道化が見た世界

エンタメ・エッセイ・考察・思想

企業の「お祈りメール」の本質

企業のお祈りメールに就活生一同が心を折られるのは、「自分は社会的に必要の無い人間なのかもしれない」というクリティカルな問題に直面しなければならないからである。故に、祈られる回数が増えれば増えるほど、自己の心の安寧はぐらつき、ゆくゆくは音を立てて崩壊する。


客観的に見れば、一企業とは限定的な社会であり、その限定的な社会に属する人間の、自己への部分的評価は、全自己を包摂しえないはずである。それ故、たとえその部分的評価が、自己を否定する結果になったとしても、自己の全人格を否定しているということには繋がらない。とすれば、「自分は社会に必要とされていない人間である」という認識は錯誤である。


しかし、その一企業が、自分の入りたいと思う企業であった場合、状況は変容する。その時、限定的であった社会は、自己の中でその枠組みを越えうる。自己の企業への思い入れが大きければ大きいほど、「限定的社会」と「全社会」との境界線は薄れゆき、やがては他ならぬ自己によって同一視される。


どうでも良い企業にお祈りされることと、自分が入りたいと思っていた企業にお祈りされることとの精神的絶望感の落差はここにある。


更に、この認識論は「自分は社会的に価値のある人間」という自己認識を前提的に認めているが、一番恐ろしいのは、お祈りされることによってこの認識自体に疑念の眼差しが向かってしまうことにある。


「私はこれまで、とくに意識せずとも、社会的生活を有意に過ごしてきたと思っていたが、もしかしたら、それは全て幻想だったのではないか。実のところ、私は必要とされていなかったのではないか」


これまで、自明だと思っていた自己への自信が、一瞬にして消え去るという恐怖を私たちはこれから味わうかもしれない。自己への部分的否定―全的否定の狭間を耐えず往き来する恐怖に直面しながら、私たちは就活に臨まなくてはならない。


大学受験は「勉強能力」という、自己の限定された部分の評価によって峻別された為に、「勉強が足りなかった」と自己をある程度納得させることができたが、就活は、包括的な「人間性」を評価の対象としている。


そういう性質を考慮すると、私達は自己の全否定ではなく、あくまで社会の部分的な一企業によって否定されただけに過ぎないと納得できる、強い精神力を持たねばなるまい。