道化が見た世界

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「何も生まない会議」論考

「何も生まない会議」とは、水野敬也氏が毎週土曜22:00〜に配信しているUstreamの表題である。大学一年の頃に「ウケる技術」を読んでから、「色々と見えすぎてて怖い」と、畏怖と尊敬の対象であった彼が、活字の言葉を通してではなく、生身の人間として躍動している様を見られる事は、私にとって望外の悦びであった。また、水野氏は慶應義塾大学の卒業生であり、更に、中高一貫の男子校に通っていたという私との共通項は、えも言われぬシンパシーを抱かせる。


「何も生まない会議」は、その中高時代の同級生であった小林昌平氏、山本周嗣氏、古屋雄作氏を一堂に会して雑談する空間を番組化したものである。「何も生まない会議」と銘打っているのは、その他愛も無い「雑談」をただ垂れ流すという謙虚で皮肉な認識があるからだが、(当たり前だけれど)彼らの「雑談」は、私達がするような「雑談」と、一線も二線も画している。


そこにはまず、会話空間を俯瞰するそれぞれの洗練された尖鋭な視点があり、さらに、それぞれのハイクオリティなユーモアがある。その高尚な力を持った者達が織り成す会話は、act-reactの作用(化学反応)によって、より高次の空間へ、より芸術的な空間へ昇華する。その様を見て、「うわっ、これは凄い!」とカタルシスを感じてしまうのは必然である。


しかし、俯瞰的視座や上質なユーモアでさえ、彼らにとってはある種、大前提となる力の様なものであり、「何も生まない会議」の中核をなすのは、矢張り、それぞれの卓見的考察力である。


古屋氏は「飲み終わった後にペットボトルのキャップをキュイッと締め直す仕草」や「駅ホームで乗車しようと待っている人達の顔」にひどく個人のエゴを感じたり、小林氏は、博覧強記という言葉をあてがうに相応しい知識量で、サブカルも含め多様な分野領域を熟知する。水野氏は、自らの人生を物語の様に語りながら、中高時代のヒエラルキースクールカーストを徹底的に分析し、その権力闘争的縦社会の枠組みの中でいかにトップに立つかを熱弁する。その横で、山本氏はガリガリ君の素晴らしさを説く。


その様はまさに群雄割拠と言うに相応しかった。私は彼らの和気藹藹とした交流を見るにつけ、ただただ羨ましいと思った。それと同時にいたく感動した。そこに、私が求めていたモノがあったからである。パソコンの画面越しにではあるが、私は常に彼らの会話の熱量に驚き、また、他でもない私自身の心が浄化されてゆくのを感じることが出来るのだった。

「何も生まない会議」を視聴した後はいつも、自分の中で抑圧されてきた活力が吹き上がる感覚がする。この感覚はおそらく、自分がこれまで見てきた世界が、自分の信じてきた価値が、肯定されたと実感できたからだろう。この会議の中に、救いがある。
@professor_farce14 days ago


See you next Saturday!