道化が見た世界

エンタメ・エッセイ・考察・思想

【復刻版】カルカッタ・ラプソディ(6)

演劇にカタルシスを感じる人は多いのではないだろうか。演者としての自己に、ということだ。


私は、自己ではない何者か―他者―に変身できるということは、とても新鮮で清々しいことだと思う。何故なら、ストーリーの設定上であれば、人を完膚無きまでに馬鹿にしたり、突然発狂したりしても、私の社会的評価は地に落ちないからだ。


それは本来の自己では無い装飾された自己として処理される。日々の生活の中で抑圧されていた自己が、なんの摩擦もなく外に放出できる可能性を秘めている点において、演劇はカタルシスに繋がる。


かなり私的なことになるが、映画「デスノート」の物語終盤で、主人公の藤原竜也演じる夜神月が、「ここにいる奴らを全員殺せええ!!」と死神に懇願し、発狂するシーンがある。


私は彼の豹変ぶりに役者魂を見たが、それと同時に「私ならもっとうまく発狂してみせる」といった確信を持った。あの発狂シーンだけでもいいから私が演じたいと思った。それを観た人々は、どう思うだろうか。私の常軌を逸した発狂ぶりに感銘を受けるか、あるいは急激な顔面偏差値の低下に仰天するか、おそらく両方だろう。

 
そして、我らCISの行事にも、演劇会なるモノが存在していた。当時の私は英語が喋れなかったし(まぁ今も喋れないが)、究極的に内向的だったので、英語で演技ができるはずもなかった。だから、私は蚊帳の外で安心できるはずだった。


しかし、あろうことか、私は役をもらったのだ。CISの教師陣は、私が英語を喋れないことをご親切にも考慮してくださり、英語を発さなくとも演じられる役を懸命に探してくれた。いい迷惑だった。


そして、私に与えられた役は「奇声をあげる患者B」だった。私はその事実を聞いた時、本当に泣きそうだった。なるほど確かに、英語が喋れなくともこなせる役ではある。私はそこにインド人の深遠なる知恵を見た。


大まかなストーリーはこうだった。街の郊外にとあるヤブ医者がいて、何故かそこには沢山の患者が舞い込んでくる。その中の一人が私だった。そして、そのヤブ医者は患者達をトンカチやノコギリを適当至極に使い回し、順に治していく。


以上がその物語である。というか、この物語にもちゃんとした教訓めいたモノがあるのだろうが、当時の私の英語能力ではそれをキチンと把握できなかった為、上記の様な不可解な話になってしまった。まるで意味が分からない。


私は、そのヤブ医者に治療を受けている時に大声で「あああ!!!うううう!!!」と叫ばなければならなかったのである。こんな惨めな役回りは果たして存在していいのだろうか。私には自分の自尊心が音を立てて崩れていくが聞こえた。正直言って、普通に英語を喋るよりも奇声を発することの方が俄然ハードルが高いだろう。教師陣は一体何を考えているんだと思った。


私は、毎日その「ヤブ医者と患者の物語」の練習の時間が来るのを恐れ、学校に来るのが憂鬱になった。はやく日本に帰りたいと思った。いざ、練習の時間が来ると、私は奇声を発することができなかった。そしてやっとの思いで発した奇声も、聞き取れないほどの小さな声だった。そこで、担当の教師は「もっと声を出さんかい!」と私を怒鳴った。周囲からは心なしかクスクスと笑い声が聞こえてくる。私はその状況に耐えられず、教室を一目散に抜け出した。


「こんな屈辱、生まれて初めてなり」私は泣いた。しかし、この屈辱に耐え忍べば、私は人間として一皮剥けるのではないか、はたとそう思った。そうすれば、このインドという新天地で生きる目的を掴み取ることができるかもしれない。私はそう思い、意を決して教室に舞い戻り奇声を発した。

 
結局、「ヤブ医者と患者の物語」は大盛況のまま幕を閉じた。何がそんなに感動したのかは定かでは無かったが、私は立派に奇声を挙げて観客に爆笑され見事に散ったのだった。


その日を境に、私の自尊心は綺麗に崩壊したが、かえってそれが好都合だった。というのも、三兄弟の間で英語を喋ろうとしない環境が馬鹿馬鹿しく思えてきたからだ。別に英語を喋って兄弟に馬鹿にされたって、痛くも痒くもない。そして恥ずかしくもない。私は奇声を発することでそのハードルを軽々と越えて行ったではないか。


そして、その日から、私の輝かしいインディアン・グロリアスデイズが始まったのである。


と、そんなことは、まるでない。
(続)