道化が見た世界

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コミュニケーションにおける緊張と弛緩

言語を媒介としたコミュニケーション(会話)において、自己―他者の相互関係の状態は、主として「緊張」と「弛緩」に区分できる。たとえば、彼らが初対面の場合、その心理的距離感は拡大しており、「緊張」状態にあると言える。ひるがえって、幼馴染みと会話する場合、彼らの心理的距離感は接近しており、「弛緩」状態にあると言える。


目上の人間と会話する時、ないし、力関係上、優位にある人間と会話する時、自己が尊敬する人間と会話する時、私達は概して「緊張」状態に身を置くこととなる。更に、プレゼンテーション等の圧倒的複数の衆目が自己を注視している特殊な状況下でも、私達は「緊張」する。


逆に、友人関係に対して私達は、心理的距離感の接近、「緊張」状態から「弛緩」状態への移行を志向する。何故なら、「緊張」状態にあれば、その精神は疲労するし、より多くのエネルギーを消費してしまうからである。精神の安寧と快適さを求めるならば、他者との相互関係において弛緩した関係を求めるのは必然である。友人関係において常に緊張した状態を求める人種はそういない。「敬語」というのは、私は貴方と「緊張」状態にいますという自己表明であり、距離を取りたい人間に「敢えて」敬語を使うのはそのためである。


では、「緊張」状態から「弛緩」状態に移行したいと行為主体が意図し、それを実行する場合、どのような手段が考えられるだろうか。一つは、その他者と「時空間をより多く共有すること」である。これは無意識的に皆がおこなっていることであるとも言えるが(同一の属性、つまり趣味や志向性に親和性がある場合に、彼らは結合し、集団を形成し、時空間を共有する)、たとえば、家族関係における相互関係が一般的に「弛緩」状態にあるのは、彼らが時間と空間をより長期的に共有しているからである。


「冗談関係」という人類学の用語があるが、その状態は、「他の関係においては無礼で望ましくないものとして非難されうる態度や言動が、特定の人々の間では許容さらには期待されている」相互関係を指している。それはつまり、相互認識として「弛緩」状態、信頼関係が実現していることを意味している。


「冗談関係」にある彼らは、自身らが互いに何でも言える(つもりでいる)仲であることに一定の優越を感ずることだろう。その優越は、自己―他者という、その間に決定的な溝があるものを軽々と飛び越えているという認識から起こる。私達が、「自由で打ち解けた関係(にあるように見える)他者」にある種の羨望を見るのは、自己―他者間の、本来あるべき緊張関係を、彼らが脱していると錯覚しているからである。


確かに、「時空間をより多く共有すること」は、自己―他者の距離感を接近させ、「緊張」状態から「弛緩」状態へ移行する為に必要な条件ではあるが、その状態にあれば必ず「弛緩」状態に移行するとは限らない。一方が「弛緩」を期待しているにも関わらず、他方が「緊張」を維持している場合、逆に一方が「緊張」を期待しているにも関わらず、他方が「弛緩」を志向している場合、そして両者が「緊張」状態から移行できない場合などがそれである。


コミュニケーション能力がある程度ある人間であれば、無意識的・無自覚的に相手の期待を受け取り、互いに「弛緩」することが可能であるが、その能力が欠けている人間は、いくら時空間を共有していたとしても、心理的距離感を縮めることが困難である。


その環境を恣意的に創出しているものが、「マニュアル型のコミュニケーション」である。マニュアルの対応というのは、その効率性(店の回転率など)を希求する為に、人間的コミュニケーション(「緊張」から「弛緩」への移行過程)を全て排したものである。顧客との人間的接触を排し、ないし衝突を避け、「敬語」を用いることで心理的距離感を維持し、おもてなしをする(ように見せかける)。私は、かかるコミュニケーションに何の意味を見出すことが出来ないし、実際に意味は無い。そもそも顧客側も人間的コミュニケーションを求めてはいない。


「緊張」状態から「弛緩」状態に移行する為のもう一つの手段は、「笑い」という道具を用いたコミュニケーションである。「笑い」の社会的機能には「緊張の緩和」というものがあり、まさにこれが、自己―他者の相互関係に作用するのである。「茶化し」や「からかい」による笑いは、自己―他者の相互関係の距離感を急進的に接近させる。それと比べると、「時空間をより多く共有すること」は漸進的な接近となるであろう。


つまり、「笑い」を用いたコミュニケーションを用いれば、たとえ他者と時空間を長く共有しなくとも、急進的に相互の距離感を接近することができるのであり、そこに戦略的アプローチが生まれるのである。しかし、「緊張」状態にある他者に「笑い」を用いることは、ある種の「踏み込み」であり、その踏み込みを可能にするには、行為主体の勇気と自信に拠る。


「緊張」した空間を、自己の「笑い」で変質させ、「弛緩」させる勇気と自信、更に、その他者への愛がなければ、その距離感は縮められないだろう。そこで、「無難な消極的コミュニケーション」に終始するのも、踏み込んで「刺激的な積極的コミュニケーション」に辿り着くのも、行為主体の気概に拠るのである。