道化が見た世界

エンタメ・エッセイ・考察・思想

ファルスのspeaking/writing領域(1)

 私が人を笑わせる為に用いるツールは主に言語(即興・アドリブ的なspeaking/理詰めで推敲できるwriting)や表情(変顔)などである。


 私がこの中で特に魅力を感じるのは、推敲を重ねて完結的な世界を再構築できるwritingにおける笑いである。


 mixiとは私にとって、その再構築された笑いの空間、世界を他者に披瀝する場として機能していると言ってもいい。


 例えば、私が大学一年生の頃に被ったJADE―カタストロフィを挙げると、私はかの一連の事件の流れを頭の中で再構築し、それを言語化し、ユーモラスに語ることに注力した。そこで補完されたユーモラスな世界は、speakingの領域でも生かされることになる。


 私がこれまで生きていた20年の歴史は、ある種、堆積物のようなものであると言える。私は現在獲得している「ユーモラスな視点」で、私の過去をくまなく探索することができる。当時気付かなかった面白い事、なんとも思っていなかったことを、視点を変えて見ることができるようになった。


 それらの記憶を呼び起こす為には、具体的な出来事や、当時の環境を思い出す必要がある。それは小学校の担任の先生の名前であったり、当時通っていた草野球チームであったりする。そういったものを沢山思い出すことによって、私の記憶がより輪郭を持ったものとして浮かび上がってくる。


 writing領域の利点は、絶対不可侵であるということであろう。というのも、もうそこは既に私の構築した世界になっているからである。speaking領域の欠点は、常に私(の笑いの世界)を脅かす他者が存在しているということである。


 私が常々思っていることは、笑いとは空間を形成する上で不可欠な道具であるということだ。不可欠とは言いすぎかもしれないが、少なくとも空間を形成する上で有利に働くことは間違いない。


 ある人間の言動に笑う人/笑わせる人がセットになって、空間は形成されると私は考える。笑う人は、彼の笑いに対して違和感がないから笑っているのであって、無理して笑っているという場合は除く。


 それを空間における和を付与する側/享受する側に分けたとすると、私は「付与する側」であると定義付けることができるであろう。そして、付与する側の人間は、自己の同じ属性である「付与する側」の人間と共存することはできない。上述した、「私にとって脅威になる他者」とは、つまり彼らのことである。


 私は笑いにおいてランク付けをする人間であるが、自分より面白いと感じた人間/自分よりつまらないと感じた人間の両者共(「付与する側」の人間)と、共存することは難しい。私は前者に羨望し、後者に絶望する。


 speakingの領域では、既にinfectedされている空間が数多く存在しているが、writingの領域では、有無も言わさず自己の世界を構築できるので、その点において私は後者を評価したい。


 しかし、speakingの領域において、私の脅威となる他者(「付与する側」の自分より面白い/つまらない人間)が存在していなかった場合に、私がそこで勝ち得る充足感(その共同体の人数が多ければ多いほど)は、writingの領域のそれを遥かに凌駕する。