道化が見た世界

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キョロ充の生態

キョロ充とは一体何か。秀逸な定義を、はてなキーワードより抜粋する。

大学生の生態の一つ。常に人の目を気にしながらも自分にはリア充グループの一員であるというアイデンティティに支えられ、大学生活が充実していると感じている人間のこと。


キョロ充の特徴として、学校の教室や食堂などで、自分の知り合いや顔見知りがいないかどうか、キョロキョロと常にあたりを見回すような行動が見られる。


一人で学食を食べることはこの上ない恥だと感じており、そんな自分を誰か知り合いに見られはしないかと、強い恐怖心や強迫観念を抱いている。


一応リア充グループに属してはいるが、そのポジションは最下層に位置する。別名金魚の糞。また、キョロ充には大学デビューが多いとの報告がある。


かくの如きキョロ充という人種は、私が常日頃から呪文の様に唱えているサブキャラという人種と多く重なる部分がある。キョロ充とは、見るからに「サブキャラっぽい」人種を捉えた概念であると言っていい。


キョロ充諸賢には、自覚的/無自覚的にしろ「力への意志」がある。彼らがリア充グループに金魚の糞の様にまとわり付くのは、リア充諸賢が他ならぬ力を有していると認識しているからである。彼らは可能な限りその力の権威を借用し、自らの地位の向上を図らんとす。借りるに飽き足らず、その構成員として承認されることによって、自他共に認められた「リア充」の称号を得ようとさえするだろう。


また、リア充から見た各キャラの位置付け図として、

リア充>>ヲタ>>>>スイーツ(笑)>>>>DQN>>>[越えられない壁]>>>>キョロ充


というものがあり、リア充はキョロ充を最下層の人種として認識している。そして、我々の目に殊のほか意外に写るのは、オタクという人種を自らの次のポジションに据えているところであろう。その理由は、

ベクトルこそ違えど、自分の軸があり、周りの顔色伺わずに自分の好きなことに夢中になる性質は実は極めてリア充に近いためとのこと。一方で、いつも周りに同調して自分を持たないキョロ充のことを「群れなければ何もできないクズ」と心底見下している。



ということであるが、私が着目するのは「ベクトルこそ違えど、自分の軸があり、」の部分である。私がここで感ずることは、なるほど確かに、彼らが志向するベクトルは違うだろう。しかし、そのベクトルの違いというのが決定的であり、リア充の軸とオタクの軸はそれぞれ次元の違う座標に位置せざるを得ない。そして、私は、前者「リア充」軸を優位と見て、後者「オタク」軸を劣位と見る論者である。


何故ならば、「オタク」の価値軸というのは極めて自己完結的であり、そこに他者の介在する余地は無い。彼らはその自己完結的なぬるま湯的フィールドに居座り、社会的な力を有する「リア充」に劣等感を抱きすらしない。(これは仮説に過ぎないが、オタクという人種は、その過程において、社会的な力が席巻する領域で虐げられ排除された結果、自己完結的世界に逃げ込んだのである。)


その閉塞された空間において、手にした価値を社会へ還元しようとする意思がなければ、それは空虚であるという他あるまい。そして、他者の視線が介在しないフィールドでは、概して人間の精神は弛緩し、見るに堪えないものになる。


更に、先述したキョロ充には社会的な力を帯びようとする気概、つまり、「力への意志」があり、他方、オタクにはそれがない。その点に於いて、それがたとえひどく他者従属的であろうと、私は「キョロ充」の認識眼を評価したい。(「オタク」+「キョロ充」のハイブリッド的人種[半端者であり、両者に唾棄されるべき最も下等な人種]も存在するが、ここでは便宜的に除外する。)


そして翻ってキョロ充が総じて意識せねばならないのは、自らがサブキャラであるという自己認識、また、力の不具者であり、それを欲せんとする慎ましい姿勢である。


その自己批判能力を帯びた謙虚な姿勢を見せるキョロ充諸賢には、総じて伸びしろがある。しかし、往々にして、キョロ充はその慎ましさを忘却してしまう。彼らは自らがサブキャラでるという自己認識を愚鈍にも放棄し、虎の威を借る狐としての身分をおめでたくも脱ぎ払ったつもりになり、身の程をわきまえずに可能な限り付け上がる。その詰めの甘さこそがサブキャラたる所以なのだ。


彼らのその醜態たるや筆舌に尽くしがたく、「オタク」人種のそれをも遥かに超越する体たらくである。その厳然たる現実を垣間見るに、「キョロ充」という人種は結局のところ、サブキャラの地位から抜け出ることは困難であるように思われる。


思うに、「リア充」という人種の中で、意識的にそれを目指した結果にその地位を獲得した人間は殊のほか少ないであろう。彼らは云わば無自覚的/無意識的にその地位に辿り着いているのであり、それは先天的なポテンシャルの有無であるという他ない。


自覚的/意識的な世界に産み落とされた私達は、儚くも、彼らを超越せんことを望む。貴君に「力への意志」があり、比類なき劣等感を克服することのできる力量・忍耐力があれば、その望みを体現することができる、と私は考えている。何の努力もせず、社会へその責任を転嫁し、自己完結的フィールドに居座りふんぞりかえっている怠惰で愚鈍な輩は、その完結的領域で人生を完結すればよい。