうで、会計の時を思案してしまっている。

 

彼女が思いのほか酒豪だった、自分よりお酒を飲むペースが倍以上速く、こんなことなら飲み放題にしておけばよかった、しかしもう後戻りは出来ない、飲めば飲むほど会計が高くなっていく、自分のお酒はちびちび飲もう、しかし酔っている彼女の少し赤らんだ顔を見ると頬がゆるむ。

 

そしていざ会計の時、その金額に彼は愕然とする。楽しい一時ではあったけれど、そしてその楽しさが全て帳消しになることはないけれど、後に尾を引く金額ではある。本当は割り勘がよい。しかし彼はおごらねばならない。何故なら彼は男性で、さらにその彼女よりも年上だから。ここで割り勘でよいか打診するのは社会的にご法度であるから。男としてダサいから。彼女にも失礼だから。

 

小汚い二つ折りの財布から諭吉を数枚つまみ取ろうとしたその時、彼女が彼の肩をトンと叩く。え、悪いから私も出すよ。彼女はバッグから財布を取り出そうとしているし、しかし、取り出そうとしているモーションだけ見せているかもしれない。男はいやいやいや、大丈夫だよと彼女を一旦制する。いつものやつだ。このあとえっ、ありがとうご馳走様のやつだ。いや、全然それで良い。その言葉を言ってくれるだけでもありがたい。言わない人もいるこのご時世。ただどこかでその感謝の言葉の前にもう1ラリーを期待してしまっている。

 

いや、ホントに払うよ楽しかったし私も。彼女はそう言った。どうやらこれはモーションだけではないようだ、本当に割り勘でいいと思っているのだ彼女は。なんて良い子なんだろう。えっほんとじゃ割り勘でいい?と吐き出したくなる気持ちを抑えて、まだだと自分を制する。まだその言葉を言ってはいけない。まだそれが彼女の本音とも限らないのだから、そう思って、いやいや、本当に大丈夫だよ、俺から誘ったわけだし、と、もう一度彼女を制する彼にはまだ、分かったじゃあ今日は俺が払うから今度おごってよという次の予定を暗に示唆する定石の文句を言えるほどの蛮勇さが無かった。すると一息置いて彼女が言った。

 

いや、本当に今日楽しくてさ、また会いたいなって単純に私思ったんだよね。それでやっぱり会計の時って気遣ってもらってるっていうか、こんなこと言っちゃ失礼になっちゃうかもだけど、変な負担になりたくないなって思って。男の人が出さないといけないみたいな風習あるけど、それで次会いたいのに変な負担になって会えなくなる方が嫌だから。だから割り勘にしよ!って言うか今日私と飲んで楽しかった〜?

 

 

 

こんな女いねぇ!!!

 

 

 

こんなに理解を示してくれる女性はいませんね。なんか自分で書いててちょっと泣きそうになりました、色んな意味で。なんかすみません。よく分からないけれど、なんかすみません。ただ、最後に、私が言いたいことは、社会的諸要因に汲み取られずに「割り勘がいいです」と男性側からなんの臆面も無く打診できる、それが社会的に見てもダサくなく、女性に対しても失礼に当たらない、窮屈ではなく開放的な、風通しのよい社会がいつか実現してほしいということです。

 

 

 

ただ、ラブホ代は男が出しましょう。

 

 

 

ホテル代割り勘は流石にダサいから。

 

 

 

鳳城礼央といふ男

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鳳城 礼央(ほうじょう れお)といふ男を、読者諸賢はご存知だろうか。鳳城礼央は、club Hatch MEVIUSというホストクラブに存在する希有なホストである。ホスト歴八年強、齢三十を数える彼と、−その実力に雲泥の差はあれど−僕はほぼ同じホスト歴であり、また同い年である。新宿歌舞伎町には二百店舗近いホストクラブがあると言われているが、僕は彼がその中でも最も面白く魅力的なホストであると信じて疑わない。

 

この世にイケメンかつ面白い人間など、そう容易く存在してはならない。というか存在しないで欲しい。そもそも、世界の平等を考えるならば、イケメンは概してつまらなくなければならない。逆に、面白い人間は概してイケメンであってはならない。何故なら不平等であるからだ。

 

そして幸か不幸か、その例に漏れず、現実的にイケメンとは概してつまらない。何故ならイケメンという先天的な才能に恵まれた人間は、面白くなるという後天的な努力をせずともモテる、つまり、他者から承認されるからである。先天的な才能に恵まれなかった人間は、かかる人種に嫉妬めいた劣等を感じながらも彼らに追いつけ追い越せと後天的な努力に勤しんだり勤しまなかったりする。

 

もう読者諸賢もお分りだろうが、そこから導き出される一つの帰結は、鳳城礼央はこの世に存在してはならない。何故なら彼は先天的才能にも恵まれ、尚且つ、(する必要も無かった)後天的努力も怠らなかった無双過ぎる存在だからである。

 

そして彼がイケメンであることは自他共に認める事実であるのでひとまず置いておくとして、僕がこの場で特に言及したいのは、その彼の面白さである。

ホストという職業をしている人間は、周知の事実として、良くも悪くも

 

 

 

ナルシスト

 

 

 

であり、ありていに言ってしまえば、自分達の事をカッコイイと信じて疑わない集団である。そしてその当然の帰結として、自分が会話の中でイジられてけなされたり、その場の笑いの道具として使われる事をひどく嫌う。ナルシストとしてのプライドが余計に傷付くからである。

その場に笑いを供給する為に一般的なホストがなし得るコミュニケーションは、イジりやすい後輩なりを見つけて、自分はあくまでイジられない安全地帯に留まりながら磐石に攻め続けることであろう。

ひるがえって、鳳城礼央、この男である。無論彼はイケメンかつナルシストであることに違いはないのだが、他のホストと違う大きな点が一点ある。それは、彼が筋金入りのナルシストであるにも関わらず、何故か

 

 

 

ピエロになれる

 

 

 

ことである。安全地帯から抜け出し、自ら率先して変なことをして周囲を笑わせ、時に奇声を発し、イジられの弾丸を心地良く迎えながら、嬉々として会話空間を踊り舞うのである。言うなれば彼にはピエロとしてのプライドがある。僕はこれまでの人生の中で彼ほどのイケメンがピエロっているシチュエーションに出くわした試しがないし、おそらくこれからもないであろう。彼と一緒に卓に着く時、常にワクワクしている自分がいる事に気付く。互いにピエロになっている時の解放感や、そこで得られる享楽は筆舌に尽くしがたい。僕はそんな彼を敬愛してやまない。

 

僕は彼、鳳城礼央を一ホストとして、また、一友人として、尊敬し愛おしく思っている。これからもアジア一の繁華街歌舞伎町で唯一無二のイケメンピエロとして舞い続け、踊り狂い続けてほしいと切に願っている。お誕生日おめでとう。

共通点探しの落とし穴

コミュニケーションの正攻法、他者と心理的距離感を縮めて親しくなる手段、これはやはり、それぞれの共通点を探すことであると結論付けることができる。例えば、地元が近かったり、年齢が近かったり、好きなアイドルが一緒だったり、食べ物のアレルギーが一緒だったり、誕生日が一緒だったり(運命的ですらある!)、後半述べた共通項は非常に稀であるにしろ、とにかくその他者との擬似的な同化が図れる話題は、彼らの距離感を漸進的にあるいは急進的に接近させる。

 

しかし、この一見正攻法に見えるコミュニケーション方法が、実は正攻法でない理由。当ブログを日常的に熟読玩味している奇特な読者諸賢なら分かるはずである。分かって然るべきである。えっ?なに?ん?分かりかねる?はいはい、そういうのイイから。えっ?ホントに?ガチ?本気と書いてマジじゃなくてガチ?、、それならば致し方がない、説明しよう。

 

その理由は単純明快。一見簡単そうに見える、共通点探し。しかし、実のところ、自己と他者の共通点が見つかることはごく稀なのである。さらに、その共通点を探す場合、当然だが質問をして、その答えを聞きコミュニケーションを進めることになるが、このフェーズのコミュニケーションで運良く一つ二つの質問によって共通点が見つかればよいが、そうでない場合、一問一答のコミュニケーションになりやすく、つまり、この令和元年の時代には似つかわしくないお見合い的なそれになりやすく、ありていに言ってしまえば、とてもつまらないコミュニケーションに堕してしまう危険性をはらんでいるのである。

 

さらに、このコミュニケーション方法を軸にして会話を展開してしまうと、自分の趣味と合わない人は話が盛り上がらない人、一緒にいて楽しくない人、気が合わない人という判断をその個人に下してしまう、逆説的に会話において自助努力をしようとしないとてもつまらない人間になってしまう危険性をもはらんでいるのである。故に私個人の一つの結論としては、会話において共通点が一つでも見つかればラッキー、共通点の一つ一つを宝物として辛抱強く探し続けるスタンスが肝要であるというものである。

 

そして、というかこれが私の今回一番述べたかった箇所なのだが、たとえその宝物である、神様からの授かり物である共通点が見つかったとしても、かえってそれが二人の仲を決裂させる結果を招いてしまう危険性があるのだ。

 

私は野球観戦が好きであり、一介の愛すべき巨人ファンである。巨人が勝てば一人狂喜乱舞し、巨人が負ければ一人阿鼻叫喚する。そして、広島カープに巨人が敗北を喫した場合においては全ての憎悪・憤怒・怨恨を一旦自己の丹田あたりに集めて濃縮したのちに一気に解放させ肉体的・精神的に失禁してしまう。

 

さて、私の目の前にうら若き籠絡すべき乙女が一人座している。私は彼女を小気味好い会話で楽しませながら、それとなく質問をする。「ところでスポーツは好きでおられますか。私は野球観戦が好きです」、と。すると彼女は少し驚いた表情でこちらを見すえながら「えっ、本当ですか。私も野球観戦が好きですよ」といささか高揚しながら答える。見つけた、私は確信する。宝物、見ぃつけた、と。そして私は宝石の様に輝く彼女の大きな瞳を見つめながら重ねて前のめりに質問をする。「それは奇遇ですね。どちらのファンですか。私は巨人ファンです」、と。すると彼女は一拍置いて答える。

 

 

 

広島ファンです」

 

 

 

うんアナタとは結婚できない!!!

 

 

私の両親がそれぞれ巨人とヤクルトのファンだったのもあり、いかに非生産的な喧嘩が繰り広げられてきたのかは言うに及ばず、もし私が彼女と結婚した場合、間違いなく再び非生産的で無意味な喧嘩が繰り広げられるであろうことは自明である。歴史は繰り返される。

 

さらに何が悪いかと言えば、お互いがセ・リーグ球団のファンであるということである。パ・リーグのファンであれば、巨人と争うことになる局面は交流戦日本シリーズに限られ傷は浅い。

 

さらに、私が巨人を応援する情熱と、彼女が広島を応援する情熱とが一致していなければ、まだ傷は浅い。私が熱狂していたとしても、彼女の熱が私より低ければ、はいはいよかったねという感情でさばききれるからである。しかし、その情熱が同量のもので、巨人広島の直接対決、点の取り合いのシーソーゲーム、一喜一憂の応酬、一罵詈一雑言の応酬、この極限の状況において、ついに、私は悟るのである。「共通の趣味、クソくらえ」、と。あまつさえ、これはホラーですらあるが、彼女にどのようにして野球を好きになったのか尋ねた時、「元彼が広島ファンで、その影響」なぞとのたまった場合、広島が得点するたびに、彼女が喜ぶその横顔を見るたびに、私の脳裏にその元彼のフェイスがサブリミナル効果のように飛来し、最早交際続行不可能の状態に陥るであろう。結婚していた場合においては離婚事由になるであろう。

おわかりいただけただろうか。かかる危険性が、共通点にははらんでいるのだ、ということに。

 

そして最後にこの場を借りて、声を大にして伝えたいことがある。私のシュプレヒコールよ、皆に届け!

 

 

巨人、日本シリーズ優勝!!

信じてる!!

空気が読める、気を遣える能力について

実家のすぐ近くに信号が無い短めの横断歩道があるんですが、そこを交通する車は毎回ほぼほぼ決まって歩行者を待たないんですね。信号の無い横断歩道って、歩行者がそこを渡ろうとしていた場合、交通法的にも歩行者を優先して車側が一時停止しなければならない訳ですよ。

 

僕はこのことに関して結構前から義憤を感じていて、まあ、僕がこう、渡ろうとするわけじゃないですか、でも全然車側は我関せずでスピードも落とさずで、何台も通過していって、なかなか向こう側に渡ることが出来ない。けど、僕がこのまま渡って車と激突しても死んじゃうし、結果待たざるを得ないんですが、なんで僕が本来すべき行動をとっていない車側の主張(歩行者をガン無視して通過)を受容して、気を遣って、空気を読まなければならないのかという根源的な葛藤と怒りがそこにはあるのです。

 

そこでふと思ったのは、空気が読める能力、あるいは気を遣える能力というのは果たして、能動的で主体的で優位な能力なのかということなのです。

これまでの人生で僕は空気が読める能力、あるいは人を気遣える能力を獲得すべき優位な能力だと思っているふしがありました。場を俯瞰的に見て他者の状況を把握すること、メタ認知すること、客観性の鬼となること、その結果としてその場に調和を提供すること、そこに対して一定の矜持を持って生きてきました。

社会的にも、空気が読めない人間はKY(死語?)などと揶揄され、ネガティブに解釈されるのが当たり前で、コミュニケーションにおいて場の空気を読む能力が重要視されることは今でも変わってはいないでしょう。

 

しかし、僕が最近になって思ったのは、空気を読む能力とは実は受動的であり消極的であり、“弱者が必要とする”能力なのではないかということです。

僕が自身の視野の客観性、俯瞰性に並々ならぬプライドを持っていたが故に靄がかって見えていなかったことでもあるんですが、シンプルに考えて、空気を読むということは既存の空気にハナから屈服しています。屈服しているから一時的にも継続的にも従う(読む)必要があるのです。

そして、そもそも何故、その場の空気を大前提的に尊重して読む必要があるのかというところから考えなければなりません。そこに自分よりも身分の高い上司がいたり、あるいは自分以外の大多数の人間の総意という数の力もあると思いますが、そういった、自分より上位のもの、優位のものが作り出す不文律こそが空気の正体であり、そしてそれは明々白々、力が作り出したものに他なりません。

 

空気が読める、人に気を遣える人間が優位に立ち、強者なわけではないのです。真の強者とは、そこに存在するだけで人に空気を読ませ、気を遣わせる人間なのです。僕たち弱者は真の強者(それは個人でも、複数人でもあり得ます)からパージされないように、やむなく、空気を読む能力を習得しなければならない状況に追いやられているのです。

 

冒頭で述べた横断歩道の例に当てはめると、歩行者である僕が弱者であり、車が強者と言えるでしょう。一見、法という強い武器を持っているようで、シンプルにフィジカルという部分において敗北しているので、僕は泣く泣く空気を読んで、本来であれば渡れる道も渡らず、彼らが過ぎ行くのを待つほかないのです。もし僕が走行中の車をも跳ね返す全身アダマンチウム合金の人間であったのなら、ひるまずに横断歩道を突き進むでしょうし、僕を眼前にした車はおそらく一時停止しているでしょう。何故なら僕がフィジカルという点において強者だからであり、車側に気を遣わせ、空気を読ませているからです。

 

人が言う、「空気読めよ」という発言は端的に強者を表す発言で、あるいは自分が強者だと勘違いしている人間の発言で、後者の可能性がある場合には非常に楽しいコミュニケーションになるはずです。それはつまり、「そもそもその空気は読む価値があるものなのか」という純然たる疑問が口をついて出てくるからで、革命家たる人物は、全ての空気に対しそれを行い、空気の全てを破壊し、そののちに創造するでしょう。

ラスカルを巡る旅

さて昨今、私は自他共に認めるラスカル系男子の名を欲しいままにしている訳だが、そもそも何故私がラスカルに愛着を持っているのか、自身のルーツを掘り下げて考えていきたい。

ちなみに、ラスカル系男子とは、ラスカルのLINEスタンプを多用することによって、女性陣に(ラスカルに後押しされた)自分の可愛さをこれ見よがしにアピールする愛嬌に満ち溢れた男子の総称である。

私のラスカル愛の芽生えは、小学校低学年までさかのぼる。当時の私は、ぬいぐるみを集めることに人一倍の喜びを感じる少年であった。大小様々な動物のぬいぐるみを、誕生日やそれに準じたイベント毎に両親に買ってもらい、ぬいぐるみ達の集合写真をインスタントカメラで撮り続けるといったライフワークをそつなくこなしていた。

そしてその中でも、私がとりわけ愛着を示していたぬいぐるみ達がいた。彼らの名は、



シッポッポ族



と言った。私が命名したのか、最初からそういった名前が付与されていたのかは定かではないが、取り敢えず彼らは名をシッポッポ族と言った。

そして私が愛したシッポッポ族の中でも、とりわけ愛したシッポッポ族がいた。それは、私が「三兄弟」として位置付けていた、シッポッポ・ジュニア、シッポッポ・ハスキー、そして、シッポッポ・ヌーグの三匹である。

長男のシッポッポ・ジュニアはネズミ色をしたシッポがやけに長いリスであり、次男のシッポッポ・ハスキーは名前の通りシベリアンハスキーであり、そして、三男のシッポッポ・ヌーグは何を隠そうアライグマであった。

私はぬいぐるみを愛し、その中でも、シッポッポ族を特に愛し、更にその中の三兄弟を格別に愛し、その三男であるシッポッポ・ヌーグを至高に愛していた。

私は何処に行くにもシッポッポ・ヌーグと行動を共にした。幼馴染みの家に行く時も、ご飯を食べる時も、寝る時も、いつも私の隣にはシッポッポ・ヌーグがいた。時間がある時はいつもシッポッポ・ヌーグの絵を描き、大きな画用紙を数枚使って巨大シッポッポ・ヌーグを描いて子供部屋に貼り付け幸福感に浸っていた。

しかし、小4になった頃、犬を飼い始めた時から事態は急変する。私が無償の愛を注いでいた対象が、ぬいぐるみから犬へ変化した訳ではさらさらない。ではなく、その犬、チワワのチコが、私のぬいぐるみを次々と喰い殺しにかかってきたのである。

私は慄然としたが、私のシッポッポ族がチコの毒牙にかかるのに、そう時間は掛からなかった。ふとした時、チコを一瞥すると、彼は何かをくわえていた。



シッポッポ・ヌーグである。



私の一瞬の隙をついて、チコはシッポッポ・ヌーグを捕らえていた。私はすぐさまチコがくわえていたヌーグを掴み取って払いのけた。私は安堵したが、何か違和感を覚えた。もう一度ヌーグをしっかりと見た。



左手が無い。



ヌーグの左手が無くなっていた。私は泣いた。白い綿のようなモコモコがヌーグから飛び出ていたのを見て泣いた。すぐさま母親を呼んで、チコによって食い千切られた左手とヌーグの胴体を縫合してもらい事無きをえた。

私にとってのラスカルのルーツとは、つまり、私にとってのシッポッポ・ヌーグである。故に私はラスカルに至高の愛を注ぎ続けるのである。