道化が見た世界

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エリートと凡人

エリートと凡人の二項対立は、相互の敵対意識を以って、より顕在化される。


エリート諸賢(実際にエリートでなくとも、エリート意識を持つ人種も含む)は、低学歴、或いは、有名大手企業ではない中小企業に勤務する人種(つまり彼らの定義するところの凡人)を見下し、彼らの人間的価値すらも否定する傾向にある。彼らの価値基準は、主たる社会的価値軸にきっちり沿うように形成され、私はそんな彼らを「俗物」であると考える。


一方の、凡人諸賢は、彼らに対して劣等感を覚えているふしはあるだろうが、社会的価値軸でしか人間を判断できない彼らを見下している。「肩書きにすがって生きてゆくことしかできない」と、エリート諸賢のある種、即物的な側面に人間らしさが無いと非難を浴びせる。私はそんな彼らを「ルサンチマン」であると考える。


エリート諸賢、凡人諸賢は互いに互いを見下し、どちらも己が「価値ある存在」として自認しているふしがある。


エリート諸賢は、自覚的/無自覚的にしろエリートになろうと志向し、そこに辿り着く為の努力をし、それを体現している訳であるから、その点においては一定の評価をしなければならないだろう。その努力を度外視して、不具者である凡人諸賢が「肩書きにすがってしか生きていけない。人間性が欠如している。」と批判するのは、お門違いも甚だしい、まさに凡俗なる馬鹿のみが成し得る所業である。


凡人諸賢が、金科玉条として掲げる「人間性、個性」といった曖昧模糊とした概念は、果たして真に価値あるものだろうか?私の暫定的な個人的見解は、エリート諸賢が有する差別的レッテルによって、そこからこぼれ落ちた、価値ある人間性をすくいあげることが困難になっていることは間違いない、ということだ。簡単に言えば、エリート諸賢は極めて視野狭窄であり、豊饒な世界を見ようとせず、己の自尊が満たされる世界観、価値観でしか、世界を見ることが出来ない、概してつまらない人種である。


しかし、と私はここで一考する。その曖昧模糊とした「人間性、個性」を声高に唱える凡人は、往々にしてそれすらも有していない。この時、四つの場合分けが可能になる。つまり、


(1)エリートかつ人間性を有する人間

(2)エリートではあるが人間性が無い人間(俗物)

(3)エリートではないが人間性のある人間

(4)エリートでもなく人間性もない人間(ルサンチマン


この四種である。(1)の人種は、社会的価値を有しながら個人的価値を有し、豊饒な世界を見ることが可能であろう。(2)の人種は、社会的価値観が支配する領域おいて、その自尊を満たし、豊饒な世界を知ろうともしないだろう。(3)の人種は、社会的価値に支配された(2)の人種に劣等と侮蔑を感じながら、自らの人間性を信じて生きてゆくだろう。(4)の人種は、エリートを見下し、自らのありもしない人間性を声高に叫び、悦に入るであろう。


蛇足ではあるが、番外的に登場するのが、「エリートではないのに自らをエリートだと思っている勘違い馬鹿」である。こういった人種は、エリートからは嘲笑され、自らは凡人を嘲笑し、塵芥(ちりあくた)の自尊を満たし(たつもりになり)、凡人からは「お前、こっちサイドだろ」と憐憫の念を抱かれる。この価値軸は、謙虚の両極に位置する高慢と卑屈の問題であり、話の種類が変わってくるが、私はそんな彼らをサブキャラと名付けているのである。