道化が見た世界

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パワー概念としてのファルス(1)

様々な切り口からファルスについて論ずることは可能である。しかし、未だ体系化に至っていない未完成な論理構造の中で、ファルスについて何から手をつけていいのか分からない現状は、手さぐり的状態にならざるを得ない。


今回は「コミュニケーションにおけるパワー」としてのファルスを考察することで体系的な論理構築の一端を担いたいと思っている。パワーとしてのファルスという認識論は、私がファルスと初めて対峙した時に直観的に感じたものであり、その認識論は今に至るまで一貫性がある。それを紐解くことによって、ファルスの実像が浮かび上がるであろうと考えた。


ファルスとは何か。それは、コミュニケーションのフィールドにおいて発揮し得る広範囲的な力である。例えば、スポーツが得意な人間が存在したとしよう。彼のその運動能「力」は、スポーツといったフィールドにおいて行使可能である。その限定的なフィールド上で、彼はその力を行使し、そのフィールド内に存在する人間へ優位性を確立し、場合によっては彼らを蹂躙し、相対的な地位の向上(意識的、無意識的に関わらず)を図ることが可能である。


ファルスもこのような「力」という概念と同質なものである。そして、その「力」は、スポーツのフィールドといった限定的範囲で行使し得る力(運動能力の高い人間)よりも、より広範な「力」である。何故なら、コミュニケーションのフィールドというのは、我々が常に居座っているフィールドであり、そこには恒常性が帯びている。


私には、その広範で恒常的な「力」であるファルスを手に入れようとする認識があった。先日論じた「笑いの膨張主義的側面」というのはつまり、ファルスを「力」として認識している人間特有の認識であると言うことができるかもしれない。


私は、この「力」を行使することによって、その共同体内で調和を形成し、その空間的芸術性、あるいはファルスそれ自体の芸術性(面白さそれ自体の深み、ニュアンスなど)を希求する。前者は、ファルスの力が及ぼす対外的効用を空間的にとらえ、そこに芸術性(美)を希求し、後者は、ファルスそれ自体が内包する自己完結的な面白さ(私のファルスに対する評価)を希求する。


私が「力」としてのファルスを追い求めるようになったのは、当時の私の卑屈な姿勢、他者従属的な姿勢を自分自身忌み嫌っていたからである。その、自己を他者より下にみる階層的視点からの解放、否、階層的視点が前提的に存在することを承認した上で、自我を一定に保つには、「力」としてのファルスを手に入れ、他者より上に立つ自己を確立する他なかったのである。


論理を組み立てる上で、私の個人的経緯が述べられていることに違和感を抱いた人もいると思うが、私とファルスはほぼ密接に関係付けられる。ファルスへの問いは、私への実存的な問いなのである。


そして、私がこの「力」を実質的に掌握したのは、高校三年の時であった。この転換期(パラダイム・シフト)によって、私の生き方は根源的に変化し、その時に初めて、私は私になった。そういう意味で言えば、私はまだ三年弱しか生きていないことになる。そのパラダイム・シフトによって、一旦は崩壊した自己の価値観・世界観の再構築を急務でせねばならない状況へと私は追いやられた。


自己世界の再構築をするだけでも一苦労であったのに、更に追い打ちをかけるが如く私にのしかかったのが、私の観念的大学像と実際の現実的大学像の乖離における非適応性である。いわば、内憂外患の状況であり、私はそれら、二重の構造的ギャップの再構築にほぼ二年を有したのであった。