道化が見た世界

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トイレのドアノックすな

ドアをノックするという所作は、礼儀作法・マナーとして広くあまねく私たちの日常生活に浸透しています。皆さんも、就活の面接会場に入る時や、兄弟の部屋に入る時、ある種、フォーマルでプライベートな空間に自分が入場する際に、ドアをノックすることがこれまで一度はあったであろうと思います。

 

ではそもそも何故私たちは、ドアをノックするのか。そう考えた時まず挙げられるのは、自分の存在をノックの音で明らかにするということです。ドアの先の空間にいるであろう他者に自分の存在を明示する。そして、そのノックには、「誰かいらっしゃいますか」、「失礼ながら今から入場します」という意味内容が含まれていると思います。ドアをノックせずに入場する人間を無礼だなと私たちが感じるのは、そう言った意思表示をせずに勝手な他者の都合で自分のプライベートあるいはフォーマルな空間を害されたと考えるからです。

 

さて、ドアをノックするというマナーについてある程度理解を深めていただけたと思います。が、本日の本題、私がこの度異議を唱えたいこと。それは、「ドアをノックする」という慎ましい礼儀作法がこの世に存在することは大変望ましいことではありますが、

 

 

 

トイレのドアはノックすな

 

 

 

この一言に尽きます。トイレのドアだけは絶対に、未来永劫、徹頭徹尾ノックすな。一体何故なのか。これからそれを説明していきたいと思います。

まず、そもそも、何故人はトイレのドアをノックするのでしょうか。先述した礼儀作法としてのノックの意味内容を踏襲するのであれば、それは、自分の存在を明示し、「誰かいらっしゃいますか」、「失礼ながら今から入場します」と意思表示したことになります。

ん、おかしいな?皆さん思ったと思います。本来の意味内容とはだいぶ食い違っているな、と。皆さんお察しのように、礼儀作法としてドアをノックすることと、トイレのドアをノックすることとは、一見同じ所作に見えますが、完全に対極に位置する、似て非なる行為なのです。

前者のノックは、文字通り礼儀作法にのっとり、謙虚で慎ましい所作でありますが、ひるがえって、後者のノックは、ただ単に

 

 

 

早くウンチがしたい

 

 

 

というむき出しのエゴイスティックな欲望を他者にぶつける為の、軽蔑に値する愚かな行為に他なりません。更に掘り下げて見ていくと、トイレのノックが「誰かいらっしゃいますか」の確認としての、礼儀としてのノックだとする意見もあるかもしれませんが、

 

 

 

いやいるに決まってるじゃん?

 

 

 

 

取っ手青いところ赤くなってるの見えるじゃん?

 

 

 

トイレのドアをノックする人間は、その個室に人が入っているかどうか真に分からないから、純粋な気持ちでノックをしている訳ではありません。そこには単に一つの欲望、今、他人がウンチをしているかどうかなぞどうでもいい。早くウンチがしたい。待っている俺がいるぞ。早くウンチして出てこい。という至極自分勝手な都合を表明しているに過ぎません。相手が個室内にいることを分かっているにも関わらず、自分の都合で早く外に出そうとノックする行為が許されるのは後にも先にも

 

 

 

アナ雪の雪だるま作ろう

 

 

 

の状況下でしかないことを僕たちは知っています。アナが姉のエルサに向かって、トントントトントン♪雪だるま作ろう〜ドアを開けて〜とドアをノックする状況下でのみ許される行為です。(最終的にはあのアナですらエルサに「あっち行って、アナ」と拒絶されてしまいます。)

 

トイレに入っているこちら側からすれば、ありていに言いますが、アナタがトイレに入れず、我慢できずにウンチを公衆の場でまき散らす結果になったとしても至極どうでもいいのであり、アナタはトイレの争奪競争からふるい落とされた負け組なのであり、トイレの現行の占有権は勝ち組である私に一任されている上、かかるトイレが空いていないのであれば、有無を言わずに空くまで待ち続けるか、他のトイレを探し求めて更なる争奪競争に加わる他に選択肢はなく、それをぬけぬけと、いけしゃあしゃあと、勝ち組である私の束の間の憩いの空間を、ノックという本来他者を尊重する為に生まれた行為をねじ曲げて己のエゴイスティックな欲望の発露として用いることによって、無思慮に奪い去り、おかど違いも甚だしい怒りと焦燥をそのノックの強さによって表明するその姿はまさに

 

 

 

クソの極み

 

 

 

に違いありません。更にノックされた側はノックされた側で、束の間の憩いの空間(三大束の間の憩いの空間としてベッド、お風呂、トイレが挙げられる)をせかされて奪われた怒りと、私なぞのビビり人間にとっては、顔の見えぬ他者が少なからずの怒りと共に外で待ち構えているという純然たる恐怖にさいなまれ、ウンチも満足に出すこと足らず、何故にこんなにもせかされているんだ、別に過剰にくつろいでいるわけではない。実家のトイレで便座に座して新聞を広げ、正面に貼り付けられた世界地図を時折見るなどして悠然緩慢にウンチをしている訳では決してない。私はただごくシンプルにウンチをしたいだけなのだ。クソッ!

 

そして、最もよく分からい風習が、トイレに入っている時にノックをされた場合、自分が入っているという意思表示の為に、ノックをし返すというものである。その様相はまるで、トイレ個室内でのっぴきならない状況が生まれていて、しかしそれを外界から目視することができない。その為の、生存確認としてのノック。大丈夫ですか、大丈夫ですか?!のノック。それに答える、はい大丈夫です、大丈夫です!!のノック返し。ノックが返ってこない場合は、何かしらの危機的状況下に置かれているに違いない!

 

 

AEDかよ

 

 

ちなみに私はノックされても決してノック返しはしない。理由はシンプルに意味が分からないからである。

私は真っ当な人間でありたいと思う。もし仮に自分の入った公衆トイレに既に先客がいて個室が閉まっていてウンチができないとしよう。もう漏れそうだ。間に合わない。他のトイレを探す猶予もない。あと数秒歩いたら漏れてしまうだろう。しかし目の前のトイレは閉まっている。怒りと焦燥が私を襲う。ただその一時の感情に任せて、私はノックをしない。他者をいたずらに侵害しエゴをまき散らす人間にはならない。その時私は、全てを受け入れ天を仰ぎ解き放たれた表情をたたえながらウンチをその場にまき散らす。私はそういう真っ当な人間でありたいと思う。