道化が見た世界

エンタメ・エッセイ・考察・思想

包括的エンターテイメント論

エンターテイメント精神とは、他者を「楽しませたい」と志向し、それを行動へと具現させる個人主体の内的動機である。その精神を有する個人は、他者を楽しませること(「我―汝」の関係性)によってその愛を付与し、それと同時に、他者を楽しませている自己への愛をも感受する行為主体である。そして、笑いとは、エンターテイメントにおける一つの形態である。


エンターテイメントの諸形態には、映画・音楽・演劇・ダンス・遊戯(ゲーム)・テーマパークなど多様なものが存在するが、その中でも最も恒常的かつ広範な形態は、「(言語を媒体にした)コミュニケーション」、つまり「会話」という領域内で生じる笑いである。


たとえば、映画や演劇という形態をとるエンターテイメントは、映画館や会場ホールといった限定的空間の中で初めて機能する。私たちがそのエンターテイメントを享受する為には、当然だが、その空間へ足を運ばなければならない。更に、その空間の時間的持続性も限定的であり、おおよそ数時間の上映時間で、そのエンターテイメント装置としての機能は停止する。故に、エンターテイメント装置としての映画や演劇を、時空間の枠組みとして捉え直せば、その領域は一過的かつ限定的となる。


(拙卒論『笑いと政治』より抜粋)


笑いとは人を楽しませるエンターテイメントであり、そのエンターテイメント時空間が最も恒常的かつ広範な形態は、言語を介したコミュニケーション、つまり「しゃべり」の場である。何故なら、私達は社会的動物であり、他者とのコミュニケーションを迫られる社会的状況に常に居座っているからである。私達は、ディズニーランドというエンターテイメントの聖地に行っても、待ち時間に会話を迫られる動物なのである。


簡略に述べれば、エンターテイメント諸形態には引用した箇所の様に多様なものがあるが、「しゃべり」以外の諸形態は時間的に一過的であり、空間的に限定的である。故に、「しゃべり」という恒常的かつ広範なフィールドで人を楽しませることのできる人間こそ、真のエンターテナーと呼ぶにふさわしい、というのが私の持論である。


今回は、その恒常的かつ広範な「しゃべり」の領域を詳説してゆく。便宜的に、時間的に一過的であり、空間的には固定的である「飲み会」の場をその具体例として想定したい。「飲み会」の場というのは、ある種の祝祭的空間であり、そこでの至高目的は「盛り上がってワイワイやること」である、と取り敢えずは言えるだろう。笑いの無い飲み会というのは存在しえず、その場にいる人間は、(彼に少なからずのエンターテイメント精神が宿っていれば)その空間を盛り上げなければならないというある種の強迫神経的な責務を感ずる。


つまり、笑いとは、その至高目的を達成する上で必須のツールであり、また、非日常のエンターテイメント空間を演出する為のツールでもある。その笑いの段階を三段階に分け、図化したものを以下に示す。

まず、笑いの原初の形態が、一番左に記した「しゃべり(speaking)」の領域である。笑いには言語領域(speaking/writing)と非言語領域(マイム等)があるが、ここで詳述する「しゃべり」の領域には、マイム(挙動や表情)を併用した「しゃべり」を含めている。


冒頭で述べた様に、他者との言葉を介したコミュニケーションは普遍的な社会領域であり、一エンターテナーは、この全ての土台・基盤となる領域で他者を楽しませる能力を有していなければならない。そこで求められる能力は、どちらかと言えば、個対個の信頼関係の深化を希求するコミュニケーションというよりは、個対複数の、可能な限り広範囲な笑いを提供しうるコミュニケーションである。「飲み会」の場で、個対個、つまり全体を度外視した個人二名で盛り上がっていてもしようがないのは自明であり、その状態はファルス学的に美しくないし、非芸術的である。


その全空間をエンターテインさせる為には、全体を見渡すことのできる俯瞰的視野が求められ、空間内構成員のキャラクターを把握し、それを巧みにいじる、あるいは、いじらせる技量が求められる。エンターテナーは、空間内構成員を笑わせることによって、その空間の一体感を醸成することができる。それは直截、その空間の「盛り上がり」の指標となるのである。


次の段階は、原初的土台となる「しゃべり」の段階から一歩高次へと進み、「ガジェット(小道具)」を用いた笑いの形態である。断言できるが、一般的な「飲み会」の場には、「しゃべり」という原初的基盤的な領域で力を具す個人が不在である。彼らはそこで「お酒」というガジェットを用い、それを「コール」というある種の「ゲーム」の枠組み(最後に詳説する形態である)に転用することによって、場の調和を保っているといっても言い過ぎではない。


「ガジェット(小道具)」の機能を純粋に述べれば、そのガジェットがその場に存在することによって生まれる笑いがある。たとえば、小学校の同窓会に当時の写真を何枚か持参したらどうか。空間内構成員は、その写真(ガジェット)を起点として当時を思い起こし、ノスタルジーを感じながら笑いに浸るはずである。さらには、突拍子もなく剣や銃を模したガジェットを持参したらどうか。その空間内でちょっとした寸劇が見れるはずである。


斯様にガジェット(小道具)は、その空間を盛り上げる為の一助になるが、そのガジェットを用いる個人のエンターテイメント能力に拠るものが多い。更に、ガジェットだけでは機能として十全でなく、そこにはエンターテナー主体の「しゃべり」の能力も求められる。しかし、「しゃべり」だけに頼り、一面的に盛り上げる空間よりも、ガジェットを用いることによって、より重層的な空間演出が可能になることは言うまでも無い。


最後に、最も高次化した「ゲーム(枠組み)」の形態であるが、ここではほとんど個人の「しゃべり」における能力は必要とされていない。ゲームの枠組みに身を置けば、その枠組みが空間を盛り上げる装置として機能し、そこに存する空間内構成員は、特に気を張り詰めなくともその空間を楽しむことができる。「王様ゲーム」や「コール(お酒を飲むことを遊戯化した枠組みである)」などはこの形態に属し、「しゃべり」能力を具さない諸個人にとっては、とても手軽なエンターテイメントであると言える。


これまで、「飲み会」という「しゃべり」の空間において成立するエンターテイメントの三形態を概観してきたが、私が想起する理想型は、「しゃべり」・「ガジェット(小道具)」・「ゲーム(枠組み)」この諸形態を有機的に活用できるエンターテナーである。必須である原初的基盤的な「しゃべり」だけでは一面的であり(会話の繋げ方や、掘り下げ方、複数人の扱い方など芸術的側面は多々あるが)、飲み会という時空間を、より芸術的に彩る為には、かかる重層的なアプローチが最も望ましい事は自明である。


エンターテナーを自認する個人は、「飲み会」という空間に限らず、自己が存ずる全空間に対して、確たる目的意識を持ってコミットしなければならない。そして、自分こそがかかる空間を芸術的に彩ることができるという高貴な使命感を持つ必要があるのである。一エンターテナーとして、一道化としての至高の存在価値は、そこにある。