道化が見た世界

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リスペクトとディスリスペクト

他者との関わり合い、コミュニケーションの目的は、自己と他者の距離感を縮めることによって信頼を勝ち取ることである、とここでは便宜的に述べておきたい。そして、私は過去記事「非リア充諸賢、覚醒せよ!」において、コミュニケーション能力の内実を以下の様に述べた。


それでは、この曖昧模糊とした力、「コミュニケーション能力」とは何か。それは、「センシティブに空気を読む――大胆に踏み込む」この両極を、有機的に機能させることが出来る力であります。

意識的/無意識的にしろ、コミュニケーション能力を有する人間は、他者を考察・理解し、その他者に寄り添うことができる人種である。寄り添うことによってその他者に尽くすか、或いは支配するかは、権能者の判断に一任される。他者との距離感を縮め(チューニング)、それを積極的に牽引し、目的を達成する力。それこそがコミュニケーション能力の内実である。


例えば、まだ会って間もなく、距離感があるにも関わらず大胆に踏み込みすぎる人種は、馴れ馴れしい・がっついているという負の印象を与えやすく、逆に、時は既に熟しているにも関わらず、センシティブに空気を読みすぎる人種は、よそよそしい・他人行儀であるという負の印象を与えやすい。両者共、他者との距離感の測り(チューニング)を逸しているのであり、コミュニケーション音痴であると言わざるを得ない。


会話とは、両極のコントラストを巧みに操ることであり、今回は、先に論じた「センシティブに空気を読む――大胆に踏み込む」の軸に加え、「Respect―Disrespect」の軸を付け足したい。以下、詳細に入る。


「Respect」とは、他者に対する尊敬の念を表出させた「誉め言葉(ヨイショ)」を主とし、「優しさ」や、その表出としての贈与(プレゼント)等の総称である。無論、その特定他者を真に尊敬する必要など微塵も無く、また、無私の優しさ(献身)を必要とするものではない。(つまり、距離を縮める為の打算的行為で良いのである。)


翻って「DisRespect」とは、「ディスり・いじり(からかい)」の総称であり、ディスり・いじりはユーモアを内包している限りにおいて有効である。(厳密には、ユーモアを内包している方が「より」良い。主観的かつ感情的なディスりやいじりは拙劣である。)


極端な例になるが、常に人を誉める人種が弄する褒め言葉の価値は、相対的に低くならざるを得なく、逆に、常に人を馬鹿にしている人種が弄する誉め言葉の価値は、相対的に高くなる。そういう意味では、常に人を誉める人は、常に人を馬鹿にしている人に比べて損をしているということができる。


Respect/DisRespectの使い分けは、対象他者によって程度の違いがあるが、どちらも活用でき、両極を有機的に機能させることが望ましい。どちらかと言えば、ほとんどの人はRespect側に寄っていると思われるから、DisRespect側の極を意識的に見るようにすると良いだろう。


そして勿論、忘却しないでもらいたいことは、どちらも「センシティブに空気を読む――大胆に踏み込む」の両極の上に機能していなければならない、ということである。(優しすぎると、味気なさを感じ、いじりすぎると、誹謗中傷と受け取られ、結局、負の印象を抱かれてしまう。)